ジュゼッペ・ガリバルディ ~イタリアを統一に導いた英雄~

ジュゼッペ・ガリバルディ ~イタリアを統一に導いた英雄~イタリア史

ジュゼッペ・ガリバルディ(イタリア語: Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 – 1882年6月2日)は、イタリア統一運動を推進し、イタリア王国成立に貢献した軍事家。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人とされている。

19世紀の半ば、日本では徳川幕府が弱体化し列強からは開国せよと圧力をかけられ、国内の到幕勢力もじわじわと力を増していた頃、ヨーロッパ諸国も実は揺れていました。フランス革命、それに続くナポレオン戦争で各国が動揺したあとに、なんとかウィーン会議で元に戻せたかと思いきや、共和主義思想の浸透を止めることはできていなかったのです。特に小国分立で国力が衰える一方であったイタリアでは統一国家の樹立を図ろうとする運動が起こります。それを阻止したいベネチア、ミラノ、フィレンツェ、ナポリなどの諸侯や教皇庁はオーストリアなどの有力な近隣諸国を後ろ楯に対抗します。そこに現れたのが天才軍略家ジュゼッペ・ガリバルディでした。イエス・キリストにも似た容貌の彼は多くの民衆の支持を得、幾多の戦いに勝利しイタリア統一に多大な貢献を成し遂げたのです。さっそく彼の運命とイタリア統一の動きを追ってみましょう。

イタリアの歴史

かつて栄華を誇ったローマ帝国

かつてローマ人は、皇帝ジュリアス・シーザーやオクタビアヌスにより強大なローマ帝国を造り上げ、数百年にわたりヨーロッパ全土を支配しましたが、5世紀末には衰退してしまいます。その後、現在のイタリアに匹敵するアルプス以南からイタリア半島の先、そしてサルジニア、シチリアその他の島々は19世紀まで小国に分裂した状態でした。それぞれがフランスやオーストリアなどの影響下にあったのです。19世紀初頭、ヨーロッパ制圧を目指すフランス皇帝ナポレオンはイタリアをも蹂躙しますが、このときにナポレオン法典やフランスの行政さらに税制システムのイタリアへの導入を図りました。

ヨーロッパ各国に影響を与えたナポレオン法典

これが後のイタリア統一そして共和制樹立の機運となっていったのです。ナポレオンはロシアに敗れたあと1814年に失脚し、オーストリア宰相メッテルニヒに主宰されたウィーン会議でヨーロッパ諸国はほぼフランス革命前の状態に戻り、その後およそ30年は平和を維持したのですが、ナポレオンによってヨーロッパ全土にもたらされた改革の動きはその間地下深くで蠢いていたのでした。

ジュゼッペ・ガリバルディとは

マッツィーニが組織した”青年イタリア”

1807年、現在はフランス領ですが当時はサルジニア王国の前身であるサヴォイア公国領でもあったニースに、かのジュゼッペ・ガリバルディは生まれました。1833年、船員として黒海北部のロシア領タガンログを訪れたとき、政治亡命中のイタリア統一を目指す結社「青年イタリア」のメンバーと出会い大きな影響を受けました。さらにイタリアに戻り、ジェノバにおいて「青年イタリア」のリーダー、共和主義者のジュゼッペ・マッツィーニと出会い武装蜂起を企てたのでした。

ジュゼッペ・マッツィーニ

しかしこのときはうまくいきませんでした。マッツィーニはジュネーブに逃れ、ガリバルディはフランスから北アフリカを経てさらに1842年南米へと逃亡します。南米ではブラジルやウルグアイで義勇兵となり、戦術や用兵、ゲリラ戦法などを学んだのでした。

1848革命

”ミラノの五日間”と呼ばれる反乱が勃発

「諸国民の春」と呼ばれる1848年、ヨーロッパ中で革命が起きた年です。フランス、オーストリア、ドイツその他デンマーク、スイス、ポーランド、ルクセンブルグなどで市民が蜂起し軍隊と衝突を繰り返したのです。その最初の革命がその年の1月12日にシチリアのパレルモで発生しました。かつて1812年、ナポレオン時代にナポリの宮廷はパレルモに避難したのですが、シチリア貴族たちはイギリス流の議員内閣制を規定する憲法を国王フェルディナンドに認めさせました。

フランスでは”2月革命”が勃発する

その憲法を復活させるための反乱が起きたのです。国王はオーストリアからの援軍を待ちましたが、それが叶わず、1848年2月10日にその憲法を復活させました。それがサルジニア王国、さらには教皇庁にも及んで、次々と同様の憲法が成立したのです。いずれも上院は勅任議員、下院選挙権も相当な財産資格を要求されるなど十分に民主的なものとは言えませんが、大きな飛躍でした。その勢いの中、帰国を果たしたマッツィーニは1849年、ローマ共和国を樹立します。ジュゼッペ・ガリバルディも帰国しローマ防衛軍を組織します。

ナポレオン三世

しかしフランス皇帝ナポレオン三世は伯父ナポレオン皇帝同様にフランス軍を投入し圧倒的な火力でイタリアの防衛軍を駆逐しました。ナポレオン三世は教皇をローマに戻し、自国のカトリック派を懐柔したかったのです。ガリバルディの軍はフランス、スペイン、オーストリア、ナポリの軍勢に追われ、敗走を続けベネチアで壊滅しました。

イタリア統一

赤シャツ隊を率いてシチリアを陥落させた

1860年、シチリアでは両シチリア国王の圧政に対する反乱の機運が再び高まっていました。
両シチリアとはシチリアとナポリの両国を統治しているブルボン家の国王の王国という意味です。帰国していたガリバルディは後のイタリア首相となる共和主義者のクリスピの要請を受け、赤シャツ隊を率いてシチリア島に上陸、パレルモを制圧し、さらにメッシーナ海峡からナポリに進軍します。

エマヌエーレ2世を迎えるガリバルディ

ナポリ軍との戦いの最中、生まれ故郷のサルジニア王国軍と合同し、ナポリ軍を打ち破ると、サルジニアのエマヌエーレ2世を統一イタリアの国王として奉じ、ここにイタリア統一が一旦はほぼ成し遂げられたのでした。しかしヴェネチアとローマは未だ未回収であり、これに不服であったガリバルディとエマヌエーレ2世は今後の方針を巡り不和となってしまいます。その後、独自に義勇兵を募ってローマ進軍を開始したガリバルディでしたが反対派の政府軍と軍事衝突を起こしてしまい負傷。政府の汽船で連行されたガリバルディは”名誉ある囚人”として収監されますが、彼を擁護する民衆の声は強く結局釈放されてカプレーラ島にて養生生活を送ります。

アメリカ大統領に?

元北軍将軍・ユリシーズ・グラント大統領

1861年、アメリカでは内戦が勃発しました。南北戦争です。ときのアメリカ合衆国大統領で北軍を率いていたリンカーンはジュゼッペ・ガリバルディに司令官として北軍に加わるように要請しました。ガリバルディの優れた軍略、カリスマ性そして自由を尊重する姿勢に共鳴していたのです。
結果的にはそれは叶わずに終わってしまったのですが、もしもこのときガリバルディが北軍司令官となっていたらどうなっていたでしょうか。その後に大統領に就任する北軍のグラント将軍のように輝くべき戦果をあげてアメリカ国民を熱狂させたに違いありません。

ガリバルディは北軍に奴隷解放を求めていた

そうすればグラント将軍のようにアメリカ大統領になっていたかもしれませんね。実際はアメリカ憲法の規定によりそれは難しいことなのですが。グラント将軍はその後2期8年に渡り大統領職を全うした後で1879年に日本を訪れ、明治天皇と対面し、また増上寺に松の木を植樹しています。ガリバルディにもそんなチャンスがあったかもしれません。

普仏戦争とその後

ボローニャ市内にあるガリバルディ騎馬像

ガリバルディは、1870年の普仏戦争ではそのときの共和政フランス軍を支援するため義勇兵を率いてプロシア軍と戦いました。あの憎きナポレオン、かつてイタリアを蹂躙した男がいたフランスを支援したのです。それはフランスに訪れた自由を守るために戦うということなのでした。結果的にフランスはプロシアに敗れるのですが、ガリバルディの部隊はプロシア軍相手に一歩も退かずに戦い抜き、最終的にヴェネチアとローマの回収に成功しイタリアは遂に統一されます。そして1882年、ガリバルディはサルジニアのカプレーラ島の別荘で72歳の生涯を終えました。ガリバルディは死の直前まで病に苦しみながらもカラブリアやシチリア島を旅行するほど精力的だったと言います。また、葬儀は彼の遺言に従って質素なものとしようとしましたが、イタリア政府は盛大な国葬で彼を送ったそうです。

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