1812年のロシア遠征の失敗後、ヨーロッパ各国の反撃により、ナポレオンはエルバ島へと流されますが、1815年にエルバ島を脱出し祖国フランスへ帰国。再び皇帝の座へと返り咲きます。しかし、ワーテルローの戦いにて敗北し、絶海の孤島セントヘレナへと流され、二度とフランスの地を踏むことなくこの世を去ります。果たして、ナポレオンはこのセントヘレナにてどんな生活を送っていたのでしょうか?
島流しまでの経緯

セントヘレナ島の位置 ※wikipediaより
1815年6月、ワーテルローの地にて、ナポレオン率いるフランス軍は対仏連合軍と激突しますが、惨敗を喫します。その後、完全に四面楚歌となったナポレオンはイギリスに降伏。少数の部下と共に南大西洋に浮かぶ絶海の孤島セントヘレナへと流刑となってしまいます。
セントヘレナ島へ
1815年8月、ナポレオン一行を乗せたイギリス船ベレロフォン号は港湾都市プリマスを出港。途中、沖合にて護送を命じられていた戦列艦ノーザンバーランド号に身柄を引き渡し、セントヘレナへ向け出発します。

ベレロフォン号甲板のナポレオン
また、船上でフランス本土を見かけると帽子を取り大きく「フランスよ、さらば!」と呟いたと言います。航海中は家臣たちと雑談、読書、英語学習などに励み、時にはデッキ上のイギリス兵らに気さくに話しかけたりするなどフランクな一面も見せます。
10月にはセントヘレナ島へと到着し、居住地として用意されたロングウッド・ハウスに赴きますが、まだ修繕中という有様だったので、しばらくは中央都市ジェームズタウンにある別棟のブライアーズを仮住まいとしました。
厳しい生活環境

岩壁でうなだれるナポレオン
セントヘレナ島は高温多湿な気候のため、ナポレオン一行は慣れない暑さに苦しめられます。さらに周りは岩壁に囲まれた自然環境で啞然としてしまいます。
鬱々とするナポレオンでしたが、仮住まいとしていた地の近くに住んでいたエリザベス・ルチア(通称ベツィ)という少女がナポレオンのことを気に入り、たびたび遊びに来たのでナポレオンはそれだけを楽しみに過ごしました。

現在のロングウッド・ハウス ※wikipediaより
12月にはロングウッド・ハウスの建築が終わり、別棟から転居しましたが、ロングウッド・ハウスは絶え間なく強風にさらされ、太陽が一番差し込む場所だったので、快適ではありませんでした。
ロングウッド・ハウスは見晴らしの良い台地にあったので、監視が用意だったのです。
一日の生活サイクル
ロングウッド・ハウスの周りには常にイギリス兵が常駐しており、海上では巡視船が目を光らせていました。また、1000㎞近く離れた離島にも、もしもの時のための部隊を配置しており、アリの這い出る隙もありません。

庭園を散歩するナポレオン
こんな厳重体制下ですので、ナポレオンの一日は単調なもので、朝起きたら散歩か乗馬、昼には部下に口述筆記をさせながら長風呂に入る、そのあとは仲間達と共に馬車に乗り島を巡回、夕食後は読書か口述筆記、夜が更けると就寝。
今まで”いつ寝ているのか分からない”と言われた人物とは思えない生活サイクルです。
新総督との衝突
1816年4月、セントヘレナに新しい総督が赴任します。男の名はハドソン・ロウ。この男の赴任によりナポレオンの生活はより厳しいものとなります。
もともと、前任者のコックバーン提督は極力ナポレオンの要求に従っていましたが、次第にナポレオンの対応を疎ましく思うようになり、冷たい態度をとるようになっていきました。

ハドソン・ロウとそのサイン
そんなコックバーンの経緯を知っていたハドソン・ロウは初めから厳しい態度でナポレオンに臨みます。数日後、初めて両者は顔を合わせますが、ロウの見下した対応に悪意を感じたナポレオンは即座に嫌悪感を抱きます。
2回目に会った際には両者ともに激しい口論となり、ロウは報復として、今後ナポレオンと面会する際は自分を通してから面会するよう命じます。また、10月に一部のナポレオン支持者が救援を計画しているとの噂を聞くと、夕暮れ時に邸宅の歩哨を巡回させるようにしました。
ほかにも一日一回はナポレオンを見かけるようにと、兵たちにノルマを課したためナポレオンのストレスは溜まる一方でした。そんなロウに対しナポレオンは呪いを込めてこう呟きます。
「将来、彼の子孫はローという苗字に赤面することになるだろう」
結局、ナポレオンが亡くなるまでロウに出会った回数は数回ほどでした。よっぽど嫌いだったのでしょう。
豪勢な食事
ハドソン・ロウの赴任により増々辛い生活を強いられるナポレオンでしたが、食事は捕虜とは思えない豪華なものだったそうです。例として挙げますと…
ワイン50本、カモ4羽、ブタの丸焼き,牛肉と子牛肉23キロ、マトンまたはポーク23キロ、パン31キロ、卵42個、牛乳15本、シチメンチョウ2羽、ガチョウ2羽、ハト12羽、ニワトリ9羽、、麦芽酒、ラム酒、コニャックなど。
上記のリストは1日分の食事のリストです(汗)日頃のストレスを食事で紛らわせようとしていたのでしょうか?また、セントヘレナ産のコーヒーをナポレオンは絶賛しており、良く愛飲していたと言います。

島での年間経費は約2万ポンド(約5億円)に及んだ
どちらにせよ、胃に負担のかかる豪勢な料理ばかり食べていたのもナポレオンの死因を早めた一因だったのでしょう。
周りの家臣たち
ここでナポレオンのセントヘレナに付き従った家来を少しですが紹介したいと思います。

ベルトラン
まず、一人目がアンリ・ガティアン・ベルトランです。彼はナポレオンの若き頃からの側近で、ナポレオンがエルバ島に流された際、唯一同行した家臣です。
セントヘレナに送られた際も追随し、嫌がる家族一同も引き連れてくるほどの忠義の士でした。
ナポレオンが亡くなった後もしばらく島に滞在しています。フランス帰国後は復職し、ナポレオンの遺体をフランスに運び込む一員となっています。

グールゴー
二人目はガズパール・グールゴーです。数々の戦いに参加した勇士であり、ロシア遠征の際にはクレムリン宮殿の中に多くの火薬が仕込まれていることをナポレオンに知らせたため、ナポレオンより男爵の称号を貰い受けています。
直情剛毅で極端な性格の持ち主であったため、他の追随者であるモントロン、ラス・カーズと幾度も衝突しています。
その後、ナポレオンがモントロン夫人と親しくしていることに怒り、1818年セントヘレナから出立。フランス帰国後は、ナポレオンの遺体の運び込みに従事しています。

モントロン
3人目はシャルル=トリスタン・ド・モントロン。若くから軍人としての道を歩み、ナポレオンの側近として活躍。しかし、一方で大変な博打好きで浪費家だったと言います。
グールゴーからは強く憎まれており、セントヘレナで決闘を申し付けられるほどでした。また、モントロンの夫人はナポレオンと愛人関係にあったと言われています。
ナポレオンが亡くなるまで島に滞在しており、ナポレオンの遺産を相続しています。一説ではナポレオンの遺産を受け継ぐため、毒殺したのではないかと言われています。

ラス・カーズに戦績を口述するナポレオン
最後に紹介するのがラス・カーズです。もともとはフランスの小貴族の出でしたが、フランス革命後、イギリスに亡命。フランス帰国後、ナポレオンの侍従となります。
英語に堪能だったので、セントヘレナでは重宝されましたが、1816年に密書送付疑惑にて追放されます。フランス帰国後はナポレオンのセントヘレナでの生活を記した「セントヘレナのメモリアル(回想録)」を発表し、大人気となります。
他にも、身の回りの世話をするスタッフのなかに中国人などがいたと言われており驚きです。
悪化する病状
少しづつ家臣が去っていく中、ナポレオンの体調も徐々に悪化していきます。長年過酷な戦場に身を晒してきたツケと慣れない生活がナポレオンの健康を蝕んでいたのです。また、ハドソン・ロウによる歩哨に見つかるの嫌ったため、部屋にこもりがちとなっていました。
もともと1817年ごろから腹部の変調を自覚していたのですが、ナポレオンが医師の処方を嫌ったり、誤った治療を受けたことがより症状を悪化させてしまったのです。
1819年にベルトランが寄越した医師たち運動療法を勧めたので、庭造りや農作業に取り組み、体調は少し持ち直しますが、翌年には食事が摂れなくなったり、入浴中に失神したりするなど不安定さが目立ちます。

ナポレオンの遺書 ※wikipediaより
1821年、ナポレオンは自分の死期を悟り、モントロンに遺書を作成させました。朦朧とする意識のなかでナポレオンは呟きます。
「フランス!…軍隊!…軍隊の先頭に…息子…ジョゼフィーヌ!」
1821年5月5日。こうしてヨーロッパを股に駆けた一人の英雄が、絶海の孤島にて世を去りました。
享年51歳。
その後
ナポレオンの死から約19年後、高齢となったベルトラン一行がフランスから3カ月かけてセントヘレナに降り立ちました。ナポレオンの遺骸を引き取りに来たのです。

セントヘレナのナポレオンの墓地跡 ※wikipediaより
ナポレオンの墓はゼラニウムの谷の柳が生い茂った場所にひっそりと建っていました。
1840年12月15日。雪が舞い散るパリのアンヴァリッド(オテル・デ・ザンヴァリッド)にナポレオンを収めた棺は厳粛に収められました。ようやくナポレオンは多くの人々に迎えられ祖国フランスに帰ってきたのです。

オテル・デ・ザンヴァリッドのナポレオンの墓 ※wikipediaより
最後にナポレオンがセントヘレナで出会ったジェームズタウンの少女エリザベス・ルチア(ベツィ)の回想で終りたいと思います。
「出会ったときナポレオンの顔は死人のように蒼白かったのです」
「でも、その冷たさと平静さに加えてなにかしら厳しいところがあり、わたしにはたいへん美しいと感じられました。 ナポレオンが話をはじめると、その魅力的な微笑となめらかな動作で、それまでわたしが抱いていた恐怖心はすっかり消えていました」
この時、彼女が垣間見た姿こそが、本当のナポレオンの姿だったのかも知れませんね。