国友一貫斎 【東洋のエジソンと呼ばれた江戸時代の奇才】

国友一貫斎 【東洋のエジソンと呼ばれた江戸時代の奇才】江戸時代

国友 一貫斎(くにとも いっかんさい 1778年- 1840年)は鉄砲鍛冶師、発明家。幼名は藤一。号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作し発明家として活躍した。

みなさんは「国友一貫斎」と言う人物をご存知でしょうか?江戸時代中期に活躍した発明家で、日本で初めて空気銃、反射望遠鏡の開発に成功しました。また月や土星、太陽と、星を観測した際のスケッチが残っていることから、物の発明だけでなく、天文学にも携わっていたことが分かります。江戸時代に様々な物の発見、発明をした国友一貫斎。本記事では、彼がどのような生涯を送ったのか見ていきます。

鉄砲の里に生まれる

国友一貫斎屋敷 ※wikipediaより

国友一貫斎が生まれたのは安政7年(1778年)の近江国国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)で、戦国時代より「堺」「根来」と並ぶ鉄砲鍛冶の生産が盛んな土地でした。また国友家は幕府の御用鉄砲鍛冶家に指定されており、一貫斎も17歳で家督を相続し、鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継ぐことになります。

彦根事件

一貫斎作の大筒(百目玉筒) ※国友鉄砲の里様より

一貫斎が34歳の時、国友家は彦根藩より御用掛(ごようがかり)となるよう命ぜられ、彦根藩より200目玉の大筒を造るよう注文を受けます。しかし、同じ国友村の年寄4家はこれに異議を唱えます。年寄4家からすれば自分たちを差し置いて、一貫斎だけが注文を受けることに大いに不服だったのです。

もともと鉄砲鍛冶の間には古くから4人の「年寄」を中心に「惣鍛冶」とか「仲間」とか呼ばれる同業組合が存在しており、年寄が受注を受けてから割り振るという決まりがあったので、この藩令は認められないと訴えたのです。

鍛冶屋職人の年寄の反発が癪に触ったのか、彦根藩は国友村は藩内への出入り禁止と国友への鉄砲注文を一切禁止しました。これにより国友村は仕事が出来なくなってしまったため、怒った年寄たちは、今度はなんと江戸に直接訴えます。

一大争議となったこの事件は”彦根事件”と呼ばれ6年間にもおよぶ抗争に発展し、その間、一貫斎は、文化13年(1816年)に証人として江戸に呼び出され、長期滞在を余儀なくされます。最終的に年寄側の敗訴となり、一貫斎は彦根藩の御用掛として飛躍していくこととなります。

空気銃を作る

一貫斎作「気砲」 ※国友鉄砲の里様より

証人として江戸に滞在していた時のことです。一貫斎は膳所藩に仕えていた眼科医・山田大円に出会い、オランダ渡りの空気銃の存在を知ります。そして文政元年(1818年)に山田の自宅にて実際の空気銃を手に取ります。この空気銃は丹後峰山藩主・京極高備を通して、山田大円が借り受けたものだったのですが、破損していたので使用は不可能でした。

一貫斎が著した「気砲記」 ※国友鉄砲ミュージアム様より

しかし、一貫斎はこれを僅か短期間にて修理してしまい、さらに自らの手で新たな空気銃の製作に着手し、翌年の文政2年(1819年)にこの空気銃を元に改良型である「気砲」の発明に成功します。この気砲は好評であり、多くの大名がこぞって注文を依頼しましたが、残念ながら暗殺に使用される恐れがあるとされ、後に幕府により生産は中止となってしまいました。そのため、現在、国内に残っている当時の空気銃は20丁ほどだと言います。

反射望遠鏡を作る

現存する反射望遠鏡 ※上田地域広域連合様より

気砲の発明から翌年の文政3年(1820年)、一貫斎は尾張犬山藩附家老である成瀬正寿宅で、オランダ製のグレゴリー式反射望遠鏡を目にします。当時、鏡を使用しない屈折望遠鏡は日本国内で自作されていたのですが、反射式の望遠鏡はありませんでした。これに刺激を受けてか、一貫斎は自らの手で国産の反射望遠鏡を作ることを決意します。

文政4年(1821年)江戸より帰村した一貫斎は様々な発明品を開発する傍ら天体望遠鏡の研究にも力を入れます。そして、天保3年(1832年)に一貫斎は反射望遠鏡の作成に取り掛かり、翌年の天保4年(1833年)に国産第一号である天体望遠鏡を完成させました。

月のスケッチ図 ※wikipediaより

この望遠鏡の精度は凄まじく、口径60mmに60倍の倍率。今ではもっと高性能な望遠鏡もたくさんありますが、これくらいの性能でも、水星や月の表面を観測することができるのです。また、鏡の精度は2000年代に市販されている望遠鏡に匹敵するレベルと言われています。一貫斎はこの望遠鏡を使い、緻密な観測記録を残したので、これを見た幕府天文方の役人たちは驚愕しました。

飛行機も作ろうとした?

空気銃と望遠鏡が着目されがちですが、これ以外にも一貫斎はたくさんの発明品が発明しています。
・文政7年(1824年)には神社に奉納するための「神鏡」を改良・考案し、国友日吉神社などにこれを奉納。
・文政9年(1826年)松平定信の命により、鋼鉄製の連発式クロスボウである「鋼製弩弓」を発明。
・文政11年(1828年)には照明器具の一種である「玉燈」と墨の濃さが調節できる万年筆「御懐中筆」を発明。

”阿鼻機流”の設計図 ※国友鉄砲ミュージアム様より

また、一貫斎は「阿鼻機流」とよばれる飛行機の開発も考案しており、現存する図案によれば横幅7間4尺(約13.3メートル)ほどの大きさで中に人が乗り込み、ペダルを踏んで翼をばたつかせて飛行するというものですが、到底飛行できるものではなく実用化には至りませんでしたが、一貫斎以外に江戸時代、飛行機の図面を作成した日本人は知られていません。

おわりに

「星を見つめる少年」像 ※近江大好きbiwap様より

天保11年(1840年)多くの発明品を作った一貫斎でしたが、故郷の国友村にて63歳でこの世を去ります。残念ながら彼の偉業を受け継ぐものは不在であったため、彼の残した技術は故郷の国友村に受け継がれることはありませんでしたが、当時の江戸時代にこれほどまでの高い技術力をもった人物がいたことはもっと知られても良いと思います。また、55歳という年齢から反射望遠鏡の作成に取り掛かっていることから、年齢は関係なく、強い好奇心をもって物事に取り組むことが大切ということを彼の生涯から実感させられます。

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