ラビンドラナート・タゴール 【アジア初のノーベル賞を受けたベンガルの詩聖】

ラビンドラナート・タゴール 【アジア初のノーベル賞を受けたベンガルの詩聖】インド史

皆さんは、アジア人で初めてノーベル賞を取った人物をご存知でしょうか?それは、インドのラビンドラナート・タゴールです。タゴールは現在もインド、バングラデシュと言ったアジアの国々で尊敬されており、ガンジーやアインシュタイン、そして日本とも深く関わりがあった人物なのです。今回はそんなタゴールが残した功績について紹介していきたいと思います。

若き日の生い立ち

1861年5月7日、ベンガル州カルカッタの名門タゴール家に15人兄弟の末っ子として誕生。(14番目という説もある)タゴール家は家は祖父の代で大商人にのし上がったという経緯もあり、どちらかというとエリート的な家庭でした。

イギリス留学

ロンドンでのタゴール

1878年、タゴールの父はタゴールを弁護士にしたいと考えていたため、タゴールは渡英し大学に入学します。しかし、どちらかというと法律より、イギリス文学や戯曲に興味を抱いていたため卒業には失敗してしまい、学位を取らずに故郷へと帰ることになります。

結婚

故郷へ戻ったタゴールは定期的に詩や小説などの創作に取り掛かりますが、父親は心配したのかタゴールに所帯を持たせることにし、1883年にタゴールは結婚します。相手はムリナリニ・デビという僅か10歳足らずの少女でした。

妻ムリナリニと

1890年には現在のバングラデシュがある広大な先祖代々の土地を管理するため移転し、1898年には妻と子供たちもそこに加わりここで農村生活を始めます。

伝説のバウルとの出会い

フォキル・ラロン・シャハのスケッチ

農村生活と詩の文学活動に勤しむタゴールでしたが、ここで大きな出会いを果たします。当時郵便局員であったガガン・ハルカラ(※後のバングラデシュ国家作曲者)を通じて、ベンガルの伝説的なバウル(※吟遊詩人)であるフォキル・ラロン・シャハ(シャー)と出会います。

余命幾許も無いシャハから話を聞き、タゴールは大きな影響を受けます。この出会いの後、タゴールはシャハの詩の普及と作詩活動に力を入れます。

タゴール、その後半生

1901年、タゴールはカルカッタの北西にあるシャンティニケタンに移り、学校の建設を始めます。学校は大理石の床の礼拝堂、実験施設、庭園、図書館などが設けられた立派なもので、1921年には大学となり、1951年にはインド政府管理の下、現在のタゴール国際大学となります。

大学設立記念の切手

ベンガルの発展に大きく寄与したタゴールでしたが、この時期に親族を立て続けに亡くします。1902年には妻であるムリナリニを、翌年には子供、1905年には父親のデーヴェンドラナートを、さらに1907年にもう一人の子供を失ったタゴールは精神的に疲弊したと言います。

ギタンジャリ発刊とノーベル文学賞受賞

詩集ギタンジャリ

父の死後、一部の財産を引き継いだタゴールはその後も作品の製作活動を続けます。1905年イギリスにより、民族運動の分断を図るベンガル分割令が出されると反対運動に参加しますが、後に活動から身を引きます。

1909年、タゴールはベンガル語によって書かれた詩集「ギタンジャリ」を執筆。ギタンシャリとは「神への捧げ歌」を意味します。また、タゴールは自ら英訳した物も発刊したので英国では大きな注目を浴びるようになり、これを読んだアイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェイツも絶賛したほどでした。

ウィリアム・バトラー・イェイツ

この作品が評価され、1913年にアジア人として初めてのノーベル賞、ノーベル文学賞を受賞しました。ノーベル賞の受賞理由が「西洋文学の一角をなす英語で思考し表現された」とあるため、タゴールの表現力の高さと知識が西欧文学界に大きな衝撃を与えた瞬間でもありました。

翌年にイギリス本国から「ナイト」の称号を授けられますが、1919年にイギリスによるアムリットサル虐殺事件が起こると、この称号を返上しています。

日本との関係

タゴールは日本に対し高い関心をを持っていおり、生涯に5度来日しています。また、多くの日本の文化人、有力者と面会しておりタゴールの影響力の高さを伺うことが出来ます。

岡倉天心

1902年、インドに放遊しに来た岡倉天心と出会い親交を結びます。1905年には創立間もないシャンティニケタンの学園に日本人の講師を招きたいと仏教僧の河口慧海に相談しています。

初来日時のタゴール(右端が横山大観)

1916年、日本に初来日したタゴールは日本女子大学の関係者らから歓待を受け、7月には同校で講演を行います。さらに8月には渋沢栄一から招待を受けて晩餐会に出席。一方で三年前に亡くなった岡倉天心の墓を訪れ、天心ゆかりの六角堂にて詩を詠んでいます。

野口米次郎

1924年6月に3度目の来日を果たしますが、日本の急進的な西欧化と大陸進出を批難し、日本の軍事行動を「日本の伝統美の感覚を自ら壊すもの」と評します。タゴールのこうした日本批判に対して、友人でもあった野口米次郎とは論争にまで発展し、次第に軋轢が生じてしまいます。

タゴールと渋沢栄一 ※ppkのブログ様より

1929年、渋沢栄一らが所属した組織、帰一協会の歓迎を受けて来日しますが、これを最後にタゴールは来日することはありませんでした。果たして、タゴールの瞳にこの時の日本はどのように映ったのでしょうか?

その後のタゴール

タゴールとアインシュタイン

タゴールはその生涯において30か国近くの国々を巡り、多くの人々から敬意を表されます。有名な歴史人を挙げると、アインシュタイン、ガンジー、ロマン・ロラン、H・Gウェルズ、ムッソリーニなど数え切れないほどです。それほど、タゴールの魅力に惹かれた人物が多かったのが分かります。

タゴールとガンジー

また、タゴールは帝国主義やナショナリズムに嫌悪感を抱いており、インドの独立運動は支援していました。しかし、考え方の違いからガンジーのやり方を批判していたという一面もあります。

ネルーと話すタゴール

晩年は長期の病気に悩まされ、1937年には昏睡状態に陥るなど活動に支障がでるようになります。
そして1941年、タゴールは自宅にて静かにこの世を去りました。81歳でした。この世を去る数週間前まで詩の製作に取り組んでおり、最後の詩は口述筆記にて関係者に書いてもらっていたと言います。

おわりに

今なお影響力を持つタゴール

タゴールの死後、世界二度目の大戦も終結し、植民地支配の時代は終わりを告げます。大戦後独立を果たしたインドはタゴールがベンガル語で作詞した「ジャナ・ガナ・マナ」を国家へと採用し、東パキスタンから独立したバングラデシュもタゴールが作詞した「わが黄金のベンガルよ」を国家へと採用しました。

その類まれなる表現力と自らの足で各国を訪れるタゴールの行動力は一詩人の範疇を超えており、まさに偉人であったことを痛感させられます。また、タゴールは学校教育の中で創造的教育に重きを置いており、世界が推し進める機械偏重の工業化には懐疑的で、将来的に破壊的結果をもたらすと警告を発していたと言います。

上記の警告は我々現代人が耳を傾ける課題であると思うと共に、筆者が個人的に心を揺さぶられたタゴールの3つの名言で終りたいと思います。

何が起ころうとも正に自分の精神力でそれを良い方向に向けていくのは私たちの努力次第なのです。

哲学なき政治、感性なき知性、労働なき富、この三つが国家崩壊の要因なり。

子どもは、どの子も、神はまだ人間に失望していないというメッセージをたずさえて生まれてくる。

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