シャルル・アンリ・サンソン 【人命を訴えた悲劇の死刑執行人】

シャルル・アンリ・サンソン 【人命を訴えた悲劇の死刑執行人】フランス史

現代の死刑廃止を主張する人々が論ずるようなことを18世紀終わり頃のフランスで考えていた人物がいました。しかもその人物は罪人に死刑を執り行うことを家業としていたのです。しかし、時代は国王の処刑を要求し、その人物は職務としてルイ16世の首を切り落としたのでした。激動のフランス革命の傍ら数奇な運命を生きたフランス、パリの死刑執行人、四代目シャルル・アンリ・サンソンについてお伝えします。

死刑執行人とは

歴史ある国では、職業は世襲される。ということが当然であり、ヨーロッパにおいては古くから裁判所の判決に基づく死刑、あるいは鞭打ちなどの体罰刑・拷問形を実際に執り行うということも世襲の職業とされていたのです。

1617年のフランス処刑図

そして実はこの仕事に携わるものは被差別民とされてしまうのが現実で、婚姻あるいは転職などは非常に厳しい条件化におかれたのでした。フランスでも死刑執行人は代々子孫に受け継がれ、婚姻も国内の死刑執行人のネットワークのなかでなされていたようです。

サンソン家

サンソン家が死刑執行人となったのは、1680年頃のことでした。初代となる、シャルル・サンソン・ロンヴァルはもともとはフランス北部ノルマンディーの地方都市アブヴィルの軍の将校でしたが、愛した女性マルグリッドがその土地の死刑執行人の娘だったのです。

アブヴィル市があるフランスのソンム県 ※wikipediaより

マルグリッドの父親から結婚の条件として死刑執行人の家業を継ぐことを条件とされたロンヴァルは、軍人としてのキャリアを投げ打ち結婚を果たします。しかし、マルグリッドは一子をなしたあと結婚6年後に病死してしまいました。

一度死刑執行人の家族となってしまったシャルル・サンソン・ロンヴァルは二度と他の職業につくことはできません。その後、彼は政府の要請によりパリへ赴き、空席となっていたパリの死刑執行人(ムシュー・ド・パリ)となったのです。

死刑執行人の暮らし

死刑執行人は社会や周囲の人々からひどい差別を受けてはいましたが、経済的には困窮することはあまりなかったようです。町の市場から品物を徴収するという特殊な徴税権を与えられていたのでした。

また、職業上の要求から人体の生理機能を知悉することができ、それにより医業や薬業に長けることとなり、実質的に病院や薬剤販売をとりおこなって、かなりの収入を得られたようです。

1726年からムシュー・ド・パリとなった三代目シャルル・ジャン・バチスト・サンソンの頃には広大な庭のある屋敷を構え、家族の他に数十人の雇い人とともに暮らしていました。

四代目シャルル・アンリ・サンソン

1739年2月15日、四代目シャルル・アンリ・サンソンは三代目シャルル・ジャン・バチスト・サンソンの長男として誕生します。

幼いころから利発で容姿端麗でしたが、処刑人の家の息子ということで周りからいじめられ、学校側も退校を依頼するほどでした。

子の教育に苦慮するバチスト・サンソンでしたが、ある日、近くの住民達から病で死にかけている神父がサンソン家に運び込まれます。医師でもあるバチストは懸命に治療に当たり、神父は一命を取り留めます。

シャルル・アンリ・サンソン肖像

神父の名はグリゼルと言い、宗教論争に破れ、街はずれで隠遁生活を送っていました。話を聞いたバチストは教養のあるグリゼルに息子の家庭教師をお願いできないか頼んだところ、グリゼルは快くこの願いを聞き入れます。

シャルル・アンリ・サンソンはグリゼル神父から教育を受けると共に強く励まされ、精神的に逞しい性格を備えるようになります。

最初の死刑執行

1754年。 父バチスト・サンソンは病に倒れ半身不随になってしまったため、アンリ・サンソンは15歳の若さで死刑執行人代理の職に就くことになります。代理という肩書でしたが、恵まれた体格をしていたアンリ・サンソンになんら遜色はありませんでした。

翌年の1755年。16歳となったアンリ・サンソンは初めて死刑を執行します。罪人は愛人と共謀して夫を殺害した絶世の美女。カトレーヌ・レコンバです。

絞首台イメージ図

この時、サンソンは初めての死刑執行が女性であったというプレッシャーもあったのか、幾度も失敗し、5,6回目でようやく絞首刑を成功させたと言われます。

八つ裂き刑

1757年1月。フランス王ルイ15世がロベール・フランソワ・ダミアンという一青年に襲撃される事件がヴェルサイユにて起こります。

ダミアンの肖像画

結果としてダミアンは国王暗殺未遂により八つ裂きの刑に処されることになり、ヴェルサイユ死刑執行人のガブリエル・サンソン(アンリ・サンソンの叔父)に刑を命じます。

叔父ガブリエルの要請により、アンリ・サンソンはヴェルサイユに赴き、叔父の補佐に当たりますが、八つ裂きの刑は切り刻んだ罪人の両手両足をロープで繋いだ馬に引かせるといった凄惨なものであり、刑執行の日の広場は地獄絵図と化してしまいます。

ダミアン処刑時の様子のイラスト

あまりの惨たらしさに叔父ガブリエルは引退を宣言。この刑の一部始終を見たアンリ・サンソンも死刑と拷問の必要性に疑問を抱くことになります。

覚悟の斬首刑

1766年5月。東インド軍総司令官ラリー・トランダル将軍はインドにおいて英国との争いに敗れたことにより、「国王の利益を裏切った罪」に問われ斬首刑が言い渡されます。

ラリー・トランダル将軍

実際は、トランダルの功績を良く思わない人物たちが世論を煽ったため死刑となったのは明白でしたが、トランダルは潔く求刑を望みます。また、トランダルはバチスト・サンソンと旧知の間柄であったため、サンソン家による死刑は実に幸運であるとまで言い放ちます。

斬首刑当日。旧友であるバチスト・サンソンが見守る中、トランダルはアンリ・サンソンに全てを委ねます。アンリ・サンソンは処刑台で剣を振り上げトランダルの首に剣を打ち降ろしましたが、なんと失敗してしまいます。

血に塗れ怒りの表情でアンリ・サンソンを睨みつけるトランダルにアンリは震えてしまいますが、これをみた父バチストはすかさず剣を奪うと間髪を入れずにトランダルの首を切り裂いたのです。その首は処刑台をころがり、同時にバチストは気絶して倒れこんだのでした。

トランダル将軍処刑時のイラスト

父の友を処刑することに躊躇したことが、逆に二人を苦しめたことにアンリ・サンソンは心を痛めます。しかし、同時に己の処刑人としての運命を受け入れた瞬間でもありました。その後、アンリ・サンソンが斬首刑にて失敗をすることはなくなったと言います。

国王ルイ16世との出会い

死刑執行人としての役目を務める一方、アンリ・サンソンは死刑・拷問の廃止と死刑執行人への差別的扱いに公然と声を上げていました。

1774年、ルイ16世がフランス国王に即位。ルイ16世は人民思いの国王であったため、死刑及び拷問は控えるように命じます。そんな国王の英断にサンソンは深い敬意を抱きました。

ルイ16世

その後、シャルル・アンリ・サンソンはヴェルサイユ宮殿にて国王ルイ16世と面会しました。このとき、フランス国家は未曾有の財政危機に見舞われており、そのため死刑執行人に対する俸給の支払いが2年に渡って滞っていたのです。ムッシュー・ド・パリはフランスのすべての死刑執行人の筆頭でしたからその代表としてサンソンは国王に謁見したのでした。

ギロチンの発明

ルイ16世は今の国家の財政難と国民の窮乏に心を痛めていることをサンソンに打ち明けるとともに、サンソンの死刑・拷問廃止にも強い関心を寄せていました。

ジョゼフ・ギヨタン

また、サンソンは政治家であり、博愛主義者であったジョゼフ・ギヨタンに苦痛の伴わない処刑装置の開発を訴えたため、ギヨタンは断頭台であるギロチンを議会に提案。ルイ16世もこれならばと賛成し、ギロチンの使用を認めます。

後年オーストリアで使われたギロチン

国王と周りの人々の協力により、残虐な刑の改善に着手できたことに、サンソンは希望を抱きます。しかし、この発明はサンソンの思いとは裏腹に更なる悲劇を生み出すこととなってしまうのです。

フランス革命

深刻な財政難は悪化の一途を辿り、貴族層に対抗する窮余の策として招集した三部会は急展開を見せます。これにより平民の大多数が決起し、バスティーユ牢獄を襲撃。1789年7月14日、フランス革命の始まりです。

バスティーユ牢獄の襲撃

その後ルイ16世は人権宣言を認め、20万の民衆と共にパリへ連行されます。身の危険を感じたルイ16世は妃・マリーアントワネットと共に脱出を計画しますが、不幸にもヴァレンヌにて捕縛されてしまいます。

国外逃亡を図った国王にフランス国民は激怒。そして1793年1月、700人を超える議員の投票によりルイ16世の死刑が僅差で決定されたのです。

国王の処刑

1月20日、シャルル・アンリ・サンソンのもとに死刑執行命令書が届きました。敬愛していた国王の処刑を担当することを知ったサンソンは愕然とします。しかし、職務は全うしなければなりません。

死刑当日の日、サンソンは準備をしながらも、王党派による国王救出が行なわれないかと願っていました。処刑台が混乱におちいれば自分も国王救出に一役買えると考えていたのです。しかし、サンソンの思いが伝わることはありませんでした。

処刑直前のルイ16世(※左の男がサンソン)

数百人の騎兵隊に警備された深緑色の馬車からルイ16世は姿を現し、威厳をもって処刑台の階段を上がります。軍楽隊の太鼓の音が鳴り止むと、ルイ16世は民衆に向かい高らかに言い放ちます。

「フランス人よ、あなた方の国王は、今まさにあなた方のために死のうとしている。私の血が、あなた方の幸福を確固としたものにしますように。私は罪なくして死ぬ」

ルイ16世は処刑台に身体を固定され、三角の銀色の金属の刃が2本の深紅の木の腕の間を滑り落ちます。民衆たちが歓喜に湧く中、ひとりサンソンは目を背け、フランスの行く末を憂うだけでした。

ギロチンにより処刑されたルイ16世

その夜、サンソンはルイ16世のためにミサを捧げることは死刑になるほどの重罪であるのを知りながらも、神父を匿ってミサを上げたと言われています。しかし、この国王処刑は始まりに過ぎないことをサンソンは知ることになるのです。

マリー・アントワネットとサンソン

1793年10月。革命裁判により、王妃マリー・アントワネットの処刑が決定。死刑当日、マリー・アントワネットは夫ルイ16世とは違い、囚人用の馬車にて移送されました。馬車からマリー・アントワネットが下りる際に、サンソンが優しく気を使ってくれたでマリー・アントワネットは驚きます。

マリー・アントワネットの最後

また、マリー・アントワネットが処刑台の階段を上る際に、誤ってサンソンの足を踏んでしまい、こう呟きます。

「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ…」

ギロチンの刃が落とされると同時に、何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けます。そんな中「彼女こそが真の王妃であった」とサンソンは悟ります。

ギロチンの音は止まず

12月7日、ルイ15世の公妾であったデュ・バリー夫人が革命政府により、死罪を申し付けられます。彼女はかつてサンソンと恋愛関係にあったため、ギロチン台にて泣き叫びながらサンソンに助けを請いますが、サンソンにはどうすることもできませんでした。

連行されるデュ・バリー夫人

翌1794年5月10日、同じくルイ16世の妹エリザベートが処刑。その1794年には狂ったように死刑が行なわれました。シャルル・アンリ・サンソンは検事総長から死刑執行に対応できるように助手の増員を命じられ、ある日は一日に54人もの死刑執行を行なったりしています。

「すべての死刑囚に同様な死刑執行手段をもちいること。さらにその手段は必要以上に死刑囚を苦しめることがないようにすること」という理念で開発された機械装置、ギロチンがこの大量の死刑執行を可能にするという皮肉なこととなっていました。

その後、次第にサンソンは精神に異常をきたすようになり、毎晩悪夢にうなされる様になります。

引退

もはや革命は何のために始まったのか誰も分からなくなっていました。革命政府の代表者であったロベス・ピエールは反革命派と思われる人物を見境なく処刑していたため、「テルミドールのクーデター」が勃発。ロベス・ピエールは捕らわれ、1794年7月28日に処刑されます。

ロベス・ピエール

これで恐怖政治が終わったかと思いきや、国内はますます混乱し、処刑される人々は増えるばかりでした。サンソンも”次は自分の番であろう”と周りにつぶやくほど追い詰められます。

しかし、幸いなことに市民たちがサンソンを処刑すべきと声をあげることはありませんでした。

翌年の1795年、サンソンは息子に死刑執行人を譲り引退します。2000人以上を処刑したサンソンはようやくこの仕事から解放されたのでした。

その後のサンソン家

混乱に陥ったフランスはその後、ナポレオンの登場により終局を向かえます。

フランス皇帝ナポレオン

1806年、皇帝となったナポレオンはサンソンに謁見を許し呼び寄せます。この時、ナポレオンはサンソンの冷たい目を見て動揺してしまいます。落ち着いてナポレオンはサンソンに問います。

「私が犯罪者であるなら裁くことはできるか?」  サンソンは答えます。

「陛下、私は前国王を処刑台へと送ったのです」この言葉を聞いたナポレオンは凍り付いたといいます。

この年の7月4日、サンソンはこの世を去りました。享年67歳。

モンマルトルのサンソン家の墓

サンソン家はその後も死刑執行人を家業として行いますが、6代目アンリ・クレマンは己の家業を呪い、ギャンブルと酒にのめり込みサンソン家は没落してしまいます。一方でサンソン家の回顧録を記し、サンソン家の苦悩を綴っています。

これ以降サンソン一族がどうなったかは不明であり、現在では断絶したという形になっています。

その後、フランスは1981年に死刑制度を廃止。激動の時代を歩んだ一人の死刑執行人の願いはようやく果たされたのでした。

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