figaro

フランス史

ナポレオンはセントヘレナ島でどんな生活だったのか?

1812年のロシア遠征の失敗後、ヨーロッパ各国の反撃により、ナポレオンはエルバ島へと流されますが、1815年にエルバ島を脱出し祖国フランスへ帰国。再び皇帝の座へと返り咲きます。しかし、ワーテルローの戦いにて敗北し、絶海の孤島セントヘレナへと流され、二度とフランスの地を踏むことなくこの世を去ります。果たして、ナポレオンはこのセントヘレナにてどんな生活を送っていたのでしょうか?
朝鮮半島史

金玉均 【朝鮮近代化を目指した開化派のリーダー】

長きに渡る封建国家の影響力のために、近代化が遅れてしまった朝鮮半島。このままでは朝鮮が西欧列強の支配下に置かれるという危機を感じた開化派の人々は新政権を立ち上げ、朝鮮を近代国家とすべく奮闘します。今回紹介する金玉均も、この開化派のうちの1人です。近代化を目指した金玉均の壮絶な生涯を見ていきましょう。
アメリカ史

シービスケット 【全米を揺るがした奇跡の競走馬】

1938年、世界大恐慌時代。アメリカ国民が塗炭の苦しみに喘ぐ中、さほど体は大きくなく、どちらかというと不格好とも言える一頭の競走馬が競馬ファンのみならず全アメリカ国民に勇気を与えます。その馬の名はシービスケット...。この馬のオーナー、調教師、そしてふたりの名騎手とこの馬の織り成す奇跡のストーリーを今回はお届けします。
明治時代

中江兆民 〜東洋のルソーと呼ばれた男〜

1880年代、明治時代の自由民権運動の広がりに貢献した思想家「中江兆民」です。彼は、フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーが著した「社会契約論」を翻訳したことでフランス流の自由民権論を広め、自由民権運動の理論的指導者となりました。これらの功績から中江兆民を「東洋のルソー」と呼ばれています。自由民権運動の指導者として活躍するいっぽうで、岩倉使節団の出仕として採用されたり、東京外国語学校の校長を務めるなど優秀な人物として知られています。しかし、性格は破天荒でたびたび奇行をしていたエピソードが残っています。今回の記事では、中江兆民の生涯と人物像をご紹介します。
インド史

ラクシュミー・バーイー 【インドのジャンヌダルクと呼ばれた王女】

1757年に始まったプラッシーの戦いの後、イギリス東インド会社はムガル帝国を傀儡化し、着々と植民地化を推し進めます。それから約100年後、イギリスの横暴から解放されるべくインド人による初の民族的反乱が勃発。その時、反乱軍の中心的存在となったのが今回紹介するラクシュミー・バーイーです。インド独立のために戦ったインドのジャンヌダルクとは如何なる女性だったのでしょうか?
戦国時代

大久保彦左衛門忠教【旗本の矜持に生きた三河武士】

旗本肝煎として徳川幕府の初期を支えた三河武士、大久保彦左衛門忠教についてお伝えします。三河以来の譜代である大久保一族の有力者であり、家康、秀忠、家光の三代の将軍に旗本として仕えました。戦場においては勇猛果敢な戦いぶりを見せ、江戸幕府成立後、天下が落ち着いた後も旗本としての矜持(プライド)を示しますが、幕府内の権力闘争に翻弄され、さらには旗本と外様大名とのメンツの張り合いに巻き込まれていきました。晩年には『三河物語』を書き、武士としての生き方を世に問うています。
春秋戦国時代

戦国四君から学ぶリーダー像 【春申君・平原君編】

前回は「孟嘗君・信陵君編」にて、斉の孟嘗君(もうしょうくん)と魏の信陵君(しんりょうくん)をご紹介しました。今回は、「春申君(しんしゅんくん)」と「平原君(へいげんくん)」のリーダー像についてご紹介します。智謀の士でありながらも、あえない最後を遂げた春申君と優秀な家臣の諫言を受けて過ちを受け入れた平原君。 二人のリーダーのその後を分けた部分は何だったのでしょうか?まだ読んでいない方は、ぜひ「孟嘗君・信陵君編」もあわせてお読みください。
インド史

ラビンドラナート・タゴール 【アジア初のノーベル賞を受けたベンガルの詩聖】

皆さんは、アジア人で初めてノーベル賞を取った人物をご存知でしょうか?それは、インドのラビンドラナート・タゴールです。タゴールは現在もインド、バングラデシュと言ったアジアの国々で尊敬されており、ガンジーやアインシュタイン、そして日本とも深く関わりがあった人物なのです。今回はそんなタゴールが残した功績について紹介していきたいと思います。
江戸時代

貝原益軒 【日本のアリストテレスと評された医学者】

古代ギリシャの哲学者として名が知れるアリストテレス。その日本版のようだと、幕末にオランダから来日した医師シーボルトに、貝原益軒(かいばらえきけん)は評されます。江戸時代の医学者“貝原益軒”は福岡の黒田藩へ仕え、藩の歴史や博多の概要を記した書物、薬物学・学問・健康などの書物を著しました。生前においてもその名は知られていましたが、死後、和文でわかりやすい教訓書は多くの人々に読まれさらに有名になったと言われています。
平安時代

長嶺諸近と刀伊の入寇 ~もう一つのGHOST OF TSUSHIMA~

1019年(寛仁3年)3月27日、刀伊(とい)の賊船が対馬に何の前触れもなくやってきました。日本史上「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」といわれる事件です。この事件で、刀伊に連れ去られた日本人の消息を独自に調査し、刀伊の正体や事件の詳細を太宰府に報告したのが長嶺諸近という人物です。今回は、「刀伊の入寇」という事件と、愛する家族を救うため、身の危険をおかしてでも海を渡った長嶺諸近についてご紹介します。
タイトルとURLをコピーしました