松倉重政 島原の乱を引き起こした暴君

松倉重政 島原の乱を引き起こした暴君江戸時代

松倉重政(まつくら しげまさ 1574年-1630年没)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。通称九一郎、豊後守(ぶんごのかみ)。松倉重信の子。

日本最大規模の一揆といわれる島原の乱(天草一揆)と聞いて、総大将の天草四郎(益田四郎時貞)が頭に浮かぶ方は多いと思いますが、反乱発生の原因を作ったとされる松倉重政をご存じの方は少ないのではないでしょうか。松倉重政はかつては大和国の戦国大名である筒井定次に仕えました。関ヶ原の戦いののち、大和国五条藩主に取り立てられ大名になります。さらに大坂夏の陣での戦功により肥前国日野江において4万3千石を与えられ出世を遂げました。一方、日野江藩主(のちの島原藩)となってからは、キリシタンの弾圧や厳しい年貢の取り立てなど領民の怒りを買い、島原の乱を引き起こす原因を作ってしまいます。今回はそんな浮き沈みのある人生を送った松倉重政の生涯を振り返ってみましょう。

筒井家時代

筒井順慶

松倉重政は、大和国の戦国大名である筒井順慶(つついじゅんけい)の重臣である松倉重信(まつくらしげのぶ)の子として天正2年(1574年)に誕生しました。松倉家は筒井家の家老を務めており、父である重信は、同じく重臣として筒井家に仕える島清興(きよおき、通称左近、後に石田三成の軍師)とともに、「右近左近」と称される人物でした。

迷君であった筒井定次

天正12年(1584年)に筒井順慶が亡くなると、養嗣子となっていた筒井定次(つついさだつぐ)が跡を継ぐこととなりました。その後、定次が大和国から伊賀国上野への転封を秀吉に命じられると、重政も父とともに伊賀に移ります。
文禄2年(1593年)、父の死によって松倉家を継いだ重政は、伊賀梁瀬(やなせ)城と8千石の領地を引き継ぎました。このとき松倉重政は20歳でした。やがて訪れた慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に加わり井伊直政の指揮のもと活躍したといわれます。

大和五条藩1万石時代

現在の大和郡山城

慶長13年(1608年)主君である筒井定次の改易処分により重政も梁瀬の領地を失いましたが、関ヶ原の戦いでの功績という名目で、大和国十一郡、高市郡、宇智郡で1万石余の領地と二見城を与えられ、五条藩主として大名に出世することとなります。
家康は、大坂城とも近い大和郡山城という重要な拠点に、豊臣恩顧の筒井家を配置しておくのを警戒しており、筒井家処分の機会を窺っていました。建前では関ヶ原の戦いの戦功に報いる形として五条藩主に任命されたこととなっていますが、実際は筒井家家老であった中坊秀祐(なかのぼうひですけ)と同じく、筒井家改易に働いたことに対する恩賞であったとみる向きもあります。その後、中坊秀祐は幕臣として奈良奉行に任ぜられ、大和国吉野郡で3千5百石の領地が与えられました。

西方寺の境内には頌徳碑が置かれている

重政は慶長13年から8年間の二見城主時代で五条藩の発展に力を注ぎます。商業振興を図るため、諸役を免除し商売を行いやすくする施策を敷き、商人が集まる仕組みを作るなど、紀州街道沿いに五条新町を築き領内整備に精を出しました。彼の政策の甲斐あり、五条藩は商業都市として大いに発展し奈良に次ぐ賑わいを見せるまでに成長したといわれます。五條での彼の働きぶりは高く評価されており、新町・西方寺に頌徳碑(しょうとくひ)が建てられ、重政が「豊後守」を名乗っていたことから「豊後祭り」「松倉祭り」などが行われ、「豊後様」と呼ばれ崇められていたようです。

大坂夏の陣屏風図

元和元年(1615年)、大坂夏の陣でも重政は目覚ましい活躍を見せます。大坂方の大野治房(おおのはるふさ)に攻められ、大和郡山城を守衛する筒井定慶(つついじょうけい)が逃げ出した後も、郡山に残っていた間宮光信(まみやみつのぶ)を迅速な行動により救援。また道明寺の戦いでは後藤基次(通称又兵衛)と対峙し、激しい戦闘のすえ、30余りの首級を得ました。
元和2年(1616年)、大坂の役の戦後処理によって、重政はキリシタン大名であった有馬晴信の旧領である肥前国日野江(ひのえ、のちの島原藩)に転封されました。石高は五条藩主時代の1万石から4万3千石へと大幅に加増されることとなります。

島原での豹変

島原に移封されてからの重政は島原城と城下町を新たに築くことから着手しました。幕府の一国一城令にならい日野江城と原城を廃城とし、元和4年(1618年)から7年の歳月をかけ島原城を完成させたのです。島原城は総石垣で天守と櫓49棟からなる城ですが、4万3千石の石高には不釣り合いな立派な城のため、建築資金をまかなうため領民に重税と労役を課していました。

一揆勢が籠城した原城跡地

さらに重政は島原藩の実石高が4万3千石であるにもかかわらず、徳川幕府への忠誠と松倉家の家格を高めるため10万石であると上申していました。結果、島原藩には実際の2倍以上の普請が課せられ藩財政が圧迫されます。そのしわ寄せのために領民には更なる重い税金が課せられたため、領民の生活は苦しい状況に陥ります。

キリシンタン弾圧(イメージ図)

一方、キリシタンを黙認していた重政でしたが、幕府が鎖国体制を強め、禁教令を厳しくしていくにつれて、キリシタン取締りを強化していき、苛酷な弾圧を始めることとなりました。寛永4年(1627年)には雲仙地獄の熱湯を利用し、信仰を棄てさせるためにじわじわと長い苦痛を与える拷問・処刑を行ったとも伝わっています。さらにキリシタンの拠点であるとみていたルソン島(フィリピン)を攻撃する作戦を幕府に献策し、許可を得たうえで戦のための軍資金として領民に更なる年貢を課したとされます。しかし,寛永7年(1630年)、ルソン遠征の船が長崎を出港して5日後の11月16日、重政は小浜温泉で急死してしまいました。享年57歳。死因は明らかにされておらず、暗殺されたとの逸話も残っています。

重政の死後

島原の乱絵巻図

松倉重政の死後、嫡子の勝家が跡を継ぎましたが過重な年貢の取り立ては緩まるどころか厳しさを増し、年貢を納められない農民や棄教を拒むキリシタンに拷問・処刑を行うなど過酷を極めていきます。寛永14年(1637年)、松倉勝家の圧政は領民の我慢の限界を超え、有馬村で発生した代官殺害事件を発端に、反乱が島原藩内で拡大、同じく悪政に苦しんでいた天草にも飛び火して島原の乱が勃発しました。重政の死後、7年目のことでした。乱は4か月後に鎮圧されましたが反乱発生の責任を取らされる形で勝家は領地を没収され改易、のち江戸に送還され斬首刑に処され松倉家は断絶となりました。

さいごに

松倉重政死後の評価として、司馬遼太郎は『街道をゆく 17 島原・天草の諸道』のなかで「日本史のなかで松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない」と記しています。他方、奈良県五條市や島原市では町の発展に大きく貢献したとして高く評価する声も聞かれます。
重政が島原藩4万3千石の身の丈に合った規模の城を築き、幕府にも実際の石高を申請していれば島原の乱は引き起こされなかった気がしてなりません。島原の町の発展に大きく寄与したとはいえ、島原の歴史に暗い影を落としたのも事実ではないでしょうか。

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