日本人の食肉の歴史について調べてみる

日本人の食肉の歴史について調べてみる健康・心と身体

現代の日本人の食習慣において、豚・牛・鶏や羊・山羊など、宗教上の規制がない限り獣肉を飲食することに抵抗のある人は少ないと思います。しかし、日本ではかつて食肉に対する規制が厳しくしかれていました。そのため体に必要とされるタンパク質は、野菜・豆・穀類・魚などから摂取する時代が長くありました。そんな日本人の食肉の歴史について気になったので調べてみました。

食肉のルーツ

近年の研究では狩猟に頼らない、アズキ・ダイズなどの豆類やアワ・キビなどの穀類の栽培は縄文時代から栽培され始めたことが分かっています。それ以前は木の実や獣肉・魚などを狩猟採集して生活していました。

縄文人の食べた肉と魚など(※かなぎ元気村様より)

日本で食肉が始まったのは、日本列島に人類が住み始めたのと同じ20万年前と言われています。大陸から稲作が伝わると米や獣肉、魚を一緒に食するのが一般的となり、縄文時代には野生のイノシシを飼いならし飼育していたという研究結果もあがっています。

稲作が伝わった当時の遺跡からも稲や大麦小麦の他、大豆、植物、桃、梅、柿などの果実の他に、イノシシ、シカなどの獣肉、タイ、マグロ、貝類などの魚介類が多く出土されています。

弥生時代の食事(※歴史まとめ.net様より)

弥生時代になると遺跡からは飼育の痕跡としたイノシシやブタ、ニワトリの歯や骨が遺跡から多数発見されており、家畜の利用が始まったことが伺えます。

しかし弥生時代あたりから人々は、「コメの栽培期間に肉食をすると稲作が失敗する」と信じており、これ以降少しずつ家畜の飼育が減少し始めます。日本人古来の”穢れ”と呼ばれるアニミズムが人々に浸透していった影響からだと思われます。

食肉禁止はいつの時代からいつまで続いた?

3世紀に書かれた『魏志倭人伝』には、以下のように記載されています。

「始め死するや停喪十余日、時に当りて肉を食はず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲食す。・・・その行来・渡海、中国に詣るには、恒に一人をして頭を梳(くしけづ)らず、蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚、肉を食はず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰(じさい)と為す。」

これによると喪中においては、喪主は肉を食べないとありますので、喪中以外は肉は食べていたと思われます。また魏志倭人伝によればこの時まだ日本には牛馬はいなかったと書かれています。

古墳時代になると牛と馬が大陸から渡来し、主に乗馬や農耕作業に使われます。時には薬として牛馬の肉や内臓を食すことがあったそうですので、完全なる肉食禁止はまだ始まってはいません。

天武天皇

しかし、飛鳥時代になり仏教が伝来すると”動物の殺生の禁止”の教えのため、貴族階級の間では肉食は次第に禁止されていきます。奈良時代になると674年(天武4年)に天武天皇が、肉食禁止と放生令により功徳を積むことで国の褒状を願う『肉食禁忌令』を発布しました。

これにより「ウシ・ウマ・イヌ・ニワトリ・サル」の5種の動物の肉食が禁止されます。この禁止令では例外的に「イノシシ・シカ」は除外され、また禁止期間も4月から9月の稲作期間に限られていました。翌年の「放生令」は取った魚を水に、飼っている鳥を野に放つという行為を推奨します。

仏教の教えが日本人の肉食に大きく影響した

このように仏教伝来と共に仏教に帰依した天武天皇は、殺生を禁止する法を度々発布しました。日本古来の「物忌み」として、不浄を避け、心身を清浄に保つ信仰が、6世紀に伝来した仏教の「殺生を罪業」とする考え方と結びついたことが貴族たちの肉食を禁止することを加速させたのです。

737年(天平9年)には聖武天皇の時代に大飢饉が起こり、豊穣を祈願して禁酒・屠殺禁止令が、後に毎月六斎美の魚漁殺生禁止など数度の殺生禁止令が出されています。

その後も中世以降、米中心食生活で獣肉食を禁止していた貴族社会ですが、庶民や下層階級は、狩猟による肉や雑穀、芋類などにより栄養を補っていました。

武士の時代の食肉

巻狩りイメージ図(※コトバンク様より)

次第に武家が台頭し、日本史において活躍するようになりますが、侍たちも元々は身分が低く、貴族たちほど肉食に抵抗がなく狩りで得た鳥獣を食べていました。鎌倉時代になると武士の嗜みとして狩りや鷹狩りが行われますが、武士も公家たち貴族らと接近するうちに、狩猟の自粛、禁止を行うようになり、肉食禁止の食生活へと変わっていきました。

1203年(建仁3年)に”尼将軍”と呼ばれる北条政子は諸国に狩猟禁止令を発布しています。これはその年に嫡子である頼家の重病や幕府内の派閥争いに関与した政子が仏教の教えに基づき、殺生を避けて現世での徳を積むために行ったのではと思われます。

その後、武士が権力を持ち始めるとこの殺生禁止の思想が広く武家社会にも広まっていきます。

1549年(天文17年)フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到来し、キリスト教と共に南蛮人によって牛肉食の風習を伝えますが、それほど普及したようではなかったようです。後に豊臣秀吉が牛肉食の慣行を宣教師たちに厳しく詰問したとの話があるのですが、足軽百姓の出身であった秀吉からしてみれば大切な牛馬を食べることは許せなかったのかもしれません。

高山右近

また戦国武将でありキリシタンでもあった高山右近は小田原城攻めの際に細川忠興、蒲生氏郷らに牛肉料理を振る舞ったと言います。

江戸時代になると徳川幕府は経済システムとして石高制社会を成立させます。これによりコメ至上価値のシステムが完成します。17世紀後半の元禄時代には徳川綱吉により「生類憐みの令」が敷かれ肉食禁止はピークを迎えます。悪法と見られがちの「生類憐みの令」ですが、儒教思想に基づいての文治政治の一環であり、”捨て子の禁止”などを推進した面などから再評価されています。

徳川綱吉

また、「犬公方」と呼ばれた綱吉は特に犬を大切にしたと言われており、このため今まで日本で行われていた犬の食肉は現代に至るまで行われなくなったそうです。

その後も江戸時代では肉食禁止を”建前”として獣肉食の禁忌が守られ続けられます。公家社会では肉食禁止は守られますが、庶民や武家社会においても薬と称して肉食を行っています。

日本おいて食肉禁止が行われていた時代は、おおまかにいって、天武天皇の「肉食禁忌令」から始まり、明治維新により訪れた文明開化で西洋文明を取り入れるまで続くこととなります。

肉=薬だった? 獣肉の代わりに食べていたもの

日本ではかつて「薬食い」と言われる習慣があったこともご紹介します。

肉食禁止の江戸時代にあっても「滋養や保温・病人への薬になる」という口実で、イノシシ・シカ・ウマなどの獣肉を食していました。有名な民間療法で馬肉を湿布替わりにしていたという話なども日本にはあります。

井伊直弼

1848年(嘉永元年)には彦根藩主である井伊直弼から徳川斉昭に牛肉を送ったことに対する令状が、彦根城博物館に現在も残っています。武士であっても、薬と称することにより牛肉を口にすることができたという証拠ですね。

文化文政の時代「ももんじ屋」と名乗る獣肉を食べさせる店では、鹿肉は「紅葉」、猪肉は「山鯨」と隠語で呼ばれ、町民ら庶民も肉に親しんでいたようです。しかし、大名行列が店の前を通るのを嫌がったりしたことや、店に行く者たちも「薬喰い」と名目で通っていたことから表向きの食肉忌避は存在していたようです。

山くじら屋の浮世絵(※wikipediaより)

また獣肉の代わりとして食べられていたものの代表が、魚と称して食べられていた鯨肉です。江戸時代中期から後期にかけては、「山くじら」と看板を掲げてイノシシを食べさせるお店もあったことから、クジラは食べてもよい魚であると理解されています。

現代では鯨肉を食べることを嫌う、欧米人も日本人同様、肉を食べられない時期、カトリックの小斎のように肉食が禁じられている時期に「魚」として鯨肉を食べることもあったようです。

1860年頃のアメリカでの捕鯨(※wikipediaより)

沿岸鯨類の資源の枯渇から徐々に鯨は食用とされなくなり、鯨は油やヒゲを工業原料として使用するのみとなっていきます。ハーマン・メルヴィル著「白鯨」の中にはイルカの美味しさや、鯨のステーキを食べる描写もあることから、一切の鯨肉食用の禁止はなかったと思われます。

獣肉禁止の理由と欧米の食肉観

日本では、仏教の殺生禁忌の思想と共に「死穢」、「血穢」を忌む神道思想が合わさり、日本の食肉禁止が確立していきました。また肉食禁止は、仏教伝来と共に広まったと言われていますが、日本の古代国家が水田志向を強め、経済の基本をコメとする政策を推し進めたために、肉食が禁じられていったという研究もあります。

イギリスでは食糧難を除き馬肉食はタブーとなっている

一方でアメリカの文化人類学者によると、英米人は馬に対して愛玩動物や使役動物としてのイメージが強く、食用とするのを嫌うそうです。しかし国が変れば、馬を食用として喜ぶ国も多く、フランスではタルタルステーキは本来馬肉を使用します。また、イタリア人は貧血には是非馬肉をと進める人もいるようです。

各国の文化や宗教理念が獣肉食を制限していたように思われます。

食肉禁止時代の日本人はタンパク質を取らなくても大丈夫だった?

約1200年の間、肉食を禁止していた日本人ですが、人口が膨大に減少したということもないし、海外に比べて伝染病などにかかりやすかった、免疫力が低かったという話が突出してあるわけではなりません。

人間は肉を食べなくても大丈夫なの?という疑問ですが、菜食主義者やビーガンなど健康志向の方が現代社会に流行っていることもあり、純粋な日本食は健康によいと見直されていたりもします。

ここで面白い逸話があります。

明治次時代初期に、お雇い外国人として招かれたドイツ人医師ルウィン・フォン・ベルツ氏が東京から日光まで移動する際に、馬の代わりに交代した車夫が一人で14時間も車を引いた持久力に驚愕し、肉を食べさせればさらに強くなると思い、車夫に肉を食べさせたところ疲労困憊してしまったという話があります。「参照:「ベルツの日記 上・下」エルウイン・ベルツ著(岩波文庫)」

1863年-1877年頃の飛脚の写真

肉類に含まれるたんぱく質や脂質は、腸内で腐敗・酸毒化しやすく、長い腸に老廃物が長時間とどまり、血液を汚し、細胞や組織を劣化させていろんな病気を発症させることになる、との内容がこの本には書かれています。

肉食が禁止されていた時代でも日本人は上手にタンパク質を補給していました。約1200年の間、大豆と米で植物性たんぱく質、魚などで動物性たんぱく質を摂取していたのです。

魚やそれらの加工品である干物で動物性のタンパク質を摂取するほかに、精進料理の発達により植物性食品による肉に近い味や食感の工夫もしていました。江戸時代には「豆腐百珍」など、豆腐を使った料理本なども流行っていたようです。

ベストセラーとなった”豆腐百珍”※合同会社ワライト様より

大豆粉、小麦粉、味噌、植物油の使用で十分ではありませんでしたが、カロリーとタンパク質の摂取は最低限はされていたようです。

日本人の食肉再開と西洋化

1871年(明治4年)12月、明治天皇が肉食解禁令を出し、自ら進んで食べることを宣言します。これにより実に約1200年の肉食禁止の時代が終わったことになります。これは西洋列強との外交で会食に出される西洋料理を食する必要にかられたためという事情があります。

これは「牛鍋喰わぬは開化せぬ奴」という流行語でも象徴されています。少し前まで牛鍋屋といえばゴロツキと訳の分からぬ書生が集う「最底辺の店」と福沢諭吉が評していたのにこの変わりようは驚きです。

文明開化と共に流行した牛鍋屋

その後もしばらくは牛肉食は忌避されますが、次第にビーフステーキやロールキャベツ、コロッケにカレーライスなどの洋風料理が流行りだすと、少しずつ悪感情は和らいでいき、1930年ごろには獣肉食に対する禁忌の感情はほぼ無くなっていったと言います。

肉食の普及とこれから

1967年(昭和42年)第二次大戦後の食糧不足から日本は脱し、高度経済成長と共にコメの生産量は史上最高の1,4451万トンに達しました。しかし食生活の西洋化が加速し、戦前までコメの1人年間消費量が160㎏とされていたものが、1985年(昭和61年)には年間71㎏までと落ち込みます。

日本人全てに魚だけでなく、卵・獣肉の料理などのカロリーの高い食材が食卓にのぼることとなりました。しかし、バランスを考えない肉食は健康に害を与えることになります。

結果として肥満・腸内環境の乱れ、血圧やコレステロールの増加による生活習慣病や大腸がんなどのリスクを招きまねません。現代の我々日本人はかつての日本人の食事を参考に見直してみることが大切かもしれませんね。

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