武田物外 幕末の志士たちを唸らせた怪力和尚

武田物外 幕末の志士たちを唸らせた怪力禅僧幕末

武田 物外(たけだ もつがい 1795年3月 – 1867年12月)は幕末の曹洞宗の僧侶、武術家。「拳骨和尚」の名で知られる。不遷流柔術の開祖。不遷は法諱である。号、物外泥仏庵とも。

身長173センチメートル、体重63キログラム。江戸時代の男としては十分立派な体格ですが、現代ではそれほど特別サイズではありません。しかし曹洞宗禅僧にして武芸者、剣術、柔術、鎖鎌、槍術に優れ、そして700キロはあるとおもわれる寺の梵鐘を担ぎ上げ、碁盤に拳を打ち込んで1.5センチの凹みをつくるという怪力の持ち主。そんな途方もない男が実在したのです。その名は武田物外(たけだもつがい)。新撰組局長・近藤勇をも圧倒した拳骨和尚。その生涯をお伝えします。

生い立ちと成長

武田物外

1795年伊予松山藩士三木兵太信茂の家に生まれ、寅雄と名づけられました。5歳にして地元の龍泰寺の小僧となりますが、その寺の祖燈和尚では手がつけられないわんぱくぶりを発揮し、12歳のときに広島の曹洞宗国泰寺に連れられ、観光和尚のもと修行に励みます。その後、諸国へ修行の旅に出、禅宗を極め、武術を磨きさらに儒学、国学を学んだのでした。特に大坂において中村伴内に柔術の奥義を学び、自らの力を一点に集中させることにより、体格差にかかわらず相手を押さえ込む技を習得したのです。それは不遷流として現在にも受け継がれています。また18歳の頃、曹洞宗大本山永平寺にて修行した際には、その柱に拳を打ち込みその形を残したともされています。

一介の僧侶が相撲取りに勝つなどあり得ません

25歳の頃、江戸にての相撲見物のことです。本所回向院にての将軍御上覧の折り、土俵間際で野次を飛ばした物外を力士が見咎め、土俵に上がって来いということになりました。土俵上では物外が次々と力士たちを投げ飛ばし、やんやの喝采をうけたのでした。30歳を過ぎて、尾道の済法寺住職となりました。多数の門弟志願の武芸者が集い、不遷流が広まったのです。姫路酒井侯の御前にては姫路藩の100人の力自慢の武士を相手にして一人で綱引き勝負を行い見事に勝利を収めました。

見かけによらず女性関係には真面目

そのとき酒井侯よりなんとかその強力無双の血を自国に残してもらいたいということで、寝所に夜伽のために見目麗しい腰元を遣わされたのですが、仏門に生きるものであることを理由に丁重に断ったのでした。実はその断りには他にも理由があったのです。物外には愛した女性がいたのです。15歳で大坂に出て、右も左も分からぬところを、良く面倒を見てくれた「お澄」。そして中村道場で苦労をともにした「お鹿」。ふたりとも訳ありの女性でしたが、深く愛し合い、物外を成長させてくれたのでした。

転衣参内、そして新撰組との戦い

永平寺

1860年(万延元年)、66歳の物外は曹洞宗僧侶にとっての重要な儀式である転衣参内を済ませます。大本山永平寺において一夜住職となり、公文を下され色衣の着用を許され、さらに大和尚の位についたのです。そして宮中へ参内し綸旨、天皇のお言葉を頂戴したのでした。宝祚長久国家安全を祈るように、という綸旨です。それから3年後、京の豪商鴻ノ池の子息に柔術を指南していたことから、青蓮院宮、久邇宮朝彦親王と知り合い、禄高三十石を賜ったのでした。そして宮様より、勤皇の志を持つ在京の志士を支援するようにとも求められたのです。

新撰組の”今弁慶”こと松原忠司

その京都滞在中に奥歯が痛み出しました。宿泊先の女将に、河原町にある歯科医に連れて行ってもらいますが、患者が列をなしています。しょうがなく列に並んで待つことにしますが、なんとその列をものともせずに先に進もうとする武士がいたので、物外はたしなめようとしますが、自分は新撰組の今弁慶である、といって言うことを聞きません。物外は柔術でその今弁慶をやっつけたのが新撰組との戦いの始まりでした。

”最強”との噂もある永倉新八(写真は晩年の物)

怖いもの知らずの物外は自ら壬生の新撰組屯所を訪れ、一手ご指南をと申し出たのです。まず相手になったのは永倉新八です。竹刀での勝負は物外の完勝でした。そこに局長の近藤勇と副長の土方歳三が現れます。近藤は槍を手にして物外に迫ります。

新撰組局長・近藤勇

しかしなんと物外は頭陀袋から取り出した木椀二個でその槍を挟んだのです。近藤は槍を押すことも引くこともできず身動きが取れません。思いっきり引こうとしたときに物外は椀を離し、近藤はもんどりうってひっくり返ってしまいました。大笑しながら帰ろうとする物外に土方が襲いかかろうとしますが物外は土方の腕を掴むと軽々と持ち上げ投げ捨てたのでした。

孝明天皇との対面

孝明天皇

1865年、前年に引き続き二度目の長州征伐が行なわれようとするときに、71歳となっていた物外は長州近隣の広島、三原、丸亀、高松各藩より朝廷への嘆願を依頼されます。青蓮院宮とのつながりもあったからです。長州征伐が行なわれればその各藩は出兵しなけらばならず、そうなれば無益に人命と費用を消耗することになるということを避けたかったのです。物外は嘆願書をなんとか孝明天皇にとどけることができました。5年前、天皇は物外が転衣参内の際、綸旨を与えていたことから、物外の謁見を許します。陛下の間近にて滔々と願意を述べる物外。陛下はその物外の赤誠をほめたたえたのでした。

武田物外、その名前の由来、そしてその死

物外の本来の名前は、三木寅雄です。武田物外となったのはどうしてでしょうか。
武田姓は三木家の先祖が武田家につながるとされることから姓として用いるようになりました。また物外は武田信玄信晴を尊敬していたからとも伝えられています。
名前は自らつけた「不遷」です。それが武術の流儀名にもなっています。「物外」は雅号です。晩年に尾道の風光明媚を詠んだ句が多く残されています。いくつかご紹介しましょう

みち潮に渡りの山は夏の月

あの空に鳶舞う二百十日かな

我知らず月をおさえて鳴く蛙

我庵は貧しけれども白牡丹

武田物外墓地(広島県済法寺)

1867年、雁が鳴き交わす中、73歳の物外は京都から尾道への道中で帰らぬ人となりました。雁は物外に縁のある鳥でした。かつて三原城主浅野甲斐守が絵師に描かせた掛け軸に羽ばたく一羽の雁が描かれていたのですが、雁は群れて飛ぶものであり、一羽だけとは謀反の印ではないかとして甲斐守は非常に不機嫌になりました。そこに物外が訪れ、その掛け軸に

「初雁やまたあとからもあとからも」

という画賛を入れたのです。そうしますと甲斐守は大いに喜び、その掛け軸を描いた絵師と物外に褒美を授けたのでした。

不遷流のその後

”姿三四郎”のモデルと言われた田辺右衛門

物外の孫弟子にあたる、田辺又右衛門は明治期、当時隆盛を極めた東京、講道館へ乗り込み、並み居る強豪とされる講道館柔道の使い手を撃破したことはあまり知られていないようですね。

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