ラクシュミー・バーイー 【インドのジャンヌダルクと呼ばれた王女】

ラクシュミー・バーイー 【インドのジャンヌダルクと呼ばれた王女】インド史

1757年に始まったプラッシーの戦いの後、イギリス東インド会社はムガル帝国を傀儡化し、着々と植民地化を推し進めます。それから約100年後、イギリスの横暴から解放されるべくインド人による初の民族的反乱が勃発。その時、反乱軍の中心的存在となったのが今回紹介するラクシュミー・バーイーです。インド独立のために戦ったインドのジャンヌダルクとは如何なる女性だったのでしょうか?

出自について

バラナシのラクシュミー像

ラクシュミー・バーイーとして知られる彼女ですが、この名前は結婚後に与えられたもので、生まれた時の名前は、マニカルニカです。マニカルニカは「宝石のついた耳飾り」という意味ですが、ガンジス川の別名でもあるのです。そのガンジス川が悠々と流れるヴァーラーナスィーの街で、1834年にマニカルニカ、愛称マヌは誕生しました。

彼女はインド西部マハーラーシュトラを起源とするマラーター族の高位カーストであるブラフミンの家庭に誕生。父親はモロパントゥ・タンベ。母親はバハギラティ。ともにマハーラーシュトラからヴァーラーナスィーにやって来ました。その後、父親はビトゥールを治めるバージ・バーオ2世に仕えるため、マヌもヴァーラーナスィーからビトゥールへ移り住みます。

ところで、どうしてマヌの一家は、インド西部マハーラーシュトラからインド中央部に来ているのでしょうか。1674年にデカン地方でマラーター王国が樹立した後、多くの覇権争いや同盟を経て、インド中央部の東西に跨ぐ形で領土を拡大。それに伴い、多くのマラーター藩王やそれに仕える人々が、各地へ赴いていたのです。

条約にサインするバージ・バーオ2世

しかし、マヌが誕生した頃には、イギリスがマラーター諸藩王国らから領土を譲り受けるようになり、栄華を極めたマラーター一族が、大英帝国の手中に落ちていくさ中にありました。マヌの父親が仕えていたバージ・バーオ2世も、イギリスに領土を没収され、イギリスから年金とビトゥールを領地として与えられて生活するようにな有様でした。

少女期と結婚

マヌの母親は、彼女が4歳の時に亡くなり、父親と乳母によって育てられました。読み書きもでき、とても活発で勇気のある少女だったようです。語り継がれている逸話として、街中で暴れ回る王宮の象を、わずか8歳のマヌが、木から象に飛び乗って鎮めたと言われています。

勇敢なマヌは、宮殿お抱えの騎兵隊教官による訓練に自ら好んで参加し、馬術や剣術などを習得しました。マラーターの騎兵隊は、インドでもその強さには定評があり、マラーター族の誇りと言っても過言ではありませんでした。

ガンガダール・ラーオ

そんなマヌにも14歳になると縁談の話が持ち上ります。そのお相手は、ジャーンスィーの藩王国王であるガンガダール・ラーオ。ガンガダール・ラーオは、1度結婚しているのですが、妻がすぐに亡くなっていたのです。

そして1849年5月、結婚の儀式が執り行われます。ここでも彼女に関する一つの逸話があります。儀式の中で、新郎新婦は互いのショールを結び、聖火の周りをまわるという行為があるのですが、その際、新婦は終始おしとやかにしているものなのにマヌは「もっときつく結んでください!」と、僧侶に言ったとか。

こうして15歳のマヌは約30歳も年の離れた国王の妻となり、ジャーンスィーの運命を背負うことになります。同時に、当時の慣例に則り、彼女の名前は幸運をもたらす女神と同じ名前「ラクシュミー」となり、ここにラクシュミー・バーイー(バーイーはマラーティー語で「レディ」の意味で、女性の尊称で使用される)が誕生しました。

正装のラクシュミー

結婚してからも、ラクシュミーのお転婆ぶりは相変わらずで、女性専用部屋に籠ることはせず、ジャーンスィーでも乗馬や武術の腕に磨きをかける毎日。さらに、自身が率いる女性だけで構成された騎馬隊を発足させます。この騎馬隊は街でも評判だったようで、ラクシュミーの剣術も素晴らしく、住民を悩ます山賊との一騎打ちで圧倒的な強さを見せつけ、配下にしてしまったという逸話が残っているほどです。

イギリスとの衝突

国王ガンガダール・ラーオは、ジャーンスィーの財政を好転させ、文化芸術を愛する国王でした。しかし、彼には跡継ぎがいなかったのです。当時、跡継ぎのいない藩王は、イギリスにどんどん占領されていました。

それに対し、ラクシュミーは最大の責務である「世継ぎを生むこと」を無事果たします。結婚して4年後、彼女は男児を出産しました。これにジャーンスィーは祝福と喜びにあふれ、多くの人々がお祝いに駆け付け、宴が幾日にもわたって開かれた。しかし、この男児の名前は歴史に残っていません。名づけの儀式が行われる前に、亡くなってしまったのです。

状況は容赦なく彼らを追い込んでいきます。ガンガダール・ラーオ王が体調を崩し、跡継ぎの誕生が難しいと判断した大臣たちは、養子をとることを進言。そこで、ガンガダール・ラーオの従弟にあたる5歳のダモダール・ラーオを養子として迎え入れます。しかし、これでは安心できなかったため、王宮は先手を打ちます。先にジャーンスィーにいるイギリス人を王宮に呼び、ダモダール・ラーオがジャーンスィー王国の跡継ぎであると認めさせてしまおうと計画します。

ラクシュミーの決意

ガンガダール・ラーオ王の命が尽きようとしている1853年11月20日の朝。王宮でのマハラジャ遺言公表の式が執り行われます。国王の祖父の血筋にあたるダモダール・ラーオを養子とし、ジャンシーの王位継承者とすること。彼が未成年の間は、ラクシュミーを摂政として政務を委任するということを発表しました。

この式の翌日、ガンガダール・ラーオは亡くなり、ラクシュミーは19歳で未亡人となってしまいました。こうして、イギリスはおろか敵対する藩王国も、今や好機とジャーンスィーを虎視眈々と狙うようになります。

ダルハウジー伯爵

さらに、ジャーンスィーの大臣らの悪い予感は的中。インド総督ダルハウジーからイギリスに忠誠を尽くすことで得た領土にいる藩王や部族は、その養子を後継者と認めることはできないというのだ。当然、ラクシュミーはこの決定に異を唱えます。

周辺の国々は養子を認めらえている。なぜ、ジャーンスィーは認められないのか。ラクシュミーは何度もインド総督府に抗議文を送りましたが、回答がくることはありませんでした。東インド会社相手に裁判で勝訴した弁護士ジョン・ラングからも訴状を出してもらったが、結果が覆ることはありませんでした。

過去、数回にわたってイギリスとの間に結んだ条約は、イギリスの都合の良いように解釈され、無視されたのです。

怒りに満ちたラクシュミーは言い放ちます。「メーリージャーンスィー、ナヒーンドゥーンギー!(私のジャーンスィーは、渡さない!)」

インド大反乱

6月1日、ジャーンスィーは、その王宮以外の公共の建物は総督府の財産となり、城はインド第12歩兵連隊、ベンガル連隊の第14独立騎兵隊の兵舎となるため、城を明け渡すように通達。住民にもイギリス政府の臣民として行動することが布告され、暗にダモダール・ラーオが王位を回復することはないことを知らしめます。追いつめられるラクシュミーら王族たち…。

インドの大反乱

一方1857年5月10日。ジャーンスィーから約200km離れたメーラトで、イギリス軍として雇われていたインド兵(スィパーヒー)が一斉に武装蜂起。インドにとって転機となる「インド大反乱」です。その1か月後。ジャーンスィーに駐在していたインド兵もこれに呼応し始めます。ジャーンスィーに住むイギリス人の身にも危険が迫り、城へ逃げ込んで反乱軍に応戦しますが、城は完全に包囲されてしまいます。

城へ逃げ込んだイギリス人たちは、ラクシュミーに城から脱出させてほしいと嘆願したが、ラクシュミーにそれを手助けできる術はありませんでした。城に逃げ込んだイギリス人たちは、正義の名に酔いしれたインド反乱軍によって殺されてしまいます。イギリスはジャーンスィーでの虐殺の事実を知って憤慨、鎮圧に乗り出します。そして、この事件がイギリスにとって、植民地化を進める格好の口実となってしまうのです。

決断

武装するラクシュミー

ラクシュミーの敵は、イギリスだけではありませんでした。その年の10月には、隣国オルチャの国の首相ナス・カーンがジャーンスィー侵略を企て、オルチャ軍1万人を進行。この時はラクシュミーの戦略で、ジャーンスィーの東からバンプール部隊がオルチャ軍を挟み撃ちにし、オルチャ軍を撤退させることに成功させます。

どうしてもジャーンスィーを手中にできないイギリスは、遂に百戦錬磨のヒュー・ローズ将軍にジャーンスィー陥落を命じます。ローズは1858年1月にボンベイに着くと、インド中央野戦軍を率いてジャーンスィーへと進軍を開始。

ラクシュミーを苦しめるヒュー・ローズ将軍像

イギリス軍がジャーンスィーへ向かっていることを知ったラクシュミーは、選択を迫られます。これからやってくるイギリス軍を迎え撃つか、和平を結ぶか…。イギリスは彼女を捕らえ、ジャーンスィーでのイギリス人虐殺について裁判にかけ、絞首刑に処そうとしている…。和平を結んだとしても、ラクシュミーはどのみち殺されることになっていました。

僅か23歳のラクシュミーは決断します。どちらを選んでも死からは逃れられない。それなら、ジャーンスィーのために戦って死のう…と。

ジャーンスィー攻防戦

ジャーンスィー城

こうして、両者の戦いの火蓋が切って下ろされます。3月24日、イギリス軍によるジャーンスィー城への砲撃が開始されます。ラクシュミー側も城の南側にある巨大な砲台で応戦します。

モティらが扱った大砲

城内では女性も弾薬運びを引き受けていました。踊り子でもあり、ラクシュミーの女性騎兵隊の一員でもあったモティ(「真珠」の意)は、この砲台をも巧みに操ります。しかし、4日間の集中砲火を浴びた砲台は、次第に崩壊。しかし、強固な城壁は崩れません。イギリス軍も砲弾が尽き、暑さで兵の3分の1が動けなくなってしまいます。

 

籠城5日目、ジャーンスィー軍にとって、待ちに待った援軍がやってきます。ラクシュミーとビトゥールで訓練を重ねたタチーヤ・トーペが、援軍を率いてチャルカーリからジャンシーへやって来たのです。この時、2万人の兵と18ポンド砲を率いて、イギリス軍を挟み撃ちにし、殲滅する作戦でした。

しかし、タチーヤ軍は、イギリス軍の反撃が始まると、雲の子を散らすように退却してしまったのです。タチーヤ軍は人数こそ多かったが、訓練された兵士はわずか8%しかおらず、組織として盤石ではなかったのです。

ジャーンスィー城の攻防

いよいよ街中へ通じるジャーンスィー城の東側からイギリス軍が侵攻を開始。ローズ将軍はジャンシー市街の16歳以上の男子は殺すよう命じます。それでも勇猛果敢なジャーンスィー軍は、男性も女性も抵抗を継続。

兵の装備はタルワール(刀)と旧式の火縄銃でしたが、日本の織田信長の「三段打ち」さながらに、充填作業を終えた兵が前進し、絶え間なく発砲します。他方、イギリス軍が所有していた最新のエンフィールド銃は、暑さのため金具が焼き付いて動かなくなり、まったく役に立ちませんでした。

飛び降りた城壁からの展望

しかし、次第にジャーンスィー城は押され、敗北が濃厚になった頃、ラクシュミーをはじめパシュトゥーン兵を含む数名の先鋭部隊が、脱出を試みます。どのように脱出したかは諸説あるのですが、有名な説は、彼女がダモダール・ラーオを背負ったまま馬で城から飛び降りた説です。

現在も、飛び降りた城壁が残っていますが、その傾斜はきつく、飛び降りた話はにわかに信じがたいと思われます。その後、ジャーンスィーのために命を捧げると決意した人々は、文字どおりジャーンスィー城とともに、イギリス軍の手で散っていきました。

反乱再起

脱出したラクシュミーら一団は、タチーヤの兵器庫であるカルピー城に到着。そこで別の反乱軍と合流。この時、ジャーンスィー軍は僅か60人になっていました。早速、次の決戦について議論が交わされます。

現在のカルピー城

カルピー城はジャーンスィー城ほど強固ではなく、重要な兵器が保管されているため、カルピーとジャーンスィーのほぼ中央にあるコンチで、イギリス軍を迎撃することに決定。しかし5月6日、多くの反乱軍が、イギリスは南からくるだろうと守備を固めていたのですが、真反対の北西からの侵攻してきたのです。

多くのエンフィールド銃を失い、酷暑のなかでイギリス軍は万全の状態ではなかったものの、カルピー城がまだあるという油断があったのか、早々に反乱軍は退却を決めてしまいます。

英軍の標準装備であったエンフィールド銃

対しててイギリス軍もこれに対する準備をしており、マドラスから前進しているマクスウエル将軍の部隊と合流し、5月22日の早朝、ローズ将軍がカルピー城の攻撃を開始します。反乱軍も城から飛び出して、これを迎え撃ちます。

ラクシュミーは、イギリス軍の砲兵陣地5メートルまで近づき、砲手をパシュトゥーン兵らとともに集中攻撃。カルピーはヤムナ川を背にしており、もはやここが最終防御線で後に引くことはできなかったのです。

最後まで、ラクシュミーは、兵を鼓舞し、戦いに身を投じるものの、この激闘も長くは続きませんでした。次第に反乱軍の勢力は弱まり、散り散りにカルピーを後にしました。ついに、カルピーもイギリス軍によって陥落し、ローズ将軍も、これで反乱軍は二度と蜂起できないだろうと確信を抱きます。

グワリオール城占拠

ラクシュミーら一部反乱軍は生き残った兵士600人を引き連れて、次の戦いの基地となる城を探しします。そこで彼らが向かったのは、この地域では難攻不落として有名なグワリオール城でした。グワリオール城は、その強固な城壁もさることながら、武器なども豊富にあり、グワリオール軍も非常に優秀であると知られていました。

グワリオール城

唯一の懸念事項は、グワリオール藩王シンディア家は、根っからのイギリス擁護者であり、反乱軍からの協力要請の手紙に見向きもしなかったことです。グワリオールへ向かったところで、銃口が彼ら反乱軍に向けられる可能性も大いにあったのです。

6月1日、グワリオールから東へ3kmの地点にある軍営モラールにいた反乱軍のもとに、グワリオール軍がやって来ます。両者間には緊張が走るも、ラクシュミーが姿を現すや否や、多くのグワリオール軍が反乱軍に呼応し、イギリスに反乱を起こす意志があることを示します。

ジャヤージー・ラーオ

ラクシュミーと同年代のグワリオール藩王ジャヤージー・ラーオ(彼も養子である)は、この姿を目の当たりにし、親衛隊を率いてグワリオールにすら立ち寄らず、イギリス軍に助けを求めて一路アーグラーへと逃げ去ります。このことは、当然、イギリス軍を率いるローズ将軍の耳にも届いており、グワリオール城が反乱軍の手に渡ることは、イギリス軍がもっとも恐れていた事態でした。

最後の戦い

こうして、グワリオール城はラクシュミー率いる反乱軍に無血開城。6月3日には、絢爛豪華な城内で大謁見の式典が開かれ、反乱軍は昼夜問わず宴を開催し、難攻不落の城を手に入れたことに酔いしれました。

城南側から北方向の眺め。城壁が長く伸びる。

しかし、ラクシュミーは、早々に次の戦闘に備え、自身のジャンシー部隊をはじめ兵士を集め、訓練を開始します。グワリオール城も万全ではなく、南側に横たわる小高い丘をイギリス軍が占領すると、丘から眼下に広がるグワリオール城に向けて大砲を放つ可能性があったためです。

ラクシュミーの最後の決戦が始まろうとしていました…。

無念の死

6月17日早朝、ついにラクシュミー率いる反乱軍とイギリス軍が衝突。グワリオール城への進路をめぐって、激しい戦いが繰り広げられます。反乱軍は丘の上から、見下ろす形でイギリス軍に砲弾を浴びせます。

反乱軍を処刑するイギリス軍

しかし、反乱軍の砲火はイギリスの反撃により沈黙してしまい、イギリス第95連隊は反撃に転じます。さらにイギリス軍は反乱軍であろうがなかろうが、16歳以上のインド人を無残にも切り捨てていきます。

ラクシュミー率いる部隊は、第8軽騎兵連隊とクリミア半島から来たばかりのアイルランド騎兵部隊を襲撃。鮮やかに敵陣へ切り込むラクシュミーの手綱さばきは、イギリス軍を震撼させます。軽快に戦場で身を躍らせるラクシュミー。彼女はマラーター騎兵のコスチュームを身に纏い、刀傷を負いながらも、馬から降りて、イギリス軍騎兵隊と刀を交え続けます。

奮戦するラクシュミー像

その時、彼女に銃口が向けられ発砲。ついに、ラクシュミーは銃弾を受け、刀を振るうことができなくなり、味方の手を借りてグワリオール城下にあるプール・バーグに避難します。

ラクシュミーは瀕死の重傷を負っていました。彼女は、亡骸とてイギリス軍に渡すまいと、僧侶に火葬するよう言い残します。こうして、ラクシュミーは「花園(プール・バーグは花園の意)」で息を引き取り、23歳という美しい盛りで人生の幕を閉じたのでした。

さいごに

戦後、ローズ将軍はグワリオール作戦の報告書でラクシュミーを「インドのジャンヌダルク」と称し、讃えています。しかし、振り返ると、ジャンヌダルクとの共通点は「女性でありながら、多くの兵を導き、鼓舞した」ということ以外は、まったく異なることがわかります。

ラクシュミーが愛した地ジャーンスィー

農家で生まれ、文字すら読めなかった少女が、ある日突然、神の啓示を受けて城へ赴き、奇跡を見せつけたジャンヌダルクとは異なり、ラクシュミーは、元々藩王に仕える家柄に生まれ、幼いころから文学や剣術などを学び、一国の王妃として政治も戦略も自ら執り行っています。戦略についても、周囲の地形を熟知しての作戦や援軍を使っての作戦など、非常に論理的に展開していたことがわかります。

また、ラクシュミーはその強さから好戦的な人物だと思われがちですが、実際には平和を好む人物であったと思われます。実際、インド総督府への嘆願書を送り続けたことが、それを表しているのではないでしょうか。

ラクシュミーの像は今もインド各地に

彼女が先手を切って戦闘を展開したのも、時間を与えればイギリス軍が圧倒的優位となるため、反乱軍には一歩先んじた奇襲攻撃でしか勝機がなかったためです。

インド本国でもラクシュミーはしばしば神格化されていますが、決して奇跡を起こしたわけではありません。十分な援助が受けられずとも、弛まぬ鍛錬とジャーンスィーを愛する気持ちで、ただ孤軍奮闘した彼女の強さは、人として素晴らしいと素直に思えます。

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