カナディアン・チューリップ・フェスティバルの起源 カナダとオランダの友情の証

カナディアン・チューリップ・フェスティバルの起源 カナダとオランダの友情の証カナダ史

カナダではオランダとの友好を記念し、毎年5月に首都・オタワにてチューリップ・フェスティバルが開催されている。またオタワ市中いっぱいに咲くことから、オタワは「チューリップ・シティ」とも呼ばれている。その数は10万本以上で世界最大規模のチューリップ・フェスティバルとなっている。

『チューリップの国』と言えばオランダ。でも、カナダの首都オタワでも毎年100万本のチューリップが咲き誇り、5月には世界最大級のチューリップ・フェスティバル『Canadian Tulip Festival』が行われているのです。このチューリップ・フェスティバルは来年2022年に70周年を迎えます。では、このフェスティバルはいったいどのようにして始まったのでしょうか?その背景にはチューリップの国オランダとカナダとの温かい友情と人道支援の深い歴史があったのです。

チューリップ・フェスティバルはいつから始まった?

オタワのチューリップ・フェスティバルが初めて開催されたのは1953年。フェスティバルは、アルメニア系カナダ人の写真家マラック・カーシュの提案によって始まりました。マラックはオスマン帝国のマルディン生まれ。カナダには写真家であった叔父を頼って7歳上の兄ユーサフらとともに移住しました。兄のユーサフも多くの政府関係者や著名人のポートレイト写真を撮るなど、プロの写真家として非常に有名です。彼のもっとも有名な作品は、1941年に『ライフ』誌の表紙を飾ったウィンストン・チャーチルのポートレイトと言われています。
そんな兄に負けず、弟のマラックもカナダ勲章、オタワの街のカギを授与された非常に有名な写真家です。マラックは1952年、オランダ王国から毎年贈られてくるチューリップの美しさに心を奪われてオタワ商務庁に交渉、「カナディアン・チューリップ・フェスティバル」を創設しました。
現在フェスティバルは、非営利団体によって運営されています。
では、このチューリップ、どういう経緯でオランダから贈られてくるようになったのでしょうか?

事の起こりは第二次世界大戦

若き日のウィルヘルミナ女王

第二次世界大戦中の1940年5月10日、ナチス率いるドイツ軍はベネルクス3国へ黄色作戦という電撃作戦を仕掛けて、宣戦布告のないままオランダに侵攻。オランダはわずか5日間で降伏することになります。当時のオランダのトップはウィルヘルミナ女王。女王は1890年、若干10歳にして即位してから第二次大戦後まで50年間在位、大戦中はオランダの中立を保とうと尽力しています。
しかし1940年、女王捕縛の命を受けたナチス・ドイツから逃れるために娘と孫たちを連れてイギリスに亡命することになってしまったのです。

そしてオランダ王族はカナダへ

”英国王のスピーチ”で有名なジョージ6世

ウィルヘルミナ女王は英国王ジョージ6世と話し合い、ロンドンで亡命政府を樹立ししてレジスタンス運動を指示します。その後、従妹でありカナダ総督婦人であった人物を頼ってカナダへと亡命した王族一家は、1945年にナチス・ドイツによるオランダ支配が終焉を迎えるまでカナダで暮らすことになります。

1940年ラジオに臨む女王

亡命中の1942年、娘であるプリンセス・ユリアナは第3子を妊娠。ここで困ったことが起きます。カナダは出生地主義をとっており、カナダの地で生まれた全ての者にカナダ市民権が与えられます。オランダは血統主義ですが、オランダ法では多重国籍は認められていないので、プリンセスから生まれたとしても、その子供は自動的にオランダ人とはならないのです。

ユリアナ王女(写真は戦後晩年の物)

この時ユリアナには2人の子供がいましたが、両方とも娘。当時は男子優先で王位を継承していたため、生まれてくる子供が男子だった場合は将来のオランダ国王がイギリス人(当時のカナダはイギリス自治領)となる可能性があり、王位継承が危ぶまれることになります。
そこでカナダは、ユリアナ王女が入院していたオタワ市民病院の一室に限ってオランダの治外法権区域とする法を可決。このおかげで1943年1月19日に生まれたマルフリート王女はめでたくオランダ人となったわけです。(※オランダは1983年より性別は関係なく、絶対長子相続による王位継承制度を導入しています)

カナダ国会議事堂ピースタワー

誕生当日、カナダ政府はカナダ連邦国会議事堂の中心に立つピースタワーにオランダ国旗を掲揚。オランダ国歌を流して女王の誕生を祝いました。マルフリート王女は、カナダで生まれた唯一の外国の王族であり、第二の母国であるカナダに今でも特別な親近感を抱いているそうです。

チューリップ交流が始まる

オランダのチューリップ園

そして、1945年5月のナチス・ドイツの無条降伏をうけて同年8月、晴れてオランダ王族のカナダ亡命は終了します。オランダに帰国後、カナダ政府の生活面での手厚い保護だけでなく、プリンセスたちの幼児教育、3女誕生の際の特別措置、そして戦下にあったオランダ現地でのカナダ軍の類まれなる働きについて感謝の意を示すため、10万株ものチューリップの球根がオタワに贈られてきたのです。現在も、オランダ王国はオランダ球根協会を通して、毎年1万~2万株のリューリップの球根をカナダに贈っています。オタワの地を埋めつくす美しいチューリップの花は、感謝の気持ちを表すと同時に、自由の象徴と言われています。

チューリップのありがとう

このテーマを汲んでチューリップ・フェスティバルでは、チューリップを人命救助、人助け、地域の活性化に貢献する人への感謝をしるしとして贈る『Tulips of Thanks(チューリップでありがとう)』という式典が行われています。2021年はフロントラインで日々働くヘルスケアワーカーへの感謝の気持ちとして、オタワ近郊地域の11か所の病院にチューリップのブーケが送られました。
この「Tulips of Thanks」は、一般市民が地元のヒーローを推薦することもできます。助け合いの精神がチューリップによって70年がたった今も、強く受け継がれているのです。

カナダに春をもたらすチューリップ・フェスティバル

2020、2021年と、新型コロナウイルスによってフェスティバル自体は開催されませんでしたが、チューリップの球根は植え続けられ、オタワの市街地のいたるところに美しい花を咲かせています。今年2021年は、希望の色である「黄色」のチューリップを中心に植えたとのことです。
カナダは緯度が高く、寒い国として知られていますが、チューリップの球根が美しい花を咲かすには寒い冬を越す必要があるといいます。寒く長い冬の終わりを告げるかのように咲き誇るチューリップは、まさにカナダに春をもたらす花。フェスティバルでは会場がいくつかに分けられ、音楽や食、花火などが行われますが、フェスティバル期間を逃してしまっても、5月・6月には街中を歩くだけで色どりどりのチューリップが十分楽しめます。春にカナダを訪れたら、ぜひ、美しいチューリップが一面にひろがるオタワを訪ねてくださいね。

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