梁山泊 【水滸伝の豪傑たちのアジトを調べてみる】

梁山泊 【水滸伝の豪傑たちのアジトを調べてみる】北宋・南宋

梁山泊(りょうざんぱく)は、中国の山東省済寧市梁山県に存在した沼沢である。この沼を舞台とした伝奇小説『水滸伝』では周囲800里と謳われた大沼沢であった。現在の梁山泊は沼沢の面影を全く残していないが、一帯は観光地化され、小説中の山塞を復元した施設がある。

「替天行道 ・忠義双全」の御旗を掲げ、悪徳役人たちと戦う中国四大奇書の一つ「水滸伝」。その水滸伝の豪傑たちが本拠地として活動した場所が今回紹介する「梁山泊」です。”水滸伝”自体は明代に書かれたフィクションなのですが、「梁山泊」は実際に存在した天然の要塞であったと言われています。また、現在日本でも「優れた人物たちが集まる場所」、「有志の集合場所」として使われています。果たして、実在した豪傑たちのアジトとはどんなところだったのでしょうか?

梁山の起こり

山東省一帯マップ ※世界史の窓様より

梁山泊は現在の現在の山東省西部に位置していたと言われており、一説には漢の時代に梁の孝王が狩りをした際に、その山を「梁山」と名づけたことが由来とされています。また、古来から梁山の周り一帯は黄河の氾濫が繰り返されていたので、無数の沼沢が生まれていたといいます。ちなみに孝王はどういった形で梁山で狩りを行ったのでしょうか?船で梁山まで行ったのか、それとも、船から野鳥などを射って狩りをしたのか?孝王の狩りについては分かりませんが、古来から大きな沼沢地であったのは事実だと思われます。

黄河の氾濫イメージ

その後、五代十国時代の940年頃に黄河の氾濫が発生。堤防が決壊して河水が流れ込み、沼沢はさらに拡大してしまいます。ちなみに黄河の氾濫は、この後も近代に至るまで何度も発生しており、肥沃な土地とは裏腹に大災害に見舞われる要素を含んだ土地であるのが分かります。

宋王朝建国

趙匡胤 ※wikipediaより

長きに渡る戦乱の時代であった五代十国時代の時代も、趙匡胤が建てた「宋(※北宋)」により中華は統一されます。また、このあたりから大沼沢地帯となっていた梁山はいつしか「梁山泊(※梁山滸とも)」と呼ばれるようになったといわれています。

中華を統一した宋王朝は文治主義を中心とした政治を行ったため、優秀な官僚を多く排出しました。しかし、逆に軍事力の低下を招き寄せてしまい、北方の異民族である「遼」や「西夏」に脅かされる状況が続きます。

外敵に脅かされる宋 ※やさしい世界史様より

これに対して宋は莫大な金銀財宝を定期的に異民族たちに送り、講和を結んだため宋王朝は平和を維持することに成功します。しかし、11世紀半ばに新法を巡る官僚の争いにより国政は混乱、さらに講和のための費用は相変わらず莫大なため宋の財政は悪化の一途を辿ります。

一方で梁山泊はというと、その後も黄河が氾濫したために沼沢の規模はますます拡大。一帯の丘陵地が島となり、水路が入り組んだ複雑な地形を形成したため、盗賊や山賊といったお尋ね者達の格好の住処となってしまいました。

宋江の反乱と梁山泊

徽宗 ※wikipediaより

1100年、宋の第8代皇帝として徽宗(きそう)が即位します。徽宗は即位して間もない頃は混乱した国政を束ねようとしますが、次第に政治に関心を亡くしていき、趣味である絵画と造園に没頭するようになります。

芸術活動のため国民に重税を課したため、遂に各地で民衆反乱が勃発してしまいます。特に規模の大きかったものが、1120年の方臘の乱(ほうろうのらん)と呼ばれるものです。方臘の軍の勢いは凄まじく一時期は江南地方一帯を制圧するほどでした。

一方、その方臘と時を同じくして反乱を起こした人物がいます。その人物が「水滸伝」の主人公である「宋江」です。水滸伝の登場人物はほとんどが架空の人物ですが、この宋江は「宋史」に記述があるため実在した人物です。(二人いたなんていう説も…)

宋江 ※wikipediaより

小説「水滸伝」においては、宋江率いる軍団は梁山泊を根拠地として、宋王朝に仇なす反乱軍を相手に戦いますが、残念ながら史実の宋江にそういった動きは全く見られません。しかも、史実の宋江が梁山泊を根城にしたという記述もありません。一応、梁山泊のある山東省近辺を荒らしまわったのは事実です。

じゃあ、この時だれが梁山泊を根城にしていたのかというと、それも記述等がないので不明です。案外、名もない山賊たちが占拠していて、宋江の反乱を手助けしていたのかもしれませんし、官軍相手に大人数が立て籠れるほど大きな要害ではなかったのかもしれませんね。(”水滸伝”の方も超人みたいな豪傑の働きがあってこその梁山泊だったし..。)

その後の梁山泊

南北に分かれた金と南宋 ※裏辺研究所様より

宋王朝を悩ませた宋江、方臘ら反乱軍でしたが、数年の内に乱は平定されました。しかし、この反乱で宋王朝も疲弊し、1126年に女真族王朝の「金」によって滅ぼされてしまいます。

その後、宋に代わって中華の北半分を手中に収めた金国は、長江より南に逃れた宋王朝の亡命政府である「南宋」と長きに渡って睨み合いを続ける事になります。この争乱の間、梁山泊が何か行動を起こしたという話はありません。

干乾びた梁山泊跡地イメージ

12世紀末にまたしても大規模な黄河の氾濫が発生したため、河川は南北に分かれ山東半島の南、淮河の方面に流れる南流が19世紀半ばまで700年にわたって本流となっていました。その当初は黄河は梁山泊に注いで分かれていたといいます。その後、頻繁な河道の変遷を経てやがて河川は干上がり始め、遂に梁山泊一帯の沼沢地帯は消失してしまいました。

おわりに

梁山泊は英語では「EDEN=楽園」と訳されています

本当の梁山泊は我々が水滸伝で読んだような華麗な活躍をした集団でもなければ、それほど歴史的に重要な拠点でもありませんでした。しかし、当時の悪政に苦しむ民衆たちが、心の底から英雄たちの到来を望んでいたことは想像に難くありません。そんな民衆の思いが作り上げた小説が「水滸伝」であり、幻想の梁山泊であったのだと思います。また、梁山泊は消失してしまったため、本来の姿を見ることはできませんが、現在跡地は「水滸伝」をモチーフとした観光スポットとなっているので、記事を読んで興味をもった方はチェックしてみてくださいね。

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