長久保赤水 伊能忠敬より先に日本地図を作った男

長久保赤水 伊能忠敬より先に日本地図を作った男江戸時代

長久保 赤水(ながくぼ せきすい 本名:玄珠、俗名:源五兵衛、(1717年12月8日 – 1801年8月31日)は、江戸時代中期の地理学者、儒学者である。経緯線が投影された地図「改正日本輿地路程全図」を作成し、精密な日本地図を世に知らしめた。

皆さんは初めて日本地図を作った人と言えば誰を思い浮かべますか?やはり伊能忠敬でしょうか?たいていは社会や歴史の授業では、「伊能忠敬が最初に日本地図を作った」と習いますよね。
伊能忠敬が地図を完成させたは1821年。約17年という月日をかけて「大日本沿海輿地全図」を完成させます。しかし、日本には伊能忠敬よりもずっと前に地図を完成させた人物がいました。それが今回紹介する長久保赤水です。しかし知名度では後発の伊能忠敬が勝っている、なぜこのようなことが起きてしまったのでしょうか?本記事では初めて日本地図を作った長久保赤水の人生について解説していきます。

長久保赤水が日本地図を完成させたのは1779年

長久保赤水は伊能忠敬の一時代前を生きていますが、改訂版を含めて複数の地図を発行しています。その中で、長久保の地図制作の集大成とも言えるのが、1779年に発行された「改正日本輿地路程全図」なのです。伊能忠敬が地図を完成させた時期はもちろん、それ以降明治初期まで、江戸幕府は、伊能の地図を差し置いて長久保の地図を使い続けました。より正確で掲載が多い伊能忠敬の地図をなぜ使わなかったのか。その前に、まずは長久保の人生について簡単に紹介していきます。

長久保赤水の人生

高萩駅前の赤水像

長久保赤水が生まれたのは1717年。常陸国多賀郡赤浜村で生まれます。
これは現在の茨城県高萩市にあたる場所ですが、JR高萩駅前には長久保赤水の銅像も建てられています。幼い頃に両親を亡くし継母に育てられました。13歳になると鈴木玄淳の塾で漢詩を学びます。その後、22歳で結婚して引き続き漢詩や儒教を学びます。

地図の製作へ

柴野栗山 寛政の三博士の一人

赤水が地図の製作を始めたのは実は50代になってからのことです。1774年、58歳の時に地理の専門家と交流すべく、大坂を訪ねました。これが地図制作の第一歩となります。翌年には専門家、柴野栗山の協力のもと「新刻日本日本輿地路程全図」が完成。そしてその4年後に完成させたのが、
先ほども言いました「改正日本輿地路程全図」です。この地図は翌年から大坂で出版されています。地図完成後、この時長久保は70歳。彼は死去までのこれから15年間、大日本史の編集に専念して、85歳で亡くなるまでの4年間は地元で過ごしたそうです。

改正日本輿地路程全図はどんな地図?

長久保が製作した改正日本輿地全図ですが、こればどんな地図でしょうか。
この地図に掲載されているのは、北海道と大半と小笠原諸島、沖縄を除いた日本全土です。
伊能忠敬の地図よりは掲載範囲が狭く、不正確ですが、この時代に20年という時間をかけて地図を完成させたことへの評価は高いものがあります。

改正日本輿地全図

この地図は世界的に広がっており、ドイツ国立民族博物館、イギリス議会図書館、大英博物館など、世界の6カ国の博物館で地図の収蔵が確認されています。そして、ロシア語に翻訳された地図が、1809年と1810年にロシアで発行されていることが分かりました。長久保赤水の生きたこの頃より、日本近海に西洋列強の船が出没するようになりました。皮肉に、少しでもこの地図が日本へ侵略しようとする足掛かりになったのは間違いありません。

なぜ長久保赤水の地図が使われ続けたのか?

伊能忠敬

先述の通り、長久保赤水が1800年ごろに亡くなりますが、ちょうどその頃に伊能忠敬が地図の製作を始めていました。つまり、伊能忠敬の地図が完成すれば長久保赤水の地図は最悪無用の長物になってしまいます。しかし、長久保赤水の地図は江戸幕府の崩壊まで使われることになりました。なぜ、伊能忠敬の地図は大衆内で使われなかったのか?2つの理由を挙げてみます。

①国防上の問題
伊能忠敬の地図は、当時にしてはあまりにも出来すぎていました。
元々、伊能忠敬の地図は日本に接近する列強諸国からの国防目的であったため、これが公になると国の安全が確保できないと判断して軍事機密となったのです。

重大事件に発展したシーボルト事件

またシーボルト事件のように、地図情報を漏洩して逮捕者が出ることもありました。また伊能の製作事業も国防上必要だと考えた幕府は伊能らの活動に手厚い支援を送っていました。

②海岸線中心の描写

伊能忠敬が作成した大日本沿海輿地全図の一部

伊能忠敬の地図は、海岸線の描写が中心となっているため、内陸部の地図は不正確なところがあります。大衆からしたら海岸線だけ綺麗に描かれた地図を持っても何もできませんから公にする意味がなかったのでしょう。このような理由から、長久保赤水の地図はより広く長きにわたって利用されたのです。

さいごに

本記事では長久保赤水と彼が製作した地図が長く使われ続けた理由について解説しました。
当時の幕府が「伊能忠敬の地図は公開できないから、長久保赤水のを使おう」と消去法感覚で使わせ続けたかはわかりませんが、本土の地図は正確に書かれており、実用性が高かったことは事実です。20年かけて地図を開発した赤水のその原動力には驚きを隠せません。また今年の令和3年で伊能忠敬が地図を完成させてからちょうど200年目に当たり、長久保赤水の存在がよりクローズアップされていくのが期待されています。

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