カリオストロ伯爵 ~稀代の詐欺師か?世紀の錬金術師か~

カリオストロ伯爵 ~稀代の詐欺師か?世紀の錬金術師か~フランス史

カリオストロと聞くとほとんどの日本人は「ルパン三世 カリオストロの城」を思い浮かべると思いますが、実在のカリオストロはどんな人物だったかというと、すぐに答えられる人はいないのではないでしょうか?稀代の詐欺師、錬金術師としてヨーロッパ国内を沸かせたカリオストロ伯爵とはどんな人物だったのでしょうか?

シチリア島に生まれる

1743年イタリアのシチリア島パレルモにて誕生。本名はジュゼッペ・バルサモと言います。
父親は彼が産まれてすぐ亡くなってしまったため困窮した生活を余儀なくされます。

また、幼いころから絵画が上手く親戚たちからも期待されますが、偽造チケットや証明書などを作ったりと問題行為が多い少年でした。その後、修道院に入れられ薬剤師見習いとして勤めますが、この時の経験が後々の彼の人生に影響を及ぼします。

現在のシチリア島パレルモ(※wikipediaより)

十代後半のときに修道院を離れ(追放された?)、アレクサンドリア、ロードス島、マルタ島など各地を放浪。ギリシャ人錬金術師アルトタスという人物の弟子となり錬金術や降霊術などの西洋魔術を身につけます。

ロレンツァ・セラフィーナ

1768年にローマにおいて、若干14歳のロレンツァ・セラフィーナと結婚。結婚後は一緒にフランスやスペイン、ポルトガルなどヨーロッパ各国を渡り歩き、偽名を使って社交界などに顔を出しては怪しげな商売を行ったと言います。

カリオストロ伯爵を名乗る

1771年から翌年にかけてロンドンに滞在後、1776年に再び渡英し、本名を捨ててアレクサンドロ・ディ・カリオストロ伯爵を名乗り始めます。その後も、錬金術に精を出し、レスターフィールズのカリオストロ宅から毎日黒煙が立ち上っていたので、周りから不思議がられていたそうです。

錬金術を披露するカリオストロ(※wikipediaより)

1777年にフリーメイソンのエスペランスロッジに加入し、有力者や知識人たちと交流して人脈作りに励みます。この時、カリオストロは自ら新しいフリーメイソンの儀式を思いつき、後に「エジプト・メイソンリー」を発足させることになります。

年末には妻を伴って東ヨーロッパへと渡り、ラトビアを経てロシアに入国。この時、ロシア帝国女帝エカテリーナ2世に謁見し、エカテリーナの家来たちやロシア民衆を無料で治療したことにより人気を得ますが、次第に革命分子になりかねないことを懸念したエカテリーナより敵意を向けられたため、ロシアを出国せざるを得なくなります。

エカテリーナ二世

1780年にはポーランド・ワルシャワに入国。この際に出会ったフリーメイソンの会員たちや金持ちたちにお得意の錬金術や魔術の話しをして興味を持たられると自作した治療薬の販売や、特殊な診察を行い多額の報酬を手にしていたと言われます。

フランス入国と首飾り事件

ポーランドに滞在したもののエカテリーナの大蔵大臣とトラブルを起こしたため僅か半年で出国。カリオストロ夫婦はフランスのストラスブルーに向います。カリオストロはそこでストラスブルーの司教であったルイ・エネ・ド・ロアン枢機卿と出会い、ロアン枢機卿の病気を治療したことで信頼を得ます。

ルイ・エネ・ド・ロアン枢機卿

ブルボン家に並ぶ家柄の枢機卿の影響は絶大で、カリオストロは枢機卿の力を利用しエジプトメイソンリーロッジをリヨンに設立し、フランス国内に勢力を拡大します。

マリー・アントワネット

恐れを知らないカリオストロは1785年にパリに入り、王妃マリーアントワネットとその周辺の人物らに接近し信頼を寄せられます。この時、マリーアントワネットにまつわる予言を的中させたとして名を馳せたと言われます。

しかし、その年にヴェルサイユ宮殿を騒がした名高い「首飾り事件」が発生。これはカリオストロの後ろ盾である、ロアン枢機卿がマリーアントワネットととの関係に悩んでいたところをジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人に付け入れられ、160万リーブル(約200億円)の首飾りを買わされた挙句ジャンヌに盗まれるという詐欺事件です。

王妃の首飾りのレプリカ(※wikipediaより)

この時、カリオストロはロアン枢機卿よりたびたび相談を受けますが、完全にパリデビューで有頂天になっていたのか疑いもせず、むしろ首飾りの購入を推し進める有様でした。

これがカリオストロにとって人生の凋落の始まりとは知る由もありません。

フランス追放

1785年8月。宝石商シャルル・ベーマーが料金が振り込まれないことを王室に訴えたことで事件が発覚し、この事件の関係者は至急逮捕されます。

ジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人

首謀者であるジャンヌ夫人も数日後に逮捕されますが、何も知らないと言いとおし、さらには事件の首謀者はロアン枢機卿のお抱えであるカリオストロが企んだものだと発言したのです。

この発言によりカリオストロ夫婦は逮捕され、バスティーユ牢獄にて厳しい尋問の日々を送りますが、最終的にジャンヌが嘘をついていることが立証されたためカリオストロ夫婦はロアン枢機卿と共に無罪釈放となります。

バスティーユ牢獄(※wikipediaより)

しかし、この事件でブルボン王室の威厳を大きく傷つけた罪として、ロアン枢機卿はこの事件により宮廷司祭長を罷免。さらにカリオストロもフランス国外追放となってしまいます。

凋落とその後

カリオストロの呼びかけを皮肉るメイソンメンバーの風刺画

フランスから追いやられたカリオストロは一旦ロンドンに滞在し、かつて親交のあったフリーメイソンのメンバーに協力を呼びかけますが、既にカリオストロの手口と首飾り事件のことはイギリスにも知れ渡っており、誰も呼びかけには答えませんでした。

協力を得られなかったカリオストロはやむ無くスイスへと向かい、再びフランス入国のチャンスを待つことにしました。しかし、1789年にフランス革命が勃発したため、入国は絶望的となり故郷のイタリアへと帰国。ローマで活動することを計画します。

一方、長年カリオストロに付き従っていた妻のセラフィーナは放浪生活と不安定な生活に嫌気がさしており、カリオストロに対しての愛情も希薄となっていました。

教皇ピウス6世

そして、ついに愛想を尽かしたセラフィーナはカリオストロの今までの行為や素性、しかもフリーメイソンであり、このローマに新たにフリーメイソンのロッジを新設しようとしている事実などを教皇庁に告発してしまったのです。

事態を重く見た教皇ピウス6世はただちにカリオストロを逮捕し、異端審問を実施。今までの活動からカリオストロを危険人物と断定します。

その後、1791年に教皇庁より終身刑を言い渡され、難攻不落の城塞と言われるサンレオ城塞の牢獄へと収監されてしまい、二度と表舞台へと上がることはありませんでした。

カリオストロ終焉の地となったサンレオ城塞(※wikipediaより)

陽の光も指さないような場所だったため、次第にカリオストロの精神は疲弊し、収監から4年後の1795年に身体の半分が麻痺した状態でこの世を去ります。

ヨーロッパ各国を渡り歩き、魅惑の錬金術で名を馳せた伯爵としてはあまりにも悲惨な最後でした。

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