中村天風 【あの大活躍メジャーリーガーも学んだ稀代の伝道師】

中村天風 【あの大活躍メジャーリーガーも学んだ稀代の伝道師】日本史

中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 – 1968年12月1日)は、日本の実業家、思想家、ヨガ行者、自己啓発講演家。玄洋社社員、大日本帝国陸軍諜報員。「天風会」を創始し心身統一法を広めた。玄洋社の社員として軍事探偵と活躍し、戦後、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。天風に影響を受けた著名人として「松下幸之助」「東郷平八郎」などがおり、近年ではメジャーリーガーの「大谷翔平」などがいる。

1919年(大正8年)に創立された財団「天風会」は、中村天風が「命の力」を発揮するために考案した「心身統一法」の普及と啓蒙活動を行っています。これは何を目指すものかといいますと、幸せで充実した毎日を過ごし、「成功と繁栄」、「健康と長寿」、「心の平安と安心」という3つの幸せをつかみとろうということなのです。心身統一法は、心と体の両面の多岐にわたる方法からなっており、普段の生活を送りながら、積極的な心をつくり、健康な身体をつくっていくことができるようになるものと言われています。この心身統一法を考案した、財団の名前にもなっている中村天風、本名中村三郎、1876年(明治9年)に生まれ、1968年(昭和43年)に92歳で亡くなったその人の波乱の人生をご紹介しましょう。

生い立ち

現在の福岡県立修猷館高校 ※wikipediaより

天風は1876年(明治9年)、東京府豊島郡王子村(現在の東京都北区王子)に、大蔵省紙幣寮抄紙局長であった中村祐興(すけおき)の三男として生まれました。本名は三郎。また、父である祐興は旧柳川藩士(筑後国、現在の福岡県柳川市周辺)で明治維新後、大蔵省に出仕し局長となっていました。当時、紙幣用紙の工場が王子にあったためその工場長も兼務していたことから王子に居住していました。。神田生まれのちゃきちゃきの江戸っ子でした。その後、天風は学齢となりますと福岡市の親戚に預けられ、長じて福岡県立修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)に入学しました。英語専修学校として1885年(明治18年)に設立された学校であり、授業はほぼ英語で行われていましたが、天風は幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習っていたため問題はありませんでした。修猷館では成績も優秀、また柔道部員としても秀でた活躍を見せていたのですが、ここでトラブルが起こります。

喧嘩というより抗争..。

熊本の済々黌(現在の熊本県立済々黌高等学校)との両校柔道部が練習試合を行った際、結果は修猷館の勝利となりましたが、おさまらなかった済々黌の生徒は修猷館の生徒を闇討ちします。怒った修猷館は反撃を試みましたが、このときのどさくさで天風は刃物を使用してきた相手を乱闘の時に刺し返してしまい、その相手が死亡してしまったのです。その後、正当防衛が認められて罪となることはありませんでしたが、天風は修猷館を退学となってしまいました。

玄洋社の豹

”東洋の巨人”と呼ばれた頭山満

捨てる神あれば拾う神あり。1892年(明治25年)、まだ16歳だった天風は玄洋社の頭山満に預けられます。玄洋社とは明治維新後に、旧福岡藩士が中心となって結成された政治結社です。玄洋社は欧米列強に日本が、さらにはアジア諸国が一体となって対抗していくにはどうすればいいのかということを模索していました。また時の薩長藩閥政府に対して早期の議会設立を要求するなど在野の有力な政治団体だったのです。その玄洋社で天風は頭山満の指導を受けます。玄洋社に来た当初の天風はその気性の荒さから「玄洋社の豹」と称されるほどで、さすがの頭山も手を焼くほどでしたが、天風の非凡な才能を頭山は見抜いていました。そんなある日、帝国陸軍中佐河野金吉が玄洋社を訪れます。

軍事探偵は死亡率が極めて高い職種であった

陸軍諜報員であった河野中佐は清との開戦を前にして遼東半島でスパイ活動を行なうに際し、秘密裏に助手を使いたいとしていたのです。その助手の条件は身体健全、武道熟達そして命知らずということでした。このとき頭山は何の迷いもなく天風を差し出しました。こうして軍事探偵となった天風は河野中佐の厳しい指導を受けながら諜報員としての技術を磨いていきました。実際に遼東半島へと赴くと、天風は錦州城や九連城において地形や軍勢の様子をなんども見に行き、目に焼き付けて正確な報告を行ったため、日清戦争においてこの情報が大いに役立ったとされています。そしてそのおよそ10年後、陸軍は再び天風をスパイとして大陸に送り込みました。対日露戦争への準備としてでした。1902年(明治35年)のことです。

日露戦争にてコサック兵との戦闘

このときは単なる探索のみならず、敵陣へ侵入したり武器を手にしての戦闘があったりとまさに命がけの作戦行動となりました。1904年の時に敵のコサック兵に捕まりあわや処刑されるという危機に瀕したこともありましたが、仲間の援護でなんとか切り抜けたということもあったようです。日露戦争後の1906年(明治39年)、無事に任務を遂行した天風は正式な陸軍省雇員として朝鮮総督府通訳官となりましたが、なんと不幸にも病に冒されてしまいます。結核でした。それも奔馬性肺結核という急速に進展し命の危険が伴うものだったのです。

救いを求めて世界へ

北里柴三郎

結核に苦しむ天風は著名な細菌学者・北里柴三郎の治療などを受けたものの症状はあまり改善されませんでした。3年間の療養を経て1909年(明治42年)に天風はアメリカへと向かいます。療養中に読んだアメリカのニューソート(New thought 新思考)関連の著作に触発され、病で弱った精神と肉体の再生を求めこの考え方を深く学んでみようと考えたのです。ニューソートとは19世紀にアメリカで始まったキリスト教の一派といえるものです。

オリソン・マーデン

いわゆるプロテスタントがアメリカの政治経済をリードしていたのですがそれは現世利益すなわち経済的繁栄を強く志向するものであり、もっと人間の根幹に関わること、生命と宇宙、病とは何か、喜び、成長、幸福さらにヨガの実践といったことを考えていくべきであるとするものでした。アメリカでは『如何にして希望を達し得るか』の著作者オリソン・マーデンとの面会を願いそれは果たされたのですが、思っていたような明快な解答は得られませんでした。さらにヨーロッパに渡りイギリス、フランス、ドイツにて著名な哲学者などと対面しますが求めるものを得られません。

修行イメージ図

しかし最後に渡ったエジプトのアレキサンドリアでインド人のカリアッパ師(カルマパ・カキャブ・ドルジェ)との出会いが運命を変えてくれたのです。師はチベット仏教のカルマ・カギュ派の第15世教主でした。天風は師の弟子となり、1913年(大正2年)まで2年半にわたってヒマラヤの高地において修業を続けます。この修行により結核は完治し、ここで悟ったことが後の天風の活動の助けとなったのです。

天風会設立へ

天風と頭山満

天風は帰国後は玄洋社の仕事に加えて銀行経営なども行っていたのですが、1919年(大正8年)6月に「統一哲医学会」を創設し、チベットで師より学んだことをもとに心身統一法の普及活動を始めました。最初は規模も小さく上野公園の精養軒前に立っての辻説法からでした。そのときに天風が立ったとされる石台はまだ上野公園内に残っているそうです。また、天風が悟りにいたり、その教えを拡げたいことを頭山満に相談すると「世の中なにが驚いたことがあったって、お前が素養の先生になることくらいのことはない」と大笑いしながら勧めたと言います。その後、天風の教えは次第に評判となっていき、その評判を聞きつけた錦鶏間祗候(※きんていのましこう 天皇の諮問に奉答する勅任官)となっていた向井巌と出会い日本工業倶楽部で講演するよう要請されたのです。

修行に励む天風 ※矢口壹琅のONE LOVEより

政財界の名士が集まるそこでの講演は大きな反響を呼び、当時の首相であった原敬の支援も得られるようになりました。拠点も芝公園内に本部を設置しさらに豊橋、浜松、京城、大阪、京都、名古屋、神戸、小樽と支部組織も充実していきました。この天風の教えはいったいどういうものなのでしょうか。それは、人間の心と身体の相関関係を科学的に考察し、人間に本来備わっている「命の力」を充実させ、心と身体の真の健康を確立しようというものです。それを成し遂げるためのものが心身統一法であり、これは人生の事あるときにおよんでの創造的変化対応力を養い、心身共に幸せで積極的な生き方を目指すものです。その教えを伝える天風の言葉のいくつかです。

「人間はこの世の中で最も優れた創造物だ」

「誰しもが幸福を手に入れるのに必要な力を持っている」

「あなたの持っているすごい力の出し方を学んでみよう」

「心身統一法で如何なる苦難や苦境をも乗り越えることができる強い心と身体をつくろう」

晩年の天風 ※天風会より

このような活動を続けて、1940年(昭和15年)には統一哲医学会を天風会と改称、さらにこの会は1962年(昭和37年)に公益法人許可を受け、さらに2011年(平成23年)からは公益財団法人となっています。会の繁栄を自ら支え続けた天風は1968年(昭和43年)12月に92歳で亡くなり、その年の4月に竣工した天風会館に隣接する護国寺に手厚く葬られたのでした。

おわりに

現在の天風会本部ビル

中村天風が創始した「天風会」は本部を護国寺の近くの東京都文京区大塚に置き、天風の「心身統一法」などを学ぶ講習会・セミナー、身体運動を伴った呼吸法・体操法・坐禅法を学ぶ行修会などを現在も開催しています。心身統一法を学んだ著名人は数多くおり、原敬をはじめとして日露戦争の英雄である東郷平八郎元帥、横綱双葉山、実業界では松下幸之助、また近年ではテニスプレーヤーの松岡修造、さらには現在大活躍のMLBエンジェルスの大谷翔平選手などとなっています。天風の教えに興味を抱かれた方は一度、天風の著書に触れてみるのも良いかもしれませんね。

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