荒尾精 日中連携によるアジアの保全を志した男

荒尾精 日中連携によるアジアの保全を志した男日本史

荒尾 精(あらお せい、1859年 – 1896年)は、日本の陸軍軍人、日清貿易研究所の設立者。日清戦争の最中、「対清意見」「対清弁妄」を著し、清国に対する領土割譲要求に反対した。日中提携によるアジア保全を唱えた明治の先覚者である。

19世紀、ヨーロッパ列強による植民地獲得戦争はアジアにまで飛び火し「眠れる獅子」と噂されていた清帝国が日本との「日清戦争」に敗北すると西欧列強はここぞとばかりに中国大陸の獲得に乗り出します。また日本も例外ではなくこの戦いでの勝利により多額の賠償金と遼東半島の一部を清より要求し弱小国から大国への足掛かりとします。しかし、そんな日本の要求に「待った」を掛けたのが今回紹介する荒尾精です。荒尾はこの要求は日中両国に将来大きな禍根を残すことを危惧し、明治政府及び一般大衆に向けて「対清意見」という本を刊行し、世間に警告を発します。当時、荒尾はアジアが一丸となって協力し合わなければならないという思想を持っており、そのためには日中の提携が不可欠であると考えていたからです。今回はそんなアジアの平和のために一命を投げ打った稀代の傑物・荒尾精に迫りたいと思います。

生い立ち

若き日の荒尾精

尾張藩士・荒尾義済の長男として尾張国琵琶島に生まれます。明治元年(1868年)に一家は東京に移住し商売を始めるも事業は失敗、金銭的に困窮した荒尾家はやむなく長男である荒尾精を元薩摩藩士である菅井誠美の下に預けます。荒尾精は菅井の下で書生となり日夜勉強に励み、次第にアジアの動向に関心を持つようになっていきます。その後、18歳になった荒尾は軍人となることを志し陸軍教導団に入学し、大坂鎮台赴任を経て陸軍士官学校に入学します。
なお、士官学校の訓練は厳しいものであり、行軍演習の際は気力を養うため各自自分の背嚢(はいのう)に鉛玉を入れて行軍するというものがありましたが、荒尾精は倒れそうな友人の背嚢や銃剣を代わりに持って助けてあげていたという話があります。人格に優れていた荒尾の下にはおのずと多くの友人が集まり荒尾は友人たちと共に「靖献派」というグループを立ち上げ研鑽に励みます。

中華の地へ

岸田吟香

1882年(明治15年)12月に士官学校を卒業後は陸軍歩兵少尉となり歩兵第13連隊付に所属します。この時、軍を辞めて中国大陸へ渡ろうと計画しますが、師である菅井誠美に説得され思い留まります。また当時は欧米事情に精通することが出世への近道でしたが、荒尾は西洋にも出世にも興味がなく、ひたすら中国大陸の研究と中国語の勉強に励んだと言います。1885年(明治18年)陸軍参謀本部支那部に転任した荒尾は大陸研究に没頭、そして翌年の1886年(明治19年)陸軍参謀本部の命を受けて情報収集のために念願の大陸渡航を命じられます。

荒尾精(写真中央)と仲間たち

その年の春、上海に上陸した荒尾は実業家である岸田吟香に謁見すると協力を求めます。当時、岸田も日中間の将来を憂いており、荒尾の説得を受けて協力を決意します。その後、岸田は経営していた楽善堂という薬局の支店を漢口に開くと、荒尾精や他の活動家たちの本拠地としてこの店を提供します。荒尾はこの店を拠点として中国各地に軍事探偵を派遣し情報の収集に努めます。
そして、大陸に赴任してから3年後の1889年(明治22年)、漢口楽善堂の活動を終え、一時帰国。荒尾が派遣した探偵たちが命がけで集めた情報を元に2万6千余字からなる「復命書(報告書)」を参謀本部に提出しました。

日清貿易研究所

大陸にて清帝国の実情を視察した荒尾は清朝の内部は腐敗が進み、とても西欧に対抗できる力がないことを痛感します。荒尾は早急に日本が清を西欧に対抗できる国に改造しなければならないと考え、優秀な人材を育成するために上海に「日清貿易研究所」という日中両国による教育機関の設立を構想します。

研究所の「カタログ」であった清国通商総覧

荒尾は明治政府に施設設立のため資金調達を働きかけ、自身も各地を遊説し優秀な人材の確保に乗り出します。その後、約300名近い生徒の応募者を獲得しますが、肝心の資金が思うように集まらないため、その責任を取り荒尾は一時自決しようとするほど悩みますが、最終的に内閣機密費から4万円(現在の価格で約4億円)が支給され無事資金難を解決します。

荒尾精と共に研究所を運営した「盟友」根津一

そして明治23年(1890年)、荒尾所長を筆頭とする約200人の研究所職員が日本を出航し、無事に上海に上陸します。しかし、その後も研究所は資金難という問題に直面し、荒尾は資金調達に奔走することとなります。また、慣れない異国の地での疫病や人間関係の不和などに苦心しますが、次第に経営は軌道に乗り、優秀な人材の育成に成功します。

日清開戦と対清意見

日清戦争風刺画

明治26年(1893年)、日本と清との朝鮮半島を巡る争いは激しさを増し、開戦は時間の問題となっていました。その余波を受け日清貿易研究所は閉鎖となってしまいます。所長の職を失った荒尾は予備役となり、止む無く京都の山中にて隠棲生活を余儀なくされ日清両国の戦いを見守るしかありませんでした。そして翌年の明治27年(1894年)7月、日清戦争が勃発、戦いは近代化を果たした日本が勝利し、大国清が「張子の虎」であると分かると政府、大衆共に勝利に舞い上がり、世論は賠償を取れるだけ絞り取れという意見が日本中を占めます。この時の様子を時の外務大臣・陸奥宗光は自らの外交録である『蹇々録』(けんけんろく)にて「とにかく進軍せよ。という声以外は誰の耳にも入らず」と記しています。しかし、そんな中で荒尾精はただ一人異論を唱えます。

日本が獲得した土地※(遼東は後返還)

荒尾は過大な賠償と領土の割譲要求は将来大きな禍根となると主張し、明治政府だけでなく国民を説得するため「対清意見」という本を出版し、日中の連携がアジアの安定に繋がることを力説します。この「対清意見」は多くの反響を呼ぶに至りますが、その多くは荒尾を批判するものであり、悲しいことにかつての仲間たちからも荒尾を批判する者が現れる有様でした。猛バッシングを受ける荒尾でしたが、彼は諦めずに新たに「対清弁妄」という本を出版します。しかし、世間はもはや荒尾の意見など聞く耳を持っていませんでした。

無念の死

下関条約

日清戦争後、日本は清との講和条約・下関条約を締結し3億円余りの賠償金と台湾、そして遼東半島(後に三国干渉により返還)を獲得します。戦争に勝った側が、賠償金と領土の割譲を要求するのは西欧列強の外交のやり方と同じであり、清にとって日本は西欧と同じ敵であると捉えるのは無理からぬものでした。政府のやり方に失望を覚えた荒尾はその後、三度目の大陸上陸に臨み、なんとか日中両国の架け橋と慣れぬものかと視察を再開し、明治29年(1896年)9月には日本統治下となった台湾へと渡り、日本と台湾両者の友好と人材育成を目指す「紳商協会」という大陸での「日清貿易研究所」にあたる機関の設立を企画します。

「死の病」と称されたペスト菌

その年の10月に台北で結成式を挙げた荒尾はそのまま台南に行き、さらに南へと活動を進める予定でしたが、この時の荒尾の体は病魔に蝕まれていました。精神的疲弊と無理な活動が祟り、荒尾は現地にて高熱に苦しみます。この時、現地ではマラリアが流行っていたため当初はマラリアによるものと思われていましたが、荒尾の病はマラリアではなく当時「死の病」と称されていた「ペスト」(黒死病)だったのです。荒尾が入院した時にはもう手遅れであり、入院してわずか4日後の明治29年10月30日。荒尾は志半ばにして38歳の生涯を終えます。荒尾は死のその時まで東洋の将来を案じていたと言います。

五百年に一度の逸材

「アジアの巨人」頭山満

玄洋社の総帥であり、戦前日本において絶大な影響力を持った人物として知られる・頭山満は生前荒尾精を高く評価しており、荒尾こそ天下が五百年に一度現世に下す偉人であると評しており、

もし荒尾が五十歳前後まで存命していたならば、無論内閣を組織していたであろう。しかもその内閣たるや、歴代の内閣中最も強固にして最も融和せる内閣であったであろうと確信する

とまで絶賛しています。

荒尾精の石碑

残念なことに荒尾が抱いた理想は実現には至らず、清が滅亡した後も中国大陸は混沌の一途を辿ります。また日本も荒尾の警告とは真逆の大陸進出を推し進める形となり、結果として日中の戦いは泥沼と化して行き、最悪の事態へと進むこととなっていきます。果たして、荒尾精が目指していた日中提携によるアジアの平和が成ったとしていたら、今もなお問題冷めやらぬ日中関係はどういったものになっていたのでしょうか?

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