金玉均 【朝鮮近代化を目指した開化派のリーダー】

金玉均 【朝鮮近代化を目指した開化派のリーダー】朝鮮半島史

長きに渡る封建国家の影響力のために、近代化が遅れてしまった朝鮮半島。このままでは朝鮮が西欧列強の支配下に置かれるという危機を感じた開化派の人々は新政権を立ち上げ、朝鮮を近代国家とすべく奮闘します。今回紹介する金玉均も、この開化派のうちの1人です。近代化を目指した金玉均の壮絶な生涯を見ていきましょう。

貴族両班として

1851年、金玉均(きんぎょくきん)は朝鮮の高級官僚である両班(ヤンパン)の家系にて誕生。1872年には金玉均自身も科挙文科に首席で合格し、官僚としての道を歩みます。しかし、当時の李氏朝鮮王朝の政治は大いに乱れていました。

金玉均

当時の朝鮮国王は高宗でしたが彼に実権はなく、その父である大院君と高宗の妻である閔妃(びんひ)が権力を握っており、二人の権力闘争は激化するばかり。さらに背後には大国であるロシアと清国の影響もあり、予断ができない状況となっていたのです。

福沢諭吉らとの出会い

朝鮮の現状を憂いた金玉均は明治維新を成し遂げた日本に関心を寄せるようになります。1882年(明治15年)には高宗の命を受けて日本に留学。この時に、金玉均は多くの日本の志士たちと交遊します。

福沢諭吉

特に金玉均の現状を理解したのは福沢諭吉でした。朝鮮の今の現状を他人事ではないと考えた福沢は金玉均を支援することを決断。福沢は財政界の大物である渋沢栄一や政治家の後藤象二郎を金玉均に紹介し、朝鮮近代化を約束します。

壬午事変

一方、朝鮮本国では高宗の妃である閔妃が権力を握っており、1876年(明治9年)に締結した日朝修好条規により日本から軍事顧問を招き、軍制改革に着手していました。

高宗の妃である閔妃

新設された軍隊は優遇されたのですが、元来の旧軍はなんら優遇もされず、逆に差別的な待遇を受けたため一部の旧軍が反乱を起こします。反乱は次第に激化し、これを好機と見た舅の大院君は政権奪取のため反乱を煽動。1882年(明治15年)壬午事変(壬午軍乱)と呼ばれる事件が勃発します。

襲撃される日本公使館

反乱軍は閔妃政権の官僚たちを襲撃すると、その勢いのまま日本公使館を襲撃。多数の死傷者を出します。その後、一時的に反乱軍が王宮を占拠しますが、脱出していた閔妃が清国に救援を依頼するよう高宗に密書を送ったため、閔妃の言いなりの高宗は清国に援軍を依頼してしまいます。

これを内政干渉のチャンスと見た清は大軍を派遣し、反乱軍を鎮圧。大院君を清国内へと拉致し、閔妃が再び朝鮮王朝を取り仕切りますが、清の従属化を進めてしまう結果となります。

明治政府と金玉均

壬午事変で死傷者を出したことに対して、日本の世論は朝鮮政府に厳しく責任を追及せよと怒りの声を上げます。これを受けて両国の間で済物浦条約(さいもっぽじょうやく)が締結され、修信使朴泳孝(ぼくえいこう)らと共に金玉均は日本に再び訪れます。

金玉均の盟友であった朴泳孝

金玉均は福沢諭吉を介して、外務卿の井上馨と会談し、朝鮮の近代化と独立を力説します。これを受けて井上も金銭面で金玉均に協力をしますが、大国である清の影響を考えると表立った支援が出来ないというのが明治政府の実情でした。

甲申事変

その後も金玉均は日本を訪れて明治政府に支援を呼びかけますが、上手くいきませんでした。また、清国から派遣されたドイツ人のメレンドルフが朝鮮政府の外交顧問となっていたため、朝鮮政府はますます清国寄りの体制を強めていきます。

外交顧問官メレンドルフ

1884年5月、朝鮮に帰国した金玉均は、この状況を打開すべくクーデターを計画します。そして翌月に清とフランスの間でベトナムの領有を巡り清仏戦争が勃発すると、これを好機と見た金玉均ら開化派は行動を開始します。

この金玉均らの動きを見て、井上馨は朝鮮弁理公使の竹添進一郎に開化派に協力するように命じます。しかし、動員できる兵力といえば日本公使館の警備隊150名ほどであり、戦力としてはあまりにも心細いものでした。

竹添進一郎

クーデター決行は1884年(明治17年)12月4日の「郵征局」開庁の宴会に乗じて行われることに決定。そして、金玉均らは計画通り、その日の夜に別宮に火を放ち王宮を襲撃、これを占拠します。さらに日本公使館に援軍を依頼し、竹添進一郎率いる兵が王宮の守りに就きます。

電撃的にクーデターを成功させた金玉均らは翌日に新政権を組閣。さらに6日には朝鮮を独立国とした政治綱領を作成し、これを発表します。

三日天下

全てが上手く行ったかのように思われましたが、事態は急変します。開化派のクーデターに対して閔妃を中心とした清国寄りの家臣たちは清に救援を依頼。袁世凱指揮下の部隊1300人が王宮に押し寄せたのです。

袁世凱

フランスとの戦争で清国は迅速な対応はできないと考えていた金玉均らのアテは外れ、圧倒的不利な状況で戦わざるを得なくなります。

竹添進一郎の率いる部隊150名は奮戦しましたが、10倍近いの清軍の前に壊滅。金玉均は高宗を伴って竹添と共に脱出を図りますが、なんと高宗は清軍に投降してしまいます。

戦いの場となった昌徳宮仁政殿 ※wikipediaより

ちりじりとなった日本軍と金玉均らは日本公使館まで退却しますが、清国軍の追撃と暴徒と化した民衆の襲撃を受けたため、公使館に火を放ち仁川領事館までさらに退却します。この時、多くの在留日本人が惨殺されたと言われています。

開化派のメンバーと竹添ら一部の日本人は商船・千歳丸に乗り込み身を隠しますが、ここで朝鮮外交顧問のメレンドルフが現れ、一行の引き渡しを要求します。

クーデター中止を打診した井上馨

この時点で明治政府はクーデターの中止を竹添に打診していたため、竹添はメレンドルフの要求に従おうとしますが、千歳丸船長の辻覚三郎が船内の権限は船長にあると強く抗議したため、千歳丸は出航に成功します。

こうして、金玉均のクーデターは僅か3日で幕を閉じ、多くの死傷者を出す結果となってしまいました。残った開化派のメンバーも僅か9人という有様で、金玉均らの前途は暗いものとなってしまいました。

日本亡命

日本に脱出した金玉均たちでしたが、その後、メンバー内で意見が別れ5人がアメリカへと去ってしまいます。金玉均と残ったメンバーに対して明治政府の対応は冷たいものでした。

甲申事変の後、明治政府は朝鮮政府と「漢津条約」を締結し講和、さらに清国とも「天津条約」を締結したため、開化派による朝鮮独立という目的は絶望的となってしまったのです。

また、甲申事変の結末を知った福沢諭吉は朝鮮政府に失望し、この時「脱亜論」を執筆。もはや朝鮮単独での自立は不可能であることを悟ってしまうほどでした。

潜伏生活の日々

日本で雌伏の時を過ごす金玉均でしたが、朝鮮政府より暗殺者が送られるなどして、身の危険が常に付きまといます。さらに明治政府はこれ以上の清との関係悪化を恐れたため、金玉均を朝鮮に帰国させようと説得しますが、金玉均はこれを断固拒否。

日本亡命時の金玉均

これにより、金玉均は日本国内の治安を悪化させたという名目で小笠原諸島へと送られることとなってしまいます。止む無く小笠原で生活している際、後に大隈重信暗殺未遂事件を起こす来島恒喜が来訪し、共に国家の将来を語り合ったと言われています。

中江兆民

その後は北海道など各地を転々とすることになりますが、北海道では当時「北門新報」の主筆となっていた中江兆民に出会っており、その他にも犬養毅、頭山満、本因坊秀栄などと交遊を結び、捲土重来の機を待ちます。

上海へ

その後、清国から解放され朝鮮に戻った大院君から閔妃を打倒すべく帰国せよとの密命が降るものの、この計画に賛同するものは殆んどおらず挫折。もう日本に来てから8年近くの歳月が流れていました。

洪鍾宇

こうなっては清国に赴き直接談判するしかないと金玉均は考えるようになります。そんな時に洪鍾宇と李逸植と名乗る者たちが金玉均を援助したいと申し出ます。金玉均にとっては正に渡りに船でした。

1894年(明治27年)李逸植の計らいにより、清国全権大使である李鴻章の息子である李経芳との会談が決定。歓喜に湧く金玉均は会談の地である上海へ行くことを決めますが、これは閔妃による金玉均暗殺のための罠だったのです。

暗殺

これを罠と見抜いた多くの日本人の友人は金玉均を引き止めますが、この会談に一縷の望みを賭けた金玉均は上海へと出立します。また、同じく開化派の一人である朴泳孝は福沢諭吉を介して危機を伝える様願いますが、時すでに遅しでした。

3月27日、上海に到着した金玉均ら一行は、翌28日にホテルに宿泊。唯一日本人で同行していた和田延次郎がそばを離れた隙を突き、洪鍾宇が金玉均の部屋に乱入し、ピストルを乱射。

暗殺される金玉均

一発の弾丸が金玉均の顔を貫き、さらに二発が胴体を突き破ります。異変を察知した和田延次郎が駆け付けた時にはすでに金玉均は絶命していました。享年43歳。

その後

殺害された金玉均の遺体は清国政府により持ち帰られ、暗殺者の洪鍾宇と共に朝鮮へと運ばれます。また、遺体は閔妃一派によりバラバラにされ、漢江の沿岸にて見せしめとされてしまいました。

青山霊園の金玉均の墓

金玉均の死を哀れんだ多くの日本人らにより、浅草本願寺により葬儀が行われ、参列者は2000人を超えるほどでした。この時、福沢諭吉が金玉均に法名を送るよう働きかけています。また、頭山満、中江兆民、犬養毅らにより「金玉均友人会」が結成され、青山霊園に墓地が建てられています。

金玉均の死は、日本世論を大きく動かすこととなり「清国打倒」に傾くこととなります。そして、朝鮮民衆反乱「東学党の乱」を経て、日本と清による「日清戦争」が勃発することとなるのです。

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