清水次郎長 伝説の海道一の大親分

清水次郎長 伝説の海道一の大親分幕末

清水 次郎長(しみずの じろちょう 1820年2月14日- 1893年6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家。本名は山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。清水に縄張りを持ち「海道一の大親分」と称され、侠客だけでなく社会実業家としても活躍した。また、講談に取り上げられ民衆から多くの人気を集めた。

皆さんは清水次郎長という人物をご存知でしょうか?江戸末期から明治初期を生きた侠客ですが、何をしたかまで覚えている人はいかほどにと言う感じです。清水次郎長は博徒で強大な集団を作り上げ、清水を縄張りとしたヤクザでもありました。そして人生半ばからは喧嘩・博打業から足を洗い、流通業と国家発展のため実業家として生きていくことになります。なかなか肩書きをまとめにくい人物でもありますが、本記事では清水次郎長の人生について解説していきます。

幼少期

清水次郎長生家

1820年に駿河国有渡郡清水美濃輪町で地元清水の船持ち船頭・高木三右衛門の次男・長五郎として誕生しました。父親は「雲見ずの三右衛門」の異名を持ち、剛胆な人物でだったそうです。母方の叔父で、米穀商を営む甲田屋の主であった山本次郎八に後継者がいなかったため、長五郎は山本家の養子に出されます。山下家の長男であったことと、幼少時代の仲間に「長」という子供がいたために周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼びようなったため「次郎長」と呼ばれるようになりました。また、幼いころから悪ガキで寺子屋に入るものの追い出されるほどで周りから恐れられていたそうです。

次郎八の死後

丁か半か…!

15歳となった次郎長は性格も若干落ち着くようになりますが、養父の次郎八とは次第に折り合いが悪くなり一時期は江戸に出奔したりするなどしますが、天保6年(1835年)に次郎八が死去すると、次郎長は跡を継ぎ甲田屋の主人となります。若旦那となった次郎長は妻を娶り、米屋の家業に精を出しますが、二年後に養母が財産をもって愛人と逃走。それでも困難に負けずに家業に精を出す次郎長でしたが、さらに数年後、次郎長を見かけた旅の僧から「25歳まで生きられないだろう」と予言めいたことを言われます。この発言を聞いた次郎長は「ならば太く短く生きてやろう」と決心し、次第に賭博と喧嘩に明け暮れるようになっていきます。

博徒の道へ

無宿人(イメージ図)

賭博と喧嘩三昧の日々を送る次郎長でしたが、22歳の時に甲田屋に強盗が入り、この時に次郎長は負傷してしまいます。さらに翌年の天保14年(1843年)博打のいざこざから巴川湖畔で人を斬殺してしまいます。結果、妻と離縁し甲田屋を実姉夫婦に譲ると弟分たちを率いて清水を後にします。無宿人となった次郎長は東海道を中心に放浪し、武術の修行に励みながら土地土地の親分の元を訪ねていきます(所謂、”仁義を切る”というやつ)。一宿一飯の恩を受け旅を続ける次郎長でしたが、遠州川崎での争いごとから負傷してしまい、傷を直すため再び清水に帰還します。

仲裁に入る次郎長絵図

その後、弘化2年(1845年)に甲州博徒の津向文吉と次郎長の叔父に当たる和田島太右衛門の間で庵原川にて抗争が勃発。次郎長はこれを他の博徒による計略と見抜き、見事二人を説得し仲裁することに成功します。これにより名を上げた次郎長は2年後に弟分の江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、清水湊に一家を構えるようになります。当時の子分は10人ほどでしたが、家計は火の車だったそうです。

果てしない抗争

次郎長一家の写真(下段左から三番目が次郎長)

安政5年(1858年)12月29日、38歳となった次郎長は甲州に出入り(抗争)を行った際、役人に追われ名古屋へと逃亡しますが、逃亡先で妻のおちょうが病死、さらに十手持ちの保下田の久六という男が次郎長一家が名古屋で強盗を働いていると偽の報告をして役人の追撃を受けることになります。なんとか脱出に成功した次郎長でしたが、仲間が捕縛され拷問の末に死亡したため敵討ちを決意。翌年に次郎長は部下3人を率いて乙川村葦野畷で久六と子分ら7名を襲撃し、これらを殺害します。

大洞院の森の石松の墓

万延元年(1860)、久六斬りの祈願成就のお礼参りに、子分の森の石松を金毘羅に代参させると、その帰途、石松は都田の吉兵衛3兄弟の騙し討ちに遭い殺害されてしまったため、1861年に家来たちと共に吉兵衛3兄弟を殺害。さらに文久3年(1863年)5月10日に宿敵と言われる甲斐の黒駒勝蔵と天竜川に対峙し、その後も勝蔵との間で激しい抗争を繰り返します。

博徒から実業家へ

北海道サラキ峠の咸臨丸の模型

抗争に明け暮れる次郎長一家でしたが、時代はすでに江戸から明治へと変わろうとしていました。慶応4年(1868)3月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍が進軍してくると、その年の5月明治政府の臨時軍部である東征大総督府から積年の罪科を免ぜられ、東海道筋・清水港の警固役を任命されます。東海に強い影響力を持つ次郎長を見込んでの任命でした。

幕末三船の一人・山岡鉄舟

同年9月18日、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見。攻撃され、船に残っていた幕府軍の全員が交戦によって死亡。新政府軍は旧幕兵の遺体の埋葬を許しませんでしたが、次郎長は「死んだら仏だ。官軍も賊軍もない」と言いこれを手厚く埋葬します。これを知った元幕臣の山岡鉄舟は次郎長の厚意に感謝し、以後、次郎長は鉄舟ら英傑らと深い親交を結ぶようになります。明治維新後も徳川慶喜の護衛を務めたりするなど、もはや次郎長はただの博徒ではなくなっていました。

実業家としての功績

現在も清水の特産品である茶

明治7年(1874年)次郎長は本格的に富士山南麓の開墾事業に取り掛かり、明治12年(1879年)には山岡鉄舟らの協力を得て油田開発にも乗り出します。明治11年には戊辰戦争で行方不明となった父母の行方を尋ねる天田五郎が山岡鉄舟に連れられて次郎長の元へ訪れ、五郎の父母の探索に協力します。天田五郎は次郎長に保護されている間にたくさんの武勇伝を聞き、後に次郎長一家の物語である「東海遊侠伝」を執筆し、大衆に受け入れられるようになります。

天田五郎(愚庵)写真

明治13年(1880年)には清水港を整え、清水の名産である茶の販路を整えるべく静隆社を設立。現在も静岡の名産品である茶の基盤を築きます。さらに今後は英語が必須になると考え、地元の青年を集めて英語塾を開設しました。その後、明治政府の「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕されるも、翌年には特別放免となり、その影響力が伺えます。明治19年(1886年)に向島波止場に船宿「末廣」を開業し、船宿の名物じいさんとなりますが、明治26年(1893年)に風邪を悪化させてしまいこの世を去ります。享年74(満73歳没)の波乱万丈の人生でした。

まとめ

梅蔭禅寺の清水次郎長銅像

清水次郎長を簡潔に表すならば、ヤクザ、実業家となりますが、彼は人を愛し、また亡くなった者には、思想や敵味方関係なく丁重に扱う姿勢からしても、人間的に尊敬できる人物かと私は思います。また次郎長一家の物語である「東海遊侠伝」を大衆向けにした作品「次郎長三国志」は現在も根強い人気を誇る作品であり、あの人気少年漫画「ワンピース」の作者・尾田栄一郎氏も大好きな作品であると公言していますので、気になった方は是非観てみてくださいね。

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