北条時行〜足利尊氏を悩ませた逃げ上手の若君〜

北条時行〜足利尊氏を悩ませた逃げ上手の若君〜南北朝時代

北条 時行(ほうじょう ときゆき/ときつら 1325年12月27日-1353年6月21日)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の遺児。先代の武家の筆頭である高時と室町幕府初代将軍である足利尊氏との中間の存在として、中先代(なかせんだい)とも呼ばれた。建武政権期、北条氏復興のため鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、幾度も逃走と鎌倉奪還を繰り返した。

時は1333年。鎌倉幕府の滅亡後、政変に揺れる日本において、ひたむきに鎌倉奪還を狙う男がいました。その名は北条時行。彼は後醍醐天皇による倒幕運動「元弘の乱」で命を失った父・高時と仲間の仇を討つため人生のすべてを北条氏復興に注ぎます。2021年より週刊少年ジャンプで連載が開始された話題沸騰中の「逃げ上手の若君」でこの時行を知ったという方も多いのではないでしょうか?歴史の授業ではあまり触れられない人物だけに謎も多く、どんなことを成し遂げたのか知りたいという方も多いでしょう。そこで今回は「逃げ上手の若君」北条時行がどんな人物であったのかご紹介していきます。

鎌倉幕府第14代執権・北条高時の次男として誕生

時行の父・北条高時

鎌倉幕府における歴代最後の責任者、北条高時。時行は彼の次男としてこの世に生を受けました。幼名は勝寿丸、亀寿丸など。通称は相模次郎と呼ばれています。1325年頃と推測される誕生当時は、鎌倉時代の末期にあたります。情勢は公家一統の世を目指す後醍醐天皇の呼びかけにより盤石と思われていた鎌倉幕府に陰りが見え始めていた時期でした。元弘3年(1333年)。源氏の棟梁であった足利尊氏が後醍醐天皇の討幕に呼応し北条方より造反。鎌倉幕府の重要拠点である京都の六波羅探題に突如攻めかかります。さらに源氏の新田義貞がこれと時を同じくして北条から離反し、関東周辺の武家を糾合しながら鎌倉へと進撃を開始します。

稲村ケ崎にて祈りを捧げる新田義貞

鎌倉に雪崩れ込んだ新田軍と北条軍は激戦を繰り広げますが、稲村ケ崎から鎌倉の背後を突いた義貞軍本体により北条軍は一気に瓦解します。北条氏の菩提寺である東勝寺に敗走した執権・北条高時とその家臣一同はここを死に場所と定め自害します。

鎌倉合戦図 ※~鎌倉ぶらぶら様より~

自害するものは跡を絶たず約870名もの人々が自ら命を絶ちました。多くの北条一族が命を落とす中で時行は生き残り、異母兄である邦時と共に鎌倉を脱し家臣・諏訪頼重と共に信濃へと落ち延び北条一族の再起を図ります。鎌倉倒幕以後、時行はその生涯を「倒された北条氏の復興」に捧げることとなるのです。

仇敵・足利尊氏

足利尊氏

足利尊氏といえば、室町幕府の初代征夷大将軍として知られる人物です。彼は後醍醐天皇に従って鎌倉幕府を倒し、建武の新政の立役者となりました。しかし、時行からしてみれば尊氏は鎌倉時代に父・高時が恩恵を与えて目を掛けてきたにも拘らず、北条氏を裏切って幕府を滅ぼした憎き裏切り者でしかありませんでした。

公家一統の世を目指した後醍醐天皇

一方で尊氏のその人望と源氏の棟梁の血筋は公家政権の脅威として後醍醐天皇ら公家一同から危険視されていました。また戦後の恩賞を巡って武家たちと後醍醐天皇の関係は険悪になっていき、建武政権は足並みが揃わなくなっていきます。これを好機と見た北条時行は鎌倉奪還を計画。以後、鎌倉の地を巡って足利尊氏と衝突を繰り返していくこととなるのです。

時行決起す 中先代の乱

建武2年(1335年)6月。反後醍醐天皇派の公家である西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を計画し、時行はこれに乗じて関東の北条軍残党を糾合します。暗殺計画は事前に計画が漏洩し失敗となりますが、同年7月、時行は鎌倉を奪還すべく潜伏先の信濃にて挙兵。遂に”中先代の乱”と呼ばれる戦いの火蓋が切られます。時行は信濃守護の小笠原氏を撃破すると、上野、武蔵国、そして鎌倉へ向かいます。道中の時行軍は戦いに圧勝、難なく鎌倉へと兵を進めました。

北条時行侵攻図

そこで、足利尊氏の弟である足利直義率いる軍勢と対峙します。当時、直義は尊氏に代わり鎌倉を治めていました。直義軍は時行軍を迎え撃ちますが、勢いに勝る時行軍の前に直義は敗北し鎌倉から撤退(井出の沢の戦い)。時行は悲願であった鎌倉の地を奪還するとそのまま逃げる直義軍の追撃を開始し、手越河原にて直義軍を撃破します。

井出の沢古戦場跡地

これを知った京都の足利尊氏は弟を救うべく後醍醐天皇に征夷大将軍の位と時行討伐の勅令を願いますが、尊氏を危険視する後醍醐天皇はこれを退けます。8月、尊氏は独断で時行を討伐すべく京都を出立し鎌倉へと進軍、尊氏は直義の軍と合流すると遠江国で時行率いる軍勢と激突しこれを撃破します。時行は敗走後も奮戦しますが徐々に戦線は崩壊していき伊豆方面へと逃亡。鎌倉奪還から僅か20日ばかりの出来事でした。

南北朝動乱 二度目の鎌倉奪還へ

日本国内に二つの朝廷が出現した

足利尊氏に敗れ再び潜伏することになった時行でしたが、世の情勢は大きく変化していました。尊氏の無断の出撃を機に後醍醐天皇と足利尊氏の関係は完全に決裂し、日本全土を巻き込む大動乱の時代へと突入したのです。その後、尊氏は後醍醐方の有力武将を打倒し京都に拠点を置くと持明院統の光明天皇を擁立します(北朝)。これに対して後醍醐天皇は吉野に朝廷を開き尊氏に対抗(南朝)。ここに南北朝時代が幕を開けます。

若干20歳で大軍を率いた北畠顕家

そして建武4年(1337年)奥州の北畠顕家は後醍醐天皇の命を受けて京都へ向け進軍。伊豆方面にて潜伏していた時行はこれに乗じて南朝方に帰順し兵を挙げます。この時、新田義貞の子である新田義興も上野にて挙兵し時行軍と合流、さらに奥州の北畠軍が到着したことで大軍勢となります。三者率いる連合軍は鎌倉に攻め上ると杉本城に籠る斯波家長を激戦の末撃破し鎌倉を占領することに成功、時行は二度目の鎌倉奪還を果たします。

北畠軍進撃図

翌年の建武5年(1338年)1月、北畠顕家を総大将とする連合軍は京都に向け鎌倉を進発。時行らの活躍により連合軍は一気に美濃まで進軍しますが、北畠顕家は越前にいた新田義貞との合流を退け、伊勢方面より京都奪還を目指します。しかし、この判断は裏目に出てしまい和泉国・石津の戦いにて北畠顕家は戦死。連合軍は崩壊してしまい時行も雲隠れしてしまいます。

三度目の鎌倉奪還 足利尊氏との最後の戦い

伏兵に会い討ち死にした新田義貞

北畠顕家の死後、間もなく新田義貞も戦死し南朝方は一気に劣勢へと傾きますが、足利幕府内では権力争いが激化し将軍・尊氏派と弟・直義派との大規模な内部抗争へと発展していきます。(観応の擾乱)正平7年(1352年)南朝方はこの内紛に乗じて京都と鎌倉の同時奪還を計画します。その年の2月新田義貞の遺児である新田義興・義宗兄弟は上野国にて挙兵すると潜伏していた時行は新田義興率いる別働隊に参戦し鎌倉に侵攻、鎌倉を守っていた足利尊氏の四男・足利基氏を撃破すると三度目の鎌倉奪還を成し遂げます。この南朝方の動きに対し足利尊氏は自ら関東へ出陣し小手指ヶ原にて新田義宗を撃破し、そのまま鎌倉へと進撃します。

激戦地となった小手指ヶ原戦場跡地

時行と義興は鎌倉では敵を防ぎきれないと判断し、相模国の河村城にて尊氏軍を迎え撃ちます。足利尊氏と初めて刃を交えた中先代の乱から15年以上の年月を超えて再び時行は宿敵を相手に奮戦します。しかし、天は時行に味方することはありませんでした。時行の奮戦も虚しく、河村城は落城し部隊は潰走。新田兄弟も越後へと落ち延びていきました。鎌倉奪回から僅か20日間ほどの出来事でした。

その最後

残念ながら龍ノ口に時行の墓はない

逃走開始からおよそ一年後の正平8年(1353年)6月21日。遂に足利方に捉えられてしまった時行は鎌倉の龍ノ口で斬首されてしまいます。彼の長年に渡る北条氏復興にかけた想いは、ここでついに断ち切られることになります。時行の人生は首尾一貫して北条氏の復興に注がれていました。鎌倉末期に生を受け、倒幕運動による北条氏の滅亡を体験しながらも生き延び、戦っては逃げ、そして戦い、そして逃げ…戦地を転々としながらも、常に眼は聖地である鎌倉に向けられていたのです。不運にも敵となった北条尊氏は、3度に渡り時行の猛攻を受けることとなりました。当時の時行は、「足利尊氏のみが狙い、後醍醐天皇には興味がない」といった書状を送りつけたとまでいわれています。最期まで鎌倉と北条氏の復権にこだわり、時代を生き抜いた若き武将であったといえるでしょう。「逃げ上手の若君」、無念ながら最期は彼らしく逃走中の出来事でした。弱冠20代半ばでこれだけの戦果を成し遂げた時行の人生は、まさしく波乱万丈といえるでしょう。終始一貫して北条氏と鎌倉にこだわり続けた彼の姿勢に心を打たれる人物も多いと聞きます。この北条時行をきっかけに南北朝時代に興味を持たれた方はぜひ一度「太平記」の世界に足を運んでみてはいかがでしょうか?

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