真弓広有 【怪鳥・以津真天を射ち倒した弓の名手】

真弓広有 【怪鳥・以津真天を射ち倒した弓の名手】南北朝時代

真弓 広有(まゆみ ひろあり 1305年 – 1369年)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。太平記では隠岐次郎左衛門広有と表記される。法名は弘寂。

後醍醐天皇が建武の新政を始めた1334年ごろ、内裏の正殿である紫宸殿の屋根の上に鳥の姿をした妖怪「以津真天(いつまで)」が毎晩現れるようになります。この妖怪により京都では疫病が起こり困った公卿たちは、弓の名手として名を馳せていた「真弓広有」に怪鳥退治を依頼します。そして、広有は見事期待に応え怪鳥を仕留めることに成功します。今回は、京都に疫病をもたらした怪鳥「以津真天」を得意の弓で退治した真弓広有にスポットライトを当てていこうと思います。

出自について

藤原長良

日本の初期の系図集『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によると、広有は藤原四家の一つである藤原北家、藤原長良(ふじわらのながら/ながよし)の流れを汲んでいます。長良の次男である遠経(とおつね)の子・良範(よしのり)の六男・純素(すみもと)が祖とされ、純素から数えて13代目の末裔となります。ちなみに純素の兄弟には、藤原純友がいます。平安時代中ごろに、瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と、関東で平将門が起こした乱は「承平天慶の乱」と呼ばれ有名です。

広有、怪鳥を射る

京都御所紫宸殿

『太平記』によると1334年(建武元年)の秋、後醍醐天皇が建武の新政を始めたころ、疫病が猛威をふるいます。疫病によりおびただしい数の病死者が出ると、紫宸殿の上に、謎の怪鳥が現れました。紫宸殿とは内裏の正殿で、天皇の元服や即位礼など公式の行事が行われる建物です。毎晩、紫宸殿の上を飛び回るこの鳥は、「いつまで、いつまで」と鳴き、その声は雲にも響くほどの勢いで人々の眠りを妨げていました。

公卿たちは、この鳥をどうにか退治するために考えを巡らせます。第76代の近衛天皇が在位のときに、空高く飛び回り鳴いていた鵺(ぬえ)を源頼政が弓で射落としたことを引き合いに出しながら、今回も同じように弓で射抜ける者がいないか尋ねました。ところが誰も声を上げるものはいませんでした。

すると関白左大臣である二条師基(もろもと)が召し抱えている隠岐次郎左衛門広有(真弓広有)こそ、その任務をやり遂げられるのではないかとの声が上がり、広有に白羽の矢が立つこととなったのです。

後に南朝の重鎮となる二条師基

呼び出された広有は、肉眼でやっと確認できるほどの高いところを飛びまわるこの鳥を討ち取ることができるか不安に感じました。しかし、断る選択肢はないと考え、この大役を引き受けることにしました。

すぐに下人に弓と矢を持たせ庇の陰に隠れ、鳥の様子をうかがっていると、大内山の上に不気味な黒雲がかかると鳥がしきりに鳴くのが見てとれました。広有が鳥の居場所を確認し弓矢をかまえると、後醍醐天皇がお出ましになり、関白はじめ左右大将、大中納言など大勢の見物人がぞろぞろ出てきて、どうなることかと固唾をのんで見守りました。

広有は二人張りの弓に、十二束二伏(こぶし12握りの幅に指2本の幅を加えた長さ)の矢を引き、鳥の鳴き声を待ちます。鳥が紫宸殿の上空、高さ二十丈(約60メートル)ほどのところで鳴いたのを見計らうと、矢を一閃。矢が紫宸殿の上を突き抜け、轟音が鳴り響いたかとおもうと、射抜かれた怪鳥が仁寿殿の軒の上をごろごろ転がり、竹の台の前に落ちました。見物人からは一斉に歓声があがり、あたりはしばらく騒然としていました。

かつて京都に出現した妖怪・鵺

落ちた鳥を確認すると人面のような頭を持ち、とがったくちばしにはノコギリのような歯が並んでいました。身体はヘビのようで、両足には鋭い爪があり、翼を広げると1丈6尺(約4.8メートル)もの長さがありました。

広有はこの働きにより、すぐさま従五位に任命され、後醍醐天皇から「真弓」の姓を賜り、因幡(現在の鳥取県東部)にある荘園を恩賞として得ました。

怪鳥「以津真天(いつまで)」とは?

以津真天

「以津真天」という名称は、江戸時代の浮世絵師、鳥山石燕(とりやませきえん)が1779年に刊行した妖怪画集『今昔画図続百鬼(こんじゃくがずぞくひゃっき)』において、名づけました。『太平記』の記述にある「いつまで、いつまで」という鳴き声をもとに命名されたとされています。

『太平記』のなかでは「怪鳥」と記されているものの明確な名前は記載されていません。「いつまで、いつまで」と鳴くのは、疫病で亡くなった死体をいつまで放っておくのかという意味を込めているともいわれ、死んだ者たちの怨霊が鳥に化したものであるとも言われています。

その後

真弓広有が怪鳥を射落としたことが描かれている「広有射怪鳥事(ひろありけちょうをいること)」は古典『太平記』の12巻に記述されています。なお『太平記』では真弓広有ではなく、隠岐次郎左衛門広有と呼ばれています。

その後、広有は南北朝の動乱期に征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれた懐良親王(かねよししんのう)に付き従い、九州へ向かい各地を転戦し、九州での南朝方の全盛期に寄与しました。肥後国と筑後国境にあったとされる関所、大津山の関(松風の関)の守備を担ったとされます。晩年、付近の山里(現在の福岡県みやま市山川町真弓付近)に隠棲し、1369年、65歳でその生涯を閉じました。

おわりに

アマビエとも関係がある? ※wikipediaより

以津真天という想像するからにおぞましい鳥が、実際に存在したのかは定かではありません。鎌倉時代から南北朝時代に大きく時代が移り変わる転換点に、得体の知れない疫病で次々と人が倒れていく-そんな背景があり人々の不安な気持ちが増幅し、以津真天という怪鳥を生み出したともいえるでしょう。弓の名手である広有に、人々の不安の象徴である鳥を討ち取ってもらい、心配を取り除いてもらいたいという『太平記』作者の思いが込められているのではないでしょうか。また、2021年現在コロナウィルスが世界で猛威を奮っていますが、広有のような人物がいたなら是非ともこの疫病を打ち払っていただきたいものです。

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