日本史

日本史

中村天風 【あの大活躍メジャーリーガーも学んだ稀代の伝道師】

1919年(大正8年)に創立された財団「天風会」は、中村天風が「命の力」を発揮するために考案した「心身統一法」の普及と啓蒙活動を行っています。これは何を目指すものかといいますと、幸せで充実した毎日を過ごし、「成功と繁栄」、「健康と長寿」、「心の平安と安心」という3つの幸せをつかみとろうということなのです。心身統一法は、心と体の両面の多岐にわたる方法からなっており、普段の生活を送りながら、積極的な心をつくり、健康な身体をつくっていくことができるようになるものと言われています。この心身統一法を考案した、財団の名前にもなっている中村天風、本名中村三郎、1876年(明治9年)に生まれ、1968年(昭和43年)に92歳で亡くなったその人の波乱の人生をご紹介しましょう。
日本史

来栖良 青い目をした日本兵パイロット

現在日本ではハーフ(混血)と呼ばれる方が芸能界などでも多く活躍されているので、珍しい存在ではなくなりつつありますが、第二次世界大戦当時は人種差別の概念は根強いものであり多くの”ハーフ”と呼ばれる人たちは己のアイデンティティに葛藤を抱えながら過ごしていました。今回紹介する来栖良は日米の混血児という立場ながらも多くの日本兵たちから信頼を勝ち取り、最終的に悲劇的な最後を遂げた人物です。今回はそんな”青い目をした日本兵パイロット”についてご紹介していこうと思います。
日本史

白鳥由栄 昭和の脱獄王 4度の脱獄に成功した男

「昭和の脱獄王」の異名を持つ白鳥由栄は”脱獄不能”と言われていた4つの刑務所から脱獄を敢行し、看守の間では「一世を風靡した男」とも言われた人物です。身長は157㎝と当時としても小柄な体格でしたが、収監中に手首につけられた鎖を引きちぎったり、身体中の関節を自在に外したりと、とんでもない特異体質な人間でもありました。またこの白鳥由栄も前回紹介した伝説の柔道家牛島辰熊と同じく人気漫画「ゴールデンカムイ」の登場人物である”白石由竹”のモデルでもあります。はたして脱獄と収監を繰り返した脱獄王とはいったいどんな奴だったのでしょうか。
日本史

ジョルジュ・ビゴー 明治日本を見つめたフランス人画家

日本の義務教育を受け、歴史の教科書を手に取ったことがある人なら一度は見たことがある明治日本の風刺画はこのビゴーによって描かれたものがほとんどです。我々の知るビゴーのイラストの多くは日本を蔑視・批判したようなものが多いため、彼が反日本的な人物と思いがちですが、日本で撮影した写真から見て分かるとおり彼自身は大の親日家でした。彼は日本に滞在した17年間で懸命に働く庶民の姿と美しい景観をつぶさに記録しており、繊細で色鮮やかな作品も多く残しています。彼が描いた風刺画の批判は悪魔で日本の急進的な西欧化であり、日本という国自体には深い愛情を抱いていたことがわかります。今回はそんなちょっと変わったあるフランス人画家の人生を辿っていきたいと思います。
戦国時代

千利休の高弟と兄弟子~山上宗二と丿貫~

茶聖と謳われた千利休ですが彼を語る上で欠かせないのがこの二人です。宗二は利休に長きにわたって茶を習い、後に天下人となった秀吉の茶匠となるも次第に不和となり非業の死を遂げることになります。一方の丿貫は若き頃より利休と共に茶道を極めるも当時盛行していた高額な茶器などは用いず、独自の茶道を追及しその清貧の中で茶の本来のあり方を世間に提示しています。今回はそんな茶の道を追及した両者について見ていこうと思います。
南北朝時代

足利直冬~将軍に背いた御落胤~

古今東西、時の権力者には御落胤(隠し子)の噂というものは絶えないものですが、今回紹介する足利直冬は尊氏から長い間実子と認知されず、最終的に父親に真っ向から弓を引いたという日本史において大変珍しい人物ですが、武将としての力量は父・尊氏に劣らず優秀であり、もし直冬が正式な嫡子として誕生していたなら南北朝の動乱もここまで激化しなかったのではないでしょうか。今回は将軍の御落胤として実父を最後まで苦しめた叛逆の貴公子の生涯に迫ります。
日本史

牛島辰熊 鬼と言われた伝説の柔道家

「鬼の牛島」と呼ばれた伝説の柔道家・牛島辰熊です。「柔道」と言えば現在はオリンピックの種目にもなっている格闘技、またはスポーツの一種という感じですが、当時の柔道は戦場における殺人術の一種という認識であり「敗北」=「死」でもありました。牛島の思想も正にそれであり、常に己の命を賭けて試合に挑むというスタイルを貫いていました。また余談ですが、人気漫画「ゴールデンカムイ」の登場人物・牛山辰馬のモデルとも言われています。想像を絶する練習と愛する弟子との出会い...。果たして「鬼」と言われた男の人生とはいかなるものだったのでしょうか?
日本史

荒尾精 日中連携によるアジアの保全を志した男

19世紀、ヨーロッパ列強による植民地獲得戦争はアジアにまで飛び火し「眠れる獅子」と噂されていた清帝国が日本との「日清戦争」に敗北すると西欧列強はここぞとばかりに中国大陸の獲得に乗り出します。また日本も例外ではなくこの戦いでの勝利により多額の賠償金と遼東半島の一部を清より要求し弱小国から大国への足掛かりとします。しかし、そんな日本の要求に「待った」を掛けたのが今回紹介する荒尾精です。荒尾はこの要求は日中両国に将来大きな禍根を残すことを危惧し、明治政府及び一般大衆に向けて「対清意見」という本を刊行し、世間に警告を発します。当時、荒尾はアジアが一丸となって協力し合わなければならないという思想を持っており、そのためには日中の提携が不可欠であると考えていたからです。今回はそんなアジアの平和のために一命を投げ打った稀代の傑物・荒尾精に迫りたいと思います。
戦国時代

戦国武将伝 第十回 正木時茂

関東の雄である北条氏と熾烈な争いを続けた里見家。その里見家の全盛期を支えたのが「槍の大膳」の異名を取った正木時茂です。時茂は里見義堯に仕え第一次国府台合戦や上杉謙信の小田原包囲陣などで活躍し、敵方である北条氏康から「八州の弓取り」と評されるほどでした。また房総からは遠くはなれた越前国の武将・朝倉宗滴からも高く評価されています。
戦国時代

戦国武将伝 第九回 伊集院忠棟

島津家の筆頭家老でありながらも薩摩の「国賊」のレッテルを貼れら謀殺されてしまった伊集院忠棟です。そんな不名誉なレッテルを貼られた彼ですが、実際には筆頭家老として内政を取り仕切り、茶の湯・歌道に通じていたため上方の武将と親交があり世の情勢に深く通じてもいました。また彼の死が関ヶ原の戦いの際に島津家が少数の軍勢しか動員できなかった遠因ともなっています。
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