ルイ・アレキサンドル・ベルティエ 【ナポレオンを支えた参謀長】

ルイ・アレキサンドル・ベルティエ 【ナポレオンを支えた参謀長】フランス史

ナポレオン皇帝下のフランス帝国において副大元帥にして陸軍大臣、さらに帝国顕官副国民軍総司令官にして元老院議員、さらにはヴァランシャン公爵、ヌーシャテル大公爵、ヴァグラム大公爵に任ぜられ、そして皇帝にして国軍最高司令官であるナポレオンの参謀長でもあったのがルイ・アレキサンドル・ベルティエです。彼の劇的な人生について記してみたいと思います。

フランス軍人の家に生まれる

ロシャンボー伯爵

ベルティエの父はフランス王宮工兵部隊司令官であり、彼はその父の側室の生んだ子どもであるとはいえ正当なフランス軍人の血を引くものでした。1766年、ベルティエは13歳で王立工兵学校に学び、17歳にして正式に陸軍へ入隊。アメリカ独立戦争に派遣され、1781年には元帥ロシャンボー伯爵麾下にて勇敢に戦い、英国軍を率いていたコーンウォリス将軍を降伏させた強者でした。帰国後は大佐に昇進。ベルティエが28歳のときでした。

フランス革命とナポレオンとの出会い

1789年に始まったフランス革命においては、当初はもちろん国軍士官として国王警護の任に当たっていたのですが、しかし軍が民衆の側へつき、1792年8月10日に国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが幽閉された後は一時軍務から外されてしまいます。

ところが幸か不幸か国軍の多くの将官は革命に熱狂する兵士と民衆を恐れ他国に亡命してしまったため実際に軍統率ができる士官が不足してしまい、そこでベルティエは再び軍に呼び戻され、1796年、43歳のときにあのナポレオン・ボナパルトの参謀長として任命され、イタリア方面軍へと派遣されます。

ナポレオンへの思惑

ナポレオンの父・カルロ

ベルティエは忠実な参謀長でありながらも、実際のところナポレオンは純粋なフランス人とは言い難いのではないかという気もしていました。ナポレオンの生まれたコルシカ島はそもそもフランスではなかったからです。ジェノバが借金の形にフランスに割譲し、コルシカ独立戦争を経てフランス領となったのです。そのことに若干の功績のあったナポレオンの父親はフランスより貴族待遇を与えられ、その特権を利用してナポレオンはフランスで教育を受けたのでした。

1779年、10歳のときに陸軍幼年学校へ、そして1784年、15歳のときに陸軍士官学校へ入学。その後、フランスの混乱に乗じてトントン拍子に出世を重ね、1795年には王党派のパリにおける反乱を鎮圧し、国軍司令官となり、国民からは若き英雄と賞されてました。

コルシカ島の位置 ※wikipediaより

こちらは正当なフランス軍人、かたや全国民を熱狂させているとはいえ、コルシカ生まれの、イタリア語訛りの抜けない、ミミズがのたくったような字しか書けない男。一方でヨーロッパ一の有能な司令官でもあり、自分はその男の参謀長となってしまった…。こうして、どんな些細なミスも許されない、日々緊張し、冷や汗が乾くことのない毎日が続いていくのです。

参謀長として

23歳ごろのナポレオン肖像

それにしても、16歳も年下の天才戦術家の参謀長の役割は大変だったことでしょう。特に1796年の最初のイタリア遠征は革命の輸出を狙うフランス新政府とその影響を封じ込めたい諸外国との初めての戦いでした。ナポレオン将軍と参謀長ベルティエは約5万の兵力を持って、3月にニースを出発しました。天才戦術家の前に不可能の文字はありません。

イタリア遠征

1796年4月、ナポレオンはモンテノッテの戦いでピエモンテ=サルデーニャ王国勝利すると、翌月にその同盟国であるオーストリア軍と衝突。ロンバルディア方面の「ロディの戦い」において勝利を収めます。

実際このイタリア遠征軍はひどいものだったと言われており、軍服、軍靴だけでなく、弾薬や食料をも欠く貧相な軍隊でしたが、ベルティエが兵站線と補給物資の手配に尽力したことと、幸いにイタリア遠征は実り豊かな地である地中海北岸を進んだので、なんとか食料の確保はできたのでした。

ロディの戦い

また、ベルティエはこのイタリア遠征にて己の実力を遺憾なく発揮しました。彼は難解なナポレオンの命令を理解することに長けていたため、部下たちに正確かつ迅速に命令を伝えることが出来たのです。一方で個人的な武勇にも優れており、「ロディの戦い」では軍旗を持って突撃したとも言われています。

エジプト遠征と統領政府樹立

その後もナポレオン軍は連戦連勝を重ね、1797年4月にはオーストリアの首都ウィーンに迫り、10月にはカンポ=フォルミオ条約を総裁政府に承認させるためにパリに派遣されました。1798年にはイタリアへ赴きローマ共和国の建国に関与しています。

ピラミッドの戦い

1798年、ナポレオンはイギリスとインドの中継交易地であるオスマン帝国領エジプトを攻略すべく軍を動かします。ベルティエもこの遠征に従軍し、ナポレオンは勝利しますが、イギリス海軍の名将・ネルソン提督によって制海権を奪われてしまい、エジプトのフランス軍は孤立してしまいます。

ブリュメール18日のクーデター

手薄になったフランス本国に戻るべく、ナポレオンは一部の側近たちと共にエジプトを脱出します。ベルティエもこれに同行し、翌年無事にフランスへと帰国しました。11月には軟弱なフランス総裁政府を打倒すべくナポレオンは総裁の一人・シェイエスと共にクーデターを起こし、統領政府を樹立。ナポレオン自らが第一統領へと就任しました(ブリュメール18日のクーデター)。これによりベルティエも陸軍大臣へと任命され、ますます信用されるようになります。

第二次イタリア遠征と大昇進

アルプスを越えるナポレオン

1800年5月、ナポレオンはオーストリアに奪回されたイタリアを取り戻すべくアルプス山脈を越え、北イタリア方面へと進出。6月にはオーストリア軍とピエモンテ地方のマレンゴにて激突し、これをなんとか撃破します。(マレンゴの戦い)ベルティエも予備軍を率い、参謀長として活躍しましたが、ナポレオンの友人でもあり名将であったドゼー将軍が戦死するほどの激戦でした。

皇帝ナポレオン

その後、ナポレオンは対仏国と和睦を行い、しばらくは内政に力を注ぎます。そして1804年5月、国会の議決と国民投票を経てナポレオンは皇帝へと即位し、ベルティエら側近たちも元帥へと昇格しました。その後、第三次、第四次隊仏大同盟戦にベルティエは参加し、侯爵へと位を上げていき、1807年には帝国顕官副国民軍総司令官、元老院議員に任じられます。

妻となったマリア・バイエルン

1808年、大昇進を果たしたベルティエでしたが、40歳を過ぎても独身であったため、ナポレオンの仲介によりバイエルン王マクシミリアン1世の姪と結婚し、3人の子供に恵まれます。

オーストリア戦役と失策

カール大公

1809年4月9日、オーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結びフランスへ宣戦を布告。カール大公率いる20万のオーストリア軍主力は、フランスの同盟国バイエルンへの侵攻を開始しました。
このオーストリア軍の攻撃は予想よりも早く行われたため、急遽ベルティエがこの事態に対応することになります。しかし、ベルティエは参謀長としては優秀だったのですが、野戦軍司令官としての能力は平均的だったのです。

一方でナポレオンの命令に固執するところがあり、この時もパリからの命令書が遅れて到着してもそれに固執したため戦況を悪化させてしまいます。

ナポレオンを終始支えたダヴー

この時は名将ダヴ―の機転と駆け付けたナポレオンにより敗北は免れましたが、その時の対応を巡ってダヴーと衝突するなど、ベルティエは同僚の元帥たちとは上手くいっていませんでした。その後、アスペルン・エスリンクの戦いで手痛い敗北を受けたナポレオンはドナウ川北岸のヴァグラムでカール大公に決戦を挑みます。

7月4日、ナポレオンは暴風雨の夜をあえて選んで渡河作戦を決行。対岸からも同時に架橋作業を実施することで迅速に舟橋を構築して、オーストリア軍を奇襲する計画を立てます。しかし、ベルティエはこの時、誤って2つの軍団に同じ橋を割り当てるというミスを犯してしまい、渡河に遅れが生じてしまいます。

ヴァグラムの戦い

結果的に作戦は成功し、フランス軍は勝利しますが、ベルティエらしからぬ失策が続いた戦役でした。ナポレオンの度肝を抜く大胆な行動や自分の境遇の急な変化に疲労がたまっていたのでしょうか?また、失策を犯したベルティエでしたが、この戦いの後にヴァグラム大公爵に叙せられました。

ナポレオンとの軋轢

ナポレオンはイギリスをヨーロッパから遮断すべく大陸封鎖令を出しますが、1810年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。これを阻止すべく1812年ナポレオンはロシア遠征を敢行します。

その数約70万という凄まじい軍勢です。圧倒的兵力で進撃を続けるフランス軍に対し、ロシア軍は退却を余儀なくされます。これに対し、ロシアの総司令官クトゥーゾフはモスクワ西方に位置するボロジノにてフランス軍を迎え撃ちます。

ボロジノの戦い

この時、ベルティエはナポレオンと作戦会議にて衝突してしまいます。もともとベルティエはモスクワ進撃には反対を唱えていたのです。この事件以来、ナポレオンはベルティエを疎ましく思うようになり、しだいに彼を遠ざけるようになります。

撤退

9月7日、フランス軍とロシア軍はボロジノにて激突し、フランス軍は勝利します。しかし、決定的な打撃を与えられなかったため、多くのロシア軍は無傷のまま撤退していました。14日にはモスクワに入城したフランス軍でしたが、ロシアの焦土作戦により焼け野原となっていたのです。モスクワにて補給が出来ると考えていたフランス軍の目論見は外れ、70万の軍勢は完全に孤立し、季節は冬を迎えます。

モスクワより撤退するナポレオン

ベルティエの予想通り、極寒の大地は容赦なくフランス軍に襲い掛かり、飢えと寒さで70万近い軍勢は壊滅。栄華を誇ったナポレオン帝国に大きな影を落とすこととなります。

若き才能を見抜けなかった参謀長

アントワーヌ・アンリ・ジョミニ

ナポレオンがロシア遠征を起こす数年前の1806年のことです。ナポレオンの幕僚に新しい人物が採用されました。その人物の名はアントワーヌ・アンリ・ジョミニ。後の西欧軍事学に大きな影響を与える人物です。

ナポレオンはジョミニの才能を絶賛し、彼を重臣ミシェル・ネイの幕僚長に任命しますが、ベルティエはこの若き天才に嫉妬したのか、猛反対します。さらに、その後もジョミニの悪評を周囲に吹き込んだりするなど姑息な手を使い陥れます。

さらに、ロシア遠征後の第六次対仏大同盟における戦いでジョミニが戦功を立てたにも関わらず、ベルティエはこれを認めず、最終的に職務怠慢であるとして禁固刑を命じたのです。

アレクサンドル1世

このベルティエの仕打ちに失望したジョミニはフランス軍を離脱。敵方であるロシア軍へ走り、アレクサンドル1世に重用されることとなります。名参謀長と呼ばれた男のした行為は、帝国の終わりを早めただけでした。

その最後

ロシア遠征の失敗後も、ベルティエは参謀長として最後までナポレオンに従いましたが、もはや帝国の崩壊を防ぐことはできませんでした。

1814年4月。対仏軍にパリを陥落させられたナポレオンは部下の裏切りにより強制退位され、エルバ島へと追放されました。長い間ナポレオンの参謀長を務めたベルティエも彼の下を去り、ルイ18世に仕えることになります

ベルティエの死の真偽は不明である

1815年、ベルティエの下に手紙が届きます。その手紙にはナポレオンがエルバ島から脱出するので、再び力を貸して欲しいという内容のものでした。ベルティエは大いに悩みますが、その後、ナポレオンがエルバ島を脱出したとの報告を聞くとベルティエは邸宅に引きこもります。

数ヶ月後の1815年6月1日。ベルティエは邸宅の2階から身を投げ出しこの世を去ります。この死には諸説ありますが、真相は不明です。しかし、ベルティエが精神的に疲労していたのは想像に難くありません。

ナポレオンの最後の戦いとなったワーテルロー

その後、ナポレオンはイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いにて大敗。この敗北の要因に、一軍を委ねたエマニュエル・ド・グルーシー元帥への情報伝達が上手くいかなかったためと言われています。後にナポレオンはこう語ったと言います。

「ベルティエなら(確実に伝えるために)1ダースの伝令を出しただろう」
「もしベルティエがいたならば、私はこの不幸に会わなかっただろう。」

こうして名参謀長の死と共にナポレオンの百日天下も幕を閉じたのでした。

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