アイルランドじゃがいも飢饉 ~The Great Famine~

アイルランドじゃがいも飢饉 ~The Great Famine~アイルランド史

ナポレオン戦争終結後、ヨーロッパはウィーン体制の下一応の平和を保っていましたが、19世紀の中頃にヨーロッパ全域においてジャガイモの疫病が発生し、一時ジャガイモはヨーロッパ全土から姿を消してしまいます。これによりジャガイモを主食としていたアイルランドでは大飢饉が発生。100万~150万人近くのアイルランド人が飢えと病により死亡する事態となってしまいます。今回はヨーロッパ最大の飢饉と呼ばれ、世界史に大きな影響を与えたアイルランドの悲劇についてご紹介します。

ヨーロッパ大陸のジャガイモ食について

もともとはジャガイモは南米原産の植物であり、ペルーのインカ帝国において広く栽培され15~16世紀ごろにスペインがヨーロッパに持ち帰ったのが始まりとされています。今でこそヨーロッパ各国で食されるジャガイモですが、本格的にヨーロッパの食卓に並ぶのには時間がかかりました。

インカ帝国時代のジャガイモの耕作

普及に時間がかかった理由としては元々インカ帝国が主に食べていた小粒で甘いジャガイモとは違い、持ち帰ったのが家畜用の甘みが少ない大粒のもので食べることに抵抗感があったことや、当時の聖書による植物の定義である種子から実が出来ることと違い、種芋から増えることが奇妙に見えたこと、さらにジャガイモの芽に含まれる”ソラニン”が有毒と知らずに食したためなどが挙げられます。

フリードリヒ2世

そんな中、18世紀にヨーロッパのジャガイモの普及に取り組んだのがプロイセンのフリードリヒ2世です。フリードリヒ2世は寒冷でやせた土地でも生育するジャガイモに注目し栽培を奨励し、それまで休耕地となっていた土地にジャガイモを栽培するよう命じます。またジャガイモ普及のための指示書を各地に送り、自ら率先して毎日ジャガイモを食べたといいます。これによりプロイセンの食糧事情は改善し、現在のドイツのジャガイモ料理に繋がっていくこととなります。

アントワーヌ・パルマンティエ

また、フランスの農学者であったアントワーヌ・パルマンティエは七年戦争でプロイセンの捕虜になった際に食事として出されたジャガイモを食べたことにより、ジャガイモが祖国フランスの食糧問題を改善することを確信。帰国後すぐさま研究を開始し、国王ルイ16世らの認可を受けジャガイモを普及させます。結果として1785年の不作の年にフランスはジャガイモにより飢饉を回避することに成功しました。

アイルランドとジャガイモの普及事情

イギリス(イングランド)も16世紀後半にジャガイモは伝わりロンドンにて栽培が行われますが、気持ちが悪れたり、エリザベス女王がジャガイモの葉で食中毒になったりしたため、すぐに普及はしませんでした。一方で高緯度に位置し、厳しい農耕事情を抱えるアイルランドではジャガイモの栽培はうってつけでした。

オリバー・クロムウェル

もともと17世紀のアイルランドの主食は麦、燕麦、酪農品でしたが、冬になるとそれらが不足したため、補助食品としてジャガイモを栽培し食していました。さらに1642年イギリスにて清教徒革命(ピューリタン革命)が勃発。主導者のオリバー・クロムウェルは内乱を治めるとカトリック教が多数を占めるアイルランドとスコットランドに侵攻し、両国をイギリスの直接支配下へと置きます。(三王国戦争)

イギリス支配下にて

クロムウェルの侵攻後、カトリックであるアイルランド人が59%を所有していた土地は、プロテスタントが主流となったイギリスに支配されることとなります。そのため、豊かな土地はイギリスに奪われ、アイルランドの所有地は14%まで減少してしまいました。また、クロムウェルによる占領は残忍なものであったため、今でも議論の的となっています。

アイルランドと北海道の比較(※カラパイアより)

もともとアイルランドは北海道よりも少し小さいほどの小さな領土の国です。鉱物資源はほとんど産出されず、工業も北部のベルファストを除いてほぼ発達していなかったため、牧草地や穀物を作付けし、穀倉地としてイギリスに利用されることとなりました。

イギリスにより小作農として雇われたアイルランドの人々は農地の2/3で小麦やライムギを栽培しましたが、それらのほとんどは地主のイギリスに納めねばならなくなります。しかし、残りの1/3の土地で栽培していたジャガイモは地代の対象外の作物であったため、必然的にアイルランド人はジャガイモの栽培に力を入れることとなります。

ジャガイモの栽培を行うアイルランドの人々

その後、アイルランドは何度も飢饉に見舞われますが、ジャガイモにより何とか危機を脱します。ジャガイモの普及により1760年には150万人だったアイルランド人口を1841年には800万人へと増やすことへの一役を買いました。

しかし、このジャガイモ単一依存の食糧体制がアイルランドに悲劇をもたらすこととなってしまいます…。

卵菌の発生と大飢饉

疫病菌の感染経路図(※wikipediaより)

1843年、突如アメリカ大陸東部でジャガイモ疫病菌が発生。病気の菌の胞子は拡散し、葉や茎、その周辺の土壌で発芽。翌年にはアメリカ大陸から出港した船によりヨーロッパに病原菌が運ばれてしまいます。

実際1842年までヨーロッパではこの病気は確認されておらず、原因は肥料として使用していたペルー産のグアノ(蝙蝠などの糞化石)、もしくは移民船の乗客を養うためのジャガイモに寄生していた卵菌が原因という説があります。

疫病菌は一気にヨーロッパで拡大し、1845年の晩夏と初秋にはヨーロッパ中央にまで到達、8月にはベルギー、オランダ、フランスへと伝わりイングランド南部のワイト島にまで広がり始めます。疫病菌がイギリス全土を覆うのに時間はかかりませんでした。

卵菌がジャガイモを枯死させた原因

ここで一旦、病原菌である卵菌についてお話したいと思います。

学名は”Phytophthora(フィトフトラ)”と呼ばれ、語源はギリシャ語のPhyto(植物)とphthora(破壊者)との造語です。様々な植物に感染して疾病を引き起こす植物病原菌であり、現在もアメリカだけで年間数十億ドルの被害があるとされています。

疫病菌に感染したジャガイモ(※wikipediaより)

また、宿主であるジャガイモは通常、無性生殖である種芋で個体を増やします。塊茎の栄養生殖によって増殖するジャガイモは、当時収穫の多い品種に偏って栽培が行われており、連作されるために土壌も疲弊し、ジャガイモ自体の栄養価も低くなっていました。

ジャガイモの原産地であるアンデス地方のようにいくつもの品種を混ぜて栽培することがなかったため、遺伝的多様性がないため病原菌への耐性のある品種がなく、菌の感染が爆発的に広がってしまったのです。

1845年アイルランド大飢饉

対岸の火事と楽観視していたイギリス本国を疫病菌は覆いつくし、一気にアイルランドまで押し寄せます。1845年9月。卵菌によりアイルランドの農作物は1/2~1/3が損失。11月にはアイルランド全土からジャガイモの生産量は、1/3が破壊されたとの被害届が出されます。

貧困者収容施設に押し寄せるアイルランドの人々

翌年には農作物の3/4が失われ、その年の12月には100万人の公務員が解雇。また、飢餓による死亡者が出始め、病気が蔓延するようになり始めます。1847年には作付用の種芋まで失われてしまい、栽培してもほとんどが発芽しなかったため飢饉は続きました。この年はブラック47(Black'47)と呼ばれるほど酷いものであり、翌1848年も生産性は通常の3分の2しかない有様でした。

飢饉に対してのイギリスの対応

1801年アイルランドはイギリスによって併合され、”グレートブリテンおよびアイルランド連合王国”の一部となっていました。しかし、イギリス本国はアイルランドのこの危機にそれほど熱心に取り組むことはしませんでした。

まず、イギリスでは1815年に”穀物法”が制定されており、イギリス国内の穀物価格の高値維持を目的とし、地主貴族層の利益を保護していたのですが、穀物の国内価格が1クォーター80シリング(約4ポンド)に達するまで外国産小麦の輸入を禁止するというものだったため、貧窮していたアイルランド国民は高額の小麦を買うことができませんでした。

反穀物法派の集会の様子

1846年にはロバート=ピール首相が穀物法を廃止するも事態を打開することは出来ず、後任のジョン・ラッセルも対応は不十分なものでした。また、飢饉の犠牲者に対する援助を担当していたチャールズ・トレベリアン卿に至っては、イギリスのプロテスタントと異なるカトリック教徒のアイルランド人に対し、「神の裁きがアイルランド人に教訓を与えるためにこの災難を送った」と信じ、援助を制限する有様でした。

その他にも、アイルランドで収穫された穀物はイギリス本国に大量に輸出されており、イギリスも輸出禁止の措置を取らなかったため飢饉は拡大する一方だったのです。

オスマン帝国の寄付

アブデュルメジト1世

イギリスのヴィクトリア女王は個人資産から2000ポンドをアイルランドに寄付しましたが、実はオスマン帝国のスルタン、アブデュルメジト1世はこの飢饉を聞き、1万ポンドの寄付をイギリス政府に申し出ていました。

しかし、イギリス政府はヴィクトリア女王の寄付額を大きく上回るのはやめて欲しいと伝えたため、アブデュルメジト1世は1000ポンドの寄付と穀物を満載した3隻の貨物船を密かにアイルランドへ派遣し、アイルランド東部のドロヘダで積み荷を降ろしました。

飢饉の影響と人口減少

飢饉のただ中にいる母親と2人の子供

1840年代に始まったジャガイモ飢饉によって1850年代半ばに終息するまでに多くの命が失われました。この飢饉によってアイルランドの人口は著しく減少することとなります。

1841年に約817万人いた人口は、1851年には、655万人に減少。飢饉により人口の20~25%の150万人が餓死や病死で減少、10~20%の約100万人が海外へ移住したためです。餓死の他に、栄養失調に伴った赤痢、チフス、コレラなどが原因で病死も多数ありました。また、結婚や出産の減少でアイルランド島民の総人口は最盛期の半分へと減少しました。

島外移住

移民として旅立つ者を見送る家族たち

この飢饉でアイルランドの地を去る者は後を絶ちませんでした。この飢饉以前から新天地を目指してアイルランドからの旅立つものはいたのですが、飢饉時には1年間で最大25万人もの移民が発生しており、このジャガイモ飢饉が如何に凄惨なものかが分かります。

移民者の主な行き先はイギリス本土、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどです。しかし、劣悪な船の環境で亡くなる者も多く、子どもは到着前に大部分が亡くなったとされています。

また、アメリカに渡ったアイルランド人はカトリック教徒であるということから、求人に制限を受けるなどの偏見に満ちた差別を受けたため、移住後も困難は続いたとされてます。その後も、移民は続き、アメリカだけでも700万人のアイルランド人が移住したとされています。

現在、アメリカ合衆国にはアイルランドから移住したアイルランド系の人々は約4,000万人。カナダやオーストラリアを含む国外に居住するアイルランド系の人口は約7,000万人が棲んでおり、アメリアではアイルランド移民は大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力を持っています。

ジャガイモ飢饉終焉後のアイルランドの独立と現在

ダブリン市内の飢饉追悼像

1851年に一応はこの飢饉は収まりますが、アイルランドの人口は減少の影響は大きく、現在も過去最大人口の800万を上回っていません。(※1911年の国税調査によるアイルランド島の人口は約440万人。1800年と2000年と同レベル。最大人口時の約半分)また、生き残ったアイルランド人たちもその後の政策や生活上の便宜から英語を話すようになり、アイルランド語話者の比率が回復不可能なほど激減し、英語の優位が確立する結果となります。

アイルランドが自由国として国家を宣言するのが1924年。イギリスから完全独立して主権国家となるのは1949年です。ここからアイルランドは貧しい国ではなく、豊かな国へと成長していきます。

1997年にはトニー・ブレア首相がアイルランドの追悼集会で1万5千人の前で意義率政府の責任を認めて、初めての謝罪の手紙を読み上げました。また、アメリカに渡った移民の子孫には、大成した人も多く、ジョン・F・ケネディ、ロナルド・レーガン、ビル・クリントン、バラク・オバマといった4人の大統領がいることは広く知れ渡っています。

1849年に建てられたメイヨー県のある大飢饉の犠牲者のための慰霊碑

他にも自動車王のヘンリー・フォード、メロン財閥のトーマス・メロン、メリル・リンチの創業者のチャールズ・メリルとエドマンド・リンチ、銅山王のマーカス・デイリーなどアメリカで成功したアイルランド系の人として有名です。

また、アイルランドはジャガイモ飢饉の被害の体験を踏まえて、アフリカの飢饉への援助を行っています。

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