日本史

日本史

ジョルジュ・ビゴー 明治日本を見つめたフランス人画家

日本の義務教育を受け、歴史の教科書を手に取ったことがある人なら一度は見たことがある明治日本の風刺画はこのビゴーによって描かれたものがほとんどです。我々の知るビゴーのイラストの多くは日本を蔑視・批判したようなものが多いため、彼が反日本的な人物と思いがちですが、日本で撮影した写真から見て分かるとおり彼自身は大の親日家でした。彼は日本に滞在した17年間で懸命に働く庶民の姿と美しい景観をつぶさに記録しており、繊細で色鮮やかな作品も多く残しています。彼が描いた風刺画の批判は悪魔で日本の急進的な西欧化であり、日本という国自体には深い愛情を抱いていたことがわかります。今回はそんなちょっと変わったあるフランス人画家の人生を辿っていきたいと思います。
戦国時代

千利休の高弟と兄弟子~山上宗二と丿貫~

茶聖と謳われた千利休ですが彼を語る上で欠かせないのがこの二人です。宗二は利休に長きにわたって茶を習い、後に天下人となった秀吉の茶匠となるも次第に不和となり非業の死を遂げることになります。一方の丿貫は若き頃より利休と共に茶道を極めるも当時盛行していた高額な茶器などは用いず、独自の茶道を追及しその清貧の中で茶の本来のあり方を世間に提示しています。今回はそんな茶の道を追及した両者について見ていこうと思います。
南北朝時代

足利直冬~将軍に背いた御落胤~

古今東西、時の権力者には御落胤(隠し子)の噂というものは絶えないものですが、今回紹介する足利直冬は尊氏から長い間実子と認知されず、最終的に父親に真っ向から弓を引いたという日本史において大変珍しい人物ですが、武将としての力量は父・尊氏に劣らず優秀であり、もし直冬が正式な嫡子として誕生していたなら南北朝の動乱もここまで激化しなかったのではないでしょうか。今回は将軍の御落胤として実父を最後まで苦しめた叛逆の貴公子の生涯に迫ります。
日本史

牛島辰熊 鬼と言われた伝説の柔道家

「鬼の牛島」と呼ばれた伝説の柔道家・牛島辰熊です。「柔道」と言えば現在はオリンピックの種目にもなっている格闘技、またはスポーツの一種という感じですが、当時の柔道は戦場における殺人術の一種という認識であり「敗北」=「死」でもありました。牛島の思想も正にそれであり、常に己の命を賭けて試合に挑むというスタイルを貫いていました。また余談ですが、人気漫画「ゴールデンカムイ」の登場人物・牛山辰馬のモデルとも言われています。想像を絶する練習と愛する弟子との出会い...。果たして「鬼」と言われた男の人生とはいかなるものだったのでしょうか?
日本史

荒尾精 日中連携によるアジアの保全を志した男

19世紀、ヨーロッパ列強による植民地獲得戦争はアジアにまで飛び火し「眠れる獅子」と噂されていた清帝国が日本との「日清戦争」に敗北すると西欧列強はここぞとばかりに中国大陸の獲得に乗り出します。また日本も例外ではなくこの戦いでの勝利により多額の賠償金と遼東半島の一部を清より要求し弱小国から大国への足掛かりとします。しかし、そんな日本の要求に「待った」を掛けたのが今回紹介する荒尾精です。荒尾はこの要求は日中両国に将来大きな禍根を残すことを危惧し、明治政府及び一般大衆に向けて「対清意見」という本を刊行し、世間に警告を発します。当時、荒尾はアジアが一丸となって協力し合わなければならないという思想を持っており、そのためには日中の提携が不可欠であると考えていたからです。今回はそんなアジアの平和のために一命を投げ打った稀代の傑物・荒尾精に迫りたいと思います。
戦国時代

戦国武将伝 第十回 正木時茂

関東の雄である北条氏と熾烈な争いを続けた里見家。その里見家の全盛期を支えたのが「槍の大膳」の異名を取った正木時茂です。時茂は里見義堯に仕え第一次国府台合戦や上杉謙信の小田原包囲陣などで活躍し、敵方である北条氏康から「八州の弓取り」と評されるほどでした。また房総からは遠くはなれた越前国の武将・朝倉宗滴からも高く評価されています。
戦国時代

戦国武将伝 第九回 伊集院忠棟

島津家の筆頭家老でありながらも薩摩の「国賊」のレッテルを貼れら謀殺されてしまった伊集院忠棟です。そんな不名誉なレッテルを貼られた彼ですが、実際には筆頭家老として内政を取り仕切り、茶の湯・歌道に通じていたため上方の武将と親交があり世の情勢に深く通じてもいました。また彼の死が関ヶ原の戦いの際に島津家が少数の軍勢しか動員できなかった遠因ともなっています。
戦国時代

戦国武将伝 第八回 真田信綱

真田家と言えば智謀の士のイメージが強いですが、今回紹介する真田信綱は武勇で知られていた人物です。信綱は幼い頃から父・幸隆(幸綱)と共に武田信玄に仕え、真田家の家督を継ぐと三尺三寸の大太刀を振るい武田家の勢力拡大に貢献します。また信綱率いる騎馬隊約200騎は信濃領主の中では最大であり、最強と謳われた武田騎馬軍の一角を担っていたことが分かります。今回は武勇によって真田の名を知らしめた信綱の活躍に注目していきたいと思います。
戦国時代

戦国武将伝 第七回 斎藤朝信

上杉謙信に仕えて「越後の鐘馗」の異名をとった斎藤朝信です。朝信は謙信政権下で政務奉行を務め、軍制上では上杉家精鋭部隊・七手組の隊頭でもありました。文武両方に優れた朝信は武骨者の多い上杉家にとって頼もしい存在であり、謙信の重臣として厚い信頼を受けています。今回は忠義、仁愛を重んじ、士卒をいたわり、百姓をいつくしみ万人から慕われた斎藤朝信の人生を追いかけて見ようと思います。
戦国時代

戦国武将伝 第六回 依田信蕃

本能寺の変の後、旧武田領である甲斐・信濃は空白地となり周辺大名の争奪戦が繰り広げられます。いわゆる「天正壬午の乱」です。最終的に徳川家康がこの戦いを制し、後の天下人への足掛かりを得るわけですが、そのきっかけを作ったのがこの依田信蕃です。彼は旧武田家臣でありながら主家滅亡後家康に仕え、甲斐・信濃を転戦。信蕃の活躍により徳川家は五ヶ国を領有する大大名へと成長します。これにより家康は秀吉と対等に小牧・長久手にて戦うことが可能となったのです。今回は家康の天下を陰ながら切り開いた男・依田信蕃の生涯に迫ります。
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