長嶺諸近と刀伊の入寇 ~もう一つのGHOST OF TSUSHIMA~

長嶺諸近と刀伊の入寇 ~もう一つのGHOST OF TSUSHIMA~平安時代

1019年(寛仁3年)3月27日、刀伊(とい)の賊船が対馬に何の前触れもなくやってきました。日本史上「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」といわれる事件です。この事件で、刀伊に連れ去られた日本人の消息を独自に調査し、刀伊の正体や事件の詳細を太宰府に報告したのが長嶺諸近という人物です。今回は、「刀伊の入寇」という事件と、愛する家族を救うため、身の危険をおかしてでも海を渡った長嶺諸近についてご紹介します。

刀伊とは?

騎馬民族イメージ図 (※画像はフン族)

そもそも「刀伊」とはいったい何者なのでしょうか。刀伊の入寇が起きたころ、朝鮮半島は高麗(こうらい)が支配していました。高麗では、女真族(じょしんぞく)を異民族として東夷(とうい)と呼んでおり、これに日本の文字を当て「刀伊」となったとされています。

話はそれますが、女真族は1115年に金(きん)を建国します。金は1125年には遼(りょう)を、1127年には北宋(ほくそう)を立て続けに滅ぼし、中国の北半分を支配しました。世界史にふれたことのある方なら、なじみのある民族ではないでしょうか。

刀伊の入寇

倭寇

「寇」という漢字には、「危害を及ぼす」、「他国に攻め入る」などの意味があります。この字を使った有名な言葉といえば「元寇(げんこう)」や「倭寇(わこう)」が思い浮かぶでしょうか。

文字通り「元寇」は、鎌倉時代中期に元(蒙古)軍が九州に2度にわたって襲来した事件であり、「倭寇」は鎌倉時代末期から戦国時代(14世紀末~16世紀)朝鮮半島から中国大陸沿岸を襲った日本の海賊に対する、朝鮮と中国側の呼称です。

「刀伊の入寇」も同様に、「刀伊」と呼ばれる外敵が日本に攻め入ってきたことを意味しています。

事件の経過

1019年(寛仁3年)3月、海の向こうから刀伊の船団が現れ、突如対馬を襲いました。以下、時系列で事件の経過をご紹介します。

対馬への襲撃

刀伊賊侵攻図 ※歴史総合ドットコム様より

1019年3月27日、船約50隻に約3,000人が乗り込んだ刀伊の船団が対馬島に襲来。島の各地で殺人や放火、略奪をおこない、36人が殺され、346人もの人が拉致されました。このときに長嶺諸近とその母、妻、妹、伯母、従者も刀伊に連れ去られてしまいます。

壱岐への襲撃

対馬襲撃後、刀伊はさらに南下し、壱岐(現在の長崎県壱岐市)を襲撃。急に現れた賊は人々を襲撃します。家畜を食い荒らしているとの報告を受けた国司・藤原理忠(ふじわらのまさただ)は、147名の兵士を率い、討伐に向かいます。しかし、約3,000人の賊に対し、多勢に無勢。味方の兵士と共にみずからも討死してしまいます。

壱岐では老人や子供は殺され、壮年の男女は拉致されました。島民のうち男44人、僧侶16人、子供29人、女59人、合計148人が虐殺され、239人の女性が拉致されました。生き残った島民は、わずかに35人だけだったと記録されています。

筑前・肥前への襲撃

公家でありながら武に通じていた藤原隆家

壱岐島がおそわれた後、刀伊たちは九州に上陸。筑前国(現在の福岡県)の怡土郡(いとぐん)、糸島郡(いとしまぐん)、早良郡(さわらぐん)が刀伊の標的となり、4月9日には博多が襲われました。

博多には警固所と呼ばれる防御施設があり、刀伊はここを焼き払おうとしました。しかし大宰権帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)と大蔵種材(おおくらのたねき)らがこれに応戦、撃退しました。

博多で撃退された刀伊は、4月13日に肥前国・松浦郡(まつうらぐん)を襲います。しかし、ここでも松浦党の祖とされる源知(みなもとのしらす)がこれを撃退しました。その後、対馬を再度襲撃したのち朝鮮半島へ撤退していきました。

長嶺諸近

家族のため諸近は大陸へと渡航する

対馬島では346人の住人が拉致されましたが、諸近もそのうちの1人でした。刀伊の賊船が壱岐、筑前、肥前を襲来したのち、撤退する経緯で対馬に再度襲来したさいに1人脱出に成功します。諸近は拉致された家族の安否を確認するため、海外に渡海することが禁じられていることを承知しながら、高麗・金海府(きんかいふ、現在の韓国・金海市)に渡ったのです。諸近が高麗で得た情報は以下の通りです。

・九州をおそった賊の主力は高麗ではなく刀伊(女真族)であった。

・高麗の海岸のいくつかの村を襲ったのち、日本へ向かって行った。

・高麗軍が刀伊を討ち、捕らわれの身となっていた約300人の日本人は全員救助し、高麗軍に保護されていた。諸近の家族は伯母以外の、母、妻、妹は刀伊に殺害されていた。

諸近は、救助された中にいた、内蔵石女(くらのいわめ)と多治比阿古見(たじひのあこみ)という2人の女からの報告とともに、事件の詳細を大宰府の太政官に提出します。この報告により大宰府は、刀伊の正体と捕虜の消息、刀伊の入寇という事件の全容をつかむことができたのでした。

長嶺諸近のその後

現在の太宰府天満宮 ※wikipediaより

諸近が調査した報告により事件の全容をつかんだ大宰府。その功績を認められてなにかしらの恩賞があるのかとおもいきや、禁止されていた渡海の禁をやぶり高麗に渡った罪は重く、諸近は褒賞どころか禁固刑に処されてしまいました。その後の諸近のことについては資料が残されておらず、消息不明となっています。

おわりに

約250年後に再び大乱が起こることに…

これまでご紹介してきたように、突如として平穏な対馬国を襲った得体の知れぬ賊に拉致された諸近。1人脱出し、捕らわれた家族の安否を確認するため海をわたるものの、愛する家族は殺されていたという結末。賊の正体や事件の詳細を調査、報告したという功績はまったく認められず、海を渡ったという罪を問われ身柄を拘束されるという悲劇。

刀伊の襲来があった日を契機に、諸近の身辺には映画やドラマでみるような激動の人生がおそいました。刀伊の入寇さえなければ、諸近は対馬国の役人として平穏無事な人生を送っていたことでしょう。

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