悪魔の核デーモン・コア ~恐怖の臨界実験~

悪魔の核デーモン・コア ~恐怖の臨界実験~ミステリー・事件

デーモン・コア(demon core)は、アメリカの核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」で、初期の原子爆弾の核分裂性コアとして製造されたプルトニウムの未臨界塊である。直径89mmの球状で重量は6.2kg。ロスアラモス研究所内にて1945年8月21日と1946年5月21日の2度、臨界状態に達する事故が発生した。

今回紹介するデーモン・コアは、戦後、日本の降伏によって投下されることなく、実験用となったプルトニウムの未臨界塊です。本来なら放射性物質の実験は厳重な体制の中で失敗は絶対に許されないのですが、安易に実験を行ってしまったため、取り返しのつかない大事故を起こしてしまいます。今回は驚異的な核物質デーモン・コア(悪魔の核)の恐怖の実験に関してお話します。

製造の経緯

人類初の核爆弾「ガジェット」の爆発写真

デーモン・コアは、アメリカの核兵器開発プロジェクトである「マンハッタン計画」で、初期の原子爆弾の核分裂性コアとして製造されました。マンハッタン計画というのは、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツなどの原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発のために、科学者や技術者を総動員した計画です。日本へ2度投下された原子爆弾も、このマンハッタン計画によって開発されました。

広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」

「ルーファス」と名づけられたプルトニウムを利用し日本へ投下する第3の原子爆弾として製造されていましたが、1945年(昭和20年)8月15日に日本がポツダム宣言を受諾し、降伏したため使用されることはありませんでした。実際、8月19日にこの第3の原子爆弾は投下予定であったと言われており、日本の降伏は3回目の原爆投下をギリギリで回避したと言えるでしょう。

一度目の実験

ロスアラモス研究所

日本の降伏により、使用する必要がなくなったプルトニウムは、その後はニューメキシコ州のロスアラモス研究所で実験用として使用されることとなりました。ロスアラモス研究所は「合衆国の至宝」と呼ばれるほどの研究機関であり、原子力に関するエキスパートが多く在籍していました。

ハリー・ダリアン

1945年8月21日、研究員の物理学者・ハリー・ダリアンはプルトニウムの研究のため実験を行います。実験方法はプルトニウムの周囲に中性子反射体である炭化タングステンのブロックを積み重ねて徐々に臨界に近づけるという実験です。本来なら防護服などを着用した上、数人で取り扱わなければならないのですが、ダリアンは軽装のまま夜一人で実験を行います。中性子反射材のブロックがプルトニウムに接着すると即座に臨界に達するという大変危険な状態であるにも関わらず・・。

チェレンコフ放射光

そして悲劇が起こります。ダリアンはうっかり手を滑らせてしまい、ブロックをプルトニウムの上に落してしまったのです。その瞬間、核分裂反応が生じ青白い光の熱波(チェレンコフ放射光)が部屋中を覆いつくします。ダリアンはブロックをすぐにどかしましたが、二分以上放射線を浴びたダリアンは被爆してしまいます。この時ダリアンが放射線量は約5シーベルトといわれており、致死量を遥かに上回る量だったのです。

ダリアンの実験を再現した写真

ダリアンはすぐに病院に向かい治療を受けましたが、治療の施しようはなく、急性放射線障害のため臨界事故後25日目に24歳の若さで死去しました。このときダリアンの遺体は全身火傷をしたような状態であったと言われています。また、実験はダリアン一人で行っていましたが、3~4m離れて机に座っていた警備員のロバート・J・へマーリーもこのとき被爆し、事故から33年後に急性骨髄白血病のため62歳で死去したようです。

惨劇再び・・

ルイス・スローティン

ハリー・ダリアンの臨界事故から翌年の1946年、物理学者のルイス・スローティンとその同僚らにより再びこのプルトニウムを用いた実験が行われることになります。スローティンは死亡したダリアンとは友人であり、入院中だったダリアンの下を何度も訪れ、この実験に大変興味を抱いていたのです。またスローティンは学生時代はボクサーとして活躍したり、スペイン内戦に参加するなどスリルを求める性格でした。その性格が災いしたのか実験の内容は大変危険なものでした。

原子爆弾開発に参加したスローティン

具体的には、二つの半球状にしたベリリウムの中央にデーモン・コアを組み込み、ベリリウムの半球の上半分と下半分との間にマイナスドライバーを挟み込み、ドライバーを動かして上半分の半球をコアに近づけたり離したりしながらシンチレーション検出器で相対的な比放射能を測定し、臨界状態が発生する距離を測定するというものでした。

実験図(※ジャズとエンジニア様より)

この実験内容を聞いた他の研究者たちは中止するよう警告しますが、スローティンは耳を貸しません。この時、有名な物理学者・リチャード・ファインマンは「ドラゴンの尻尾を触るようなものだ」と批判し、同じく有名なエンリコ・フェルミも「こんなことでは年内に死ぬぞ」と警告したと言います。

リチャード・ファインマン

そして5月21日、少数の研究員たちと共にスローティンは実験を行います。このとき、スローティン以外の研究員はスローティンが集中できるように背中を向けていましたが、ここで再び悲劇が起こります。スローティンはドライバーを滑り落してしまい、プルトニウムは即座に核分裂反応を起こしまばゆい閃光がスローティンの体を貫きます。スローティンは他の研究員を守るため慌てて上半球部分を弾き飛ばしましたが、自身は大量の放射線を浴びてしまいました。

スローティンの実験を再現したもの

その放射線量は21シーベルトと言われ、前年のダリアンが浴びた放射線量の約4倍です。それでも、スローティンは研究者としての意地があったのか、部屋内にいた研究員たちの立ち位置や距離、部屋にあった物などをつぶさに調べあげます。

事故時のスケッチ図

しかし凄まじい量の放射線を浴びたスローティンは数時間後に容体が急変し、他の研究員らと共に病院に搬送されます。臨界事故により白血球が死滅したスローティンに助かる方法はありませんでした。急性放射線障害となったスローティンは事故後9日目に胃腸障害で35歳で死去しました。さらに、実験に参加した他の研究員らも後遺症などで苦しむ事態となったようです。

その後の悪魔の核

クロスロード作戦での爆発写真

事件後、二度の凄惨な事故を起こしたプルトニウム「ルーファス」はその不吉さから「デーモン・コア」と呼ばれるようになります。デーモン・コアは1946年夏にアメリカ合衆国がビキニ環礁で行った一連の核実験であるクロスロード作戦に使用される予定でしたが、この事件の影響もあり使用は中止となりました。結局デーモン・コアは溶かされて、最後にはほかのコアをつくるための材料となったとされています。日本に投下される予定だったデーモン・コアは、日本の降伏によって投下されることなく、実験用となりました。しかし、実験用となっても、なお死亡者や後遺症患者を出してしまう驚異的な核能力は、デーモン・コアと呼ばれるのも納得です。核は何も生み出しません。我々は今一度「核」というものについて深く考えるべきなのかもしれません。

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