メアリ・シーコール 【ジャマイカ出身のもう一人のナイチンゲール】

メアリ・シーコール 【ジャマイカ出身のもう一人のナイチンゲール】イギリス史

19世紀に自身の記録、自伝を出版した稀有な女性、メアリ・ジェーン・シーコールについてお伝えします。スコットランド人とジャマイカ人の混血として生まれた彼女は、クリミア戦争に看護師として赴くことを願いますが、人種的理由により却下されてしまいます。しかし、それでもめげずに自力で戦場へと赴き、多くの負傷兵を助けたことで知られています。”もう一人のナイチンゲール”と呼ばれた彼女は一体どんな活動を行ったのでしょうか?

ジャマイカにて生まれる

彼女は1805年11月23日ジャマイカにて、スコットランド軍人のジェームズ・グラントとジャマイカ人女性との間に生まれました。名前はニー・メアリ・ジェーン・グラントです。

母親はジャマイカの首都、キングストンで寄宿舎を経営していました。その母親の経営する寄宿舎「ブランデル・ホール」では、ジャマイカ独特の薬草を用いた医療活動もなされていました。

サトウキビ狩りに従事するジャマイカ人たち ※写真は1891年のもの

当時、ジャマイカの砂糖プランテーションでは多くの奴隷が熱帯病や怪我で寄宿舎に運ばれて来ていたので、メアリの母親は彼らの看護に追われていました。また、ブランデル・ホールは、コレラや黄熱病などの病気から回復した軍人や海軍のスタッフのための療養所としても機能していため、必然的に治療法と衛生管理が確立されていました。

逆にヨーロッパ本土では一部のエリート階級たちにより、民間療法は「魔女狩り」の対象であった影響もあり、医療技術と衛生管理の発展が遅れてしまったという側面があります。

初めての渡英

メアリは父親がスコットランド人の軍人ということもあり、幼少期から高等教育を受ける機会に恵まれ、とても聡明な少女に育ちます。また、医療に従事する母親と接するうちに自らも、その道を歩むことを望むようになります。

ここからは1857年にロンドンにて出版された自伝『諸国を巡っての、シーコール夫人の素晴らしき冒険』に沿って彼女を追っていこうと思います。

実はこの自伝では口述書であるということもあってか、日付を特定していないところが多く、実際にいつどこで彼女がなにをしたということを明確にし難いところがありますが、自伝内の記述によりますと、その後、メアリは“若くして”英国へ渡った”ようです。若干16歳くらいだったようです。

メアリに大きな影響を与えたロンドン

1821年、メアリは初めてイギリスの地に降り立ちますが、浮浪児や出会った子どもたちにその肌の色を茶化されたと口述しています。彼女の肌の色は「わずかに茶色がかっている」というものでしたが、物珍しさの子供たちには黒にしか見えなかったのかも知れません。

逆に、伝記作家の一人であるロン・ラムディン博士は彼女を「ほぼ白人であった」と述懐しているので見る人に寄りけりなのが分かります。

国際経験と結婚

メアリはこのロンドンでの1年間の滞在中にそこでの生活で国際性を強く意識し、もっと世界を知る機会を持ちたいと願うようになります。その後、彼女は一旦ジャマイカへ帰国しますが、およそ1年後の1823年、18歳のときにロンドンに戻ってきました。そのときは西インド、ジャマイカ名産の砂糖煮やジャムやピクルスを大量に持参してやって来たと言います。

2年間ロンドン滞在した後は、再びジャマイカに戻り、母親の下で働きます。この時、アップパーク・キャンプの英国陸軍病院に呼ばれて看護補助を行っています。

メアリ・シーコール肖像画

そのあとも彼女は新たなことをなしたいという貪欲な思いを持ち続け、中南米諸国、バハマ、キューバ、ハイチを訪れて各地の状況などを記録しています。

1836年にはキングストンで貿易商のエドウィン・ホレイショ・ハミルトン・シーコールと結婚し、仲睦まじくブランデル・ホールにて暮らします。この時からメアリ・ジェーン・シーコールと呼ばれるようになります。

度重なる不幸

幸せな時を過ごすメアリでしたが、1843年から不幸が襲います。まず、その年にキングストン火災が発生し、ブランデル・ホールが全焼してしまいます。

幸い寄宿舎の再建は無事に成りますが、翌年に夫のエドウィンが死去し、続けてメアリの母親もこの世を去ります。

悲しみに打ちひしがれるメアリでしたが、彼女の熱い魂は彼女を奮い立たせます。それ以降、彼女は仕事に没頭し、寄宿舎の経営と患者の治療により励むことになりました。

パナマ訪問とコレラ流行

1851年、メアリはパナマでホテルを営んでいる異母兄のエドワードの下を訪れます。このとき、パナマでは数年前かコレラが流行しており、メアリは視察のために訪れたのです。

当時、カリフォルニアはゴールドラッシュの真っ最中であり、中継地であるパナマには貧富を問わず多くの人々が集まっていましたが、これがコレラ流行の一因ともなっていたのです。

ペストの再来とも呼ばれたコレラ菌

メアリは貧富を問わず彼らの治療にあたり大きな評判を得ます。また、この時コレラで亡くなった乳児の検死解行い、彼女の医療の専門的知識と実践スキルを大きく飛躍させます。

一方でメアリ自身もコレラに感染してしまい、危険な状態に陥ることもありました。

クリミア戦争勃発

コレラ患者の看病に当たりながらも、パナマでは母譲りの経営センスを生かし、ホテルをオープンさせ、これを成功させます。その後、ジャマイカ医療当局から要請を受けてコレラと黄熱病の治療に当たり、キューバにも治療に訪れます。

一方、ヨーロッパでは1853年にオスマン帝国を巡り、クリミア戦争が勃発します。ロシアの進出を嫌うイギリスとフランスがトルコ側の支援に回り、大国同士の激突となりました。

大規模な戦争となったクリミア戦争

戦争によって多数の負傷者が発生し、現地は医療スタッフの不足により病気が蔓延している有様でした。イギリス政府はこの状況を打開すべく、フローレンス・ナイチンゲールに働きかけ、看護師の分遣隊を結成。ナイチンンゲールはトルコへと出立します。

このことを新聞で知ったメアリは自分もクリミアへ行くことを決意します。

人種の壁

参加への動機は愛国的なものか、慈善的なものか、あるいはなにか起業を意図してのものなのかは特に示されていません。しかし次のような心情が述べられています。

「どこかの戦争のことを聞いたら、私は一刻も早くその戦場で力になりたいと切望していました。そして、私がよく知っているたくさんのジャマイカ兵たちが英国へ旅立ったと聞くと、なおさら彼らと行動をともにしたいという願望は強まっていったのです」

その後、メアリはクリミアへの第二次看護師派遣に参加を決めロンドンに渡り、陸軍省をはじめとする政府機関に申請しましたが却下されます。また、クリミアの負傷者を支援するために公募されたクリミア基金にも渡航費のスポンサーを申し込みますが、ここでも断られます。

このように彼女の申し出がどこでも拒絶されてしまう背景には人種差別的発想があったのです。

クリミアの戦地へ

そこでメアリは自費でクリミアに渡り、全線で負傷している兵たちのために寄宿舎を作ることを決意します。この時、かつてカリブ海で知り合ったトーマス・デイという軍商人がロンドンに突然やってきて、メアリをサポートすることを約束します。

こうして1855年1月、メアリを乗せた船はクリミア半島へ向け出港。途中、マルタに寄港した際にナイチンンゲールの知り合いの医師と出会い、紹介状を書いてもらいます。

ナイチンゲールとの関係

1855年3月。トルコに到着したメアリはスクタリの野戦病院のナイチンゲールを訪問します。ナイチンゲールはメアリに短い質問をしたあと、彼女のために部屋を用意し、翌朝には朝食を提供します。

英国野戦病院が置かれたスクタル市 ※写真は現在のユスキュダル市

メアリは親切な対応をしてくれたナイチンゲールに対し好印象を抱きます。しかし、一方でナイチンゲールのメアリに対しての感情は複雑なものでした。

後にナイチンゲールは、彼女の義兄弟にあてた手紙の中で、メアリについて「彼女は、『いかがわし』とまでは言わないにせよ、何かしらそれに似ていなくもないようなものを感じた。クリミア戦争のときは、居酒屋のようなお酒を提供する食堂を経営していた。そこで、多くの人を大酒飲みにしていた。」と記述をしています。

また、ナイチンゲールは率いた看護団のメンバーをメアリと交際させないようにすることに苦労したとも発言しています。(※看護団のメンバーはナイチンゲールが直接面接し、選び抜いたエキスパートたちであったため、メアリに影響されては困ったのか?)

フローレンス・ナイチンゲール

しかし、当時の戦況は激しさを増すばかりで、ナイチンゲールの看護団も根を上げるほど熾烈でした。また、ナイチンゲール自身も自分の意見は押し通すタイプで、融通の利かない英国政府役員や軍関係者と度々衝突していました。

こんな大変な状況に、ひとりで軍商人を引き連れて戦地にやって来たと聞いたなら、あまり良い印象を抱かなかったのは仕方ないような気もします。

その後、二人は何度か出会いますが、残念ながら多くのことは書かれていません。

マザー・シーコール

メアリはイギリス軍のクリミア橋頭保であるヴァラクラヴァへ向かうと、ここに寄宿舎「ブリティシュ・ホテル」を建設します。建築資材は近くの村から回収したものなどを流用したため、立派なものではありませんでしたが、料理に力を入れていたため好評であり、販売品も豊富でした。

ブリティッシュ・ホテルのスケッチ図

また、メアリはしばしば部隊に従軍し、キャンプ地で食料を販売したり、負傷兵の看護に当たったので、イギリス軍から「マザー・シーコール」の名で呼ばれ感謝されます。

このとき、メアリは一般的な白のユニフォームではなく、赤や青などの原色を中心としたカラフルなユニフォームを着て活動していたと言います。戦場の陰惨な空気を少しでも明るくしたいという彼女の思いからでした。

戦争終結

多くの犠牲者を出したクリミア戦争でしたが、1856年3月30日にパリ条約が締結され遂に終戦を迎えます。兵士たちは祖国へ続々と帰国を開始しましたが、シーコールは全ての兵たちがクリミアを去るまで留まりました。

一方で、クリミアに留まり続けている間にも食料品や備品などが入荷されてしまったため、多額の負債を抱えることになってしまい、”出発したときよりも貧しくなって”ロンドンに帰国することになってしまいます。

メアリ・シーコール活動範囲 ※前線まで赴いているのが分かる

しかし、多くのイギリス将兵たちはメアリの戦場での活動を認識しており、彼らに大きな影響を与えていたのです。

名声を博す

ロンドンに戻ったメアリでしたが、借金のため債権者たちの取り立てに合う日々を送ります。彼女が受けるにたる公的援助は一切なく、遂には裁判所より破産の宣告を受けてしまいます。

そんなある日、メアリの窮状を新聞が取り上げたため、彼女を救うべく基金設立の運動が行われます。多くの著名人の寄付を受けたことにより、破産宣告は取り下げられメアリは喜びに沸きます。

1857年には「シーコール基金大軍事祭」がロイヤル・サリー・ガーデンズで開催され、クリミアで多くの将兵を救ったメアリへの基金の調達のためにイベントが行われました。このイベントは多くの軍人に支持され、約4万人の観客を動員して大成功を収めたのです。

メアリ・シーコール近影

7月には混血女性による初の自伝記といわれる『諸国を巡っての、シーコール夫人の素晴らしき冒険』が出版されました。この自伝はイギリス市民に好意的に受け止められたため、今でも高い評価を得ています。

その後のメアリ

1867年ごろに再びメアリは財政難に陥りますが、その後も「シーコール基金」は設立され、メアリは活動を続ける事が出来ました。また、ヴィクトリア女王の甥であるヴィクトル王子はクリミア戦争でメアリと面識を持っていたので、英国ロイヤルファミリーのマッサージ師として、招かれます。

メアリ・シーコールの名が刻まれたプレート

こうして精力的に活動を行ってきたメアリでしたが、1881年5月14日、ロンドンのパディントンにこの世を去ります。75歳でした。70年代から亡くなるまでは活動記録が少なくなっているので、体力的に辛かったのかもしれません。

死後、故人の希望に従い、遺体はロンドン北西部のケンサルグリーン、カトリック墓地に埋葬されました。現在のセントメアリーカトリック墓地です。その墓標には「看護師、人道主義者」と記されています。

聖トーマス病院のメアリ・シーコール像

ナイチンンゲールの陰に隠れた一人の混血女性の活躍は、多くの英国人の記憶に刻まれ、2003年にBBCで行われた”100人の偉大な有色人である英国人”では1位を獲得しています。彼女は紛れもなく一人の英国人女性だったのですね。

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