懐良親王 ”日本国王”となった超・武闘派皇子

懐良親王 ”日本国王”となった超・武闘派皇子南北朝時代

懐良親王(かねよししんのう 1329?年-1381年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の第8宮皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。外交上は明の日本国王として良懐(りょうかい)を名乗った。南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築く。

明治維新、時の政府は徳川武家政権を倒し、一時的にせよ天皇親政の形式をとったものであったことから、いにしえの後醍醐天皇の建武の新政を神聖視し、それにかかわるモニュメントを多数作りました。皇居前に忠臣、楠木正成像が置かれたことはそのひとつの象徴です。さらに後醍醐天皇自身やその親王らを祀る神社がいくつも創建されました。「建武中興十五社」と呼ばれています。後醍醐天皇を祀る吉野神社、尊良、恒良両親王を祀る金崎宮、護良親王を祀る鎌倉宮などは有名ですね。九州、熊本県八代市にも懐良親王を祀る八代宮があります。八代には懐良親王の墓所があり、地元民からの強い創建運動が起り明治政府がそれを認めたのでした。その懐良親王とはどんな親王だったのでしょうか。武に優れそして文にも優れた親王についてお伝えします。

生い立ち

後醍醐天皇

14世紀前半、建武の新政にて自らの手による朝廷政治、天皇親政を目指した後醍醐天皇でしたが、わずか3年で足利尊氏率いる武家たちにより権力の座を追われます。そして吉野(奈良県吉野郡)に逃れ南朝を開きますが、同時に我が子である皇子たちを各地に派遣して呼応する勢力の再結集を図りました。長男の尊良(たかよし)親王と当時皇太子となっていた五男の恒良(つねよし)親王は新田義貞、義顕親子とともに北陸の越前金ヶ崎(福井県敦賀市)へ、四男の宗良(むねよし)親王は信濃国(長野県伊奈郡)へ、七男の義良(のりよし)親王は幼少期から奥州、鎌倉、美濃、伊勢、伊賀にて軍勢を率いていましたが11歳のときに、父後醍醐天皇のいる吉野に入り、譲位され、南朝の後村上天皇となりました。

菊池武光騎馬像

そして八男の懐良親王は1336年、わずか7歳にして征西大将軍に任じられ西へ向かったのです。四国、瀬戸内の武士や水軍を懐柔しつつ、5年後には目指す九州の薩摩(鹿児島県)に上陸し、さらに進んで肥後(熊本県)の有力な武将にして朝廷の忠臣を自認する菊池一族の棟梁、菊池武光を味方としました。菊池一族は平安中期からの武士団でしたが、源平争乱期には平家方につき、また鎌倉時代、承久の変では朝廷方についたために、源氏そして鎌倉幕府にその所領のかなりを取り上げられるという憂き目にあいました。また元寇に際しては粉骨砕身の働きをして幕府軍勝利に大きく貢献したにもかかわらず、ほとんど恩賞を得ることもなく辛い時期を長く過ごしていたのです。そこに後醍醐天皇の親王が自らの挙兵のために肥後までやって来たのですから、意気に感じて親王のために戦ってくれたのでした。

武をもって九州を征す

筑後川の戦い

1348年には菊池一族の本拠であった隈府城(別名菊池城:熊本県菊池市隈府)に征西府を開きます。懐良親王は菊池軍を中心にして、足利幕府より派遣されていた一色氏、仁木氏さらに古くからこの地方の守護であった島津氏らとの戦いを続けたのです。1359年には筑後川において、懐良親王軍勢4万と足利幕府軍勢6万が対峙し、激闘を繰り広げました。後の関ヶ原の戦いにも匹敵するほどの大戦でした。双方に多数の死者、負傷者が出ましたが、懐良親王側が勝利を収め、さらにその2年後には大宰府も陥落させ、九州をほとんど制圧したのです。
この征西大将軍としての懐良親王の活躍には終始付き従っていた忠臣、五条頼元の力も大きかったと言えるでしょう。思い出してください。平安時代以降、皇族が武器を手にすることなどはあり得なくなっていました。しかしかつて7世紀にはあの中大兄皇子が中臣鎌子と謀って、自らの手を血に染めて蘇我入鹿を討ち取ったのです。高貴な武人の血は懐良親王へと脈々と引き継がれており、そしてそれを支える優れた廷臣もまた生き続けていたのです。

日本国王

洪武帝(理想図と現実)

九州をほぼ押さえて、この地における南朝の天皇の代理者のようなかたちであった懐良親王のもとに意外なところからの使者が来ます。1369年、新たに成立したばかりの明王朝の皇帝、洪武帝からの使者でした。使者は洪武帝が懐良親王を「日本国王」とするという国書を届けにきたわけです。めでたい話のようですが、実はそうとは言えません。例えばヨーロッパのどこかの国の国王ならば間違いなく独立した国の支配者ですが、東アジアにおいて国王とは中国の王朝の皇帝からその国を与えられたもの、という意味なのです。つまり王は中国皇帝の臣下ということなのです。
古く邪馬台国の卑弥呼は当時の中国王朝、魏から親魏倭王として封ぜられました。5世紀にも時の五代の天皇が中国南朝の宋に臣下の礼をとり、倭の五王とされました。しかし7世紀初頭には聖徳太子が遣隋使小野妹子に託した「日出る国の天子から日没する国の天子へ・・・・」というかの有名な手紙で日本は中国の臣下ではないという意思表示をしていました。

倭寇

それからおよそ700年以上を経て、明の洪武帝がこのような国書を送ってきたのは何故でしょうか。ひとつの大きな理由は倭寇という海賊あるいは密貿易を行うものを取り締まりたかったからのようです。14世紀の倭寇は九州北部及び朝鮮半島の出身者が朝鮮半島沿岸や中国沿岸で非合法な貿易や海賊行為を行っていたことを指すのですね。洪武帝としては日本の天皇権力の代行者である懐良親王にそれを取り締まるようにと命じ、代償として日本国王として封じてやるということだったのでしょう。懐良親王と腹心の五条頼元は国書の内容があまりにも傲岸不遜であったので、国書を届けにきた使節団を処罰しました。かつて鎌倉幕府が元からの使節を処罰したのと同様にです。しかし翌年再び使者を送られた懐良親王は九州統治の権威となるとしてこの明からの冊封を受け入れたのでした。これにより、懐良親王は「日本国王」として九州支配を強化できると考えたのです。さらに明との正式な貿易により経済的な利益を得られるであろうということもその理由であったかもしれません。冊封されますと朝貢しなければなりませんが、数倍の下賜がなされます。それは形式的なもので実際は貿易だったのです。

名将・今川貞世(了俊)

足利幕府は、翌1372年、今川了俊を九州探題として派遣します。了俊は毛利、吉川、長井、大内といった名だたる武将を引き連れ南朝方を攻撃し大宰府を奪還、さらに島津、大友、少弐などの協力を得て、一気に九州の南朝勢力を滅ぼしたのでした。こうして懐良親王の「日本国王」の称号は宙に浮いてしまったのですが、貿易による利益を渇望していた足利三代将軍義満がこれをなんとか手に入れ、勘合貿易を始めたのはよく知られていますね。

歌人懐良

戦う皇子、そして「日本国王」となった懐良親王は優れた歌人でもありました。勅撰和歌集にいくつもの歌が選ばれた歌人、二条藤子を母に持つのですから当然のことかもしれません。最後に親子ふたりの歌をご紹介しましょう。九州の地にいる親王を思って詠んだ母藤子の辞世の歌です。

折りしもあれ 心つくしにまたれずは ことしばかりの花は見てまし

(筑紫にいるあの子のことを思うともう見納めとなるこの桜も見てはいられない)

今川勢に敗れんとするときの懐良親王の歌です。

日にそへて のがれんとのみ思う身に いとどうき世のことしげきかな

(もうこの世から逃れたいとだけ思っているのに、何故こうも現世の出来事が辛く降りかかってくるのだろう)

わずか7歳で母と離れて遠い任地へ赴いていった懐良親王。その後二度と母と対面することはできませんでした。大宰府陥落後、懐良親王は病に倒れ、天皇の皇子として生まれた悲哀を心に抱えたまま52歳で九州の地においてその一生を終えたのでした。

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