石見銀山について調べてみた ~世界遺産に登録された鉱山の歴史~

石見銀山について調べてみた ~世界遺産に登録された鉱山の歴史~スポット・観光地

前回佐渡金山について執筆したことがあるので、今回は2007年にめでたく世界遺産に登録された石見銀山について調べてみました。実は石見銀山遺跡はシンボルになるような建造物はありません。しかし、自然を破壊せずに採掘を続けた「自然との共生」が評価され世界遺産に登録された経緯があるのですが、16~17世紀に日本の歴史に大きな影響を与えていた点も無視はできません。今回はそんな世界も注目した産業遺跡についての記事になります。

石見銀山の歴史

石見銀山がいつ発見されたかという確かな資料は見つかっていません。しかし、鎌倉時代の末期、1309年(延慶2年)、周防の大内弘幸によって発見されたという言い伝えがあります。本格的な開発は1527年(大永7年)ごろに博多の商人・神屋寿禎(かみやじゅてい)によって行われます。

石見銀山所在地※島根県HPより

神谷氏は1533年(天文2年)に朝鮮半島で用いられていた「灰吹法」という精錬(鉱石から金属を取り出す過程のこと)技術を導入し、銀の生産量を飛躍的に伸ばしました。この石見銀山から始まった工法が、たちまち10年後には生野銀山(兵庫県朝来市)に伝わっています。

灰吹銀(写真は石州銀)※Wikiwandより

神屋寿禎のこの発見は、日本海に船をこぎだして沖を眺めていたら、南山に光を見出したとか、偶然発見されたような伝説に言い伝えられていますが、おそらく寿禎は銀出土の情報を以前から掴んでおり、銀山の中枢を探しまわっていたのではないのかと思われます。

石見銀山と世界経済

この発見の100年ほど前から明帝国の中心とするアジア経済圏は明国銅銭の鷹銭が続出し混乱をしていました。また、大物取引が増えたこともあって、明帝国は諸国の貢祖を銀納とし、とりわけ、江南地域からは銀納一本化令を出していました。

日本主要鉱山分布図(※おおだwebミュージアム様より)

ところがわが国では、金がよく算出していて、しかも安く相対的に高い銀を輸入していました。諸外国とのやり取りで不利であったことは言うまでもありません。ここに大量の銀を産出できることになったわけですから、それはアジアの経済圏サイクルの方向を一変させることになったのです。

このようなことから、逆に日本から銀が中国や朝鮮に大量に輸出されるようになり、朝鮮半島の記述によると1542年(天分11年)には銀8万両(約3.2トン)という大量の銀が持ち込まれたということが残っています。

ティセラ日本地図(※文化遺産オンライン様より)

また、ヨーロッパの1595年頃の地図ティセラ日本図には「銀鉱山 石見」が大きく表記されています。大航海時代を迎えたヨーロッパではポルトガルが日本の銀を軸とした中継貿易で栄えたのです。中国・朝鮮をはじめとするアジア諸国との交流が活発となると同時に、日本人は西洋文化と初めて接触しました。銀を求めてきた人々によってもたらされた、鉄砲が統一政権の誕生を速めたのです。

キリシタン宣教師がもたらした文化に刺激を受け、そして博多織や西陣織などの織物産業も銀のおかげで安価になった生糸の貿易によって目覚ましく発展しました。それらの動きは石見銀山の開発が契機になり、その扉を開く役割を果たしたのは言うまでもありません。

戦国時代の石見銀山

1523年時の勢力図(※戦国ヒストリー様より)

戦国時代には大内義隆が石見銀山を治めていましたが、1537年(天文6年)に出雲の尼子経久が石見に侵攻し、これを占領します。以後、大内家と尼子家による石見銀山の争奪戦が繰り広げらます。

1551年(天文20年)に義隆が家臣である陶隆房ら武断派による謀反”大寧寺の変”によって殺害されると、大内氏に代わって安芸の毛利元就が台頭。今度は毛利家と尼子家による銀山争奪戦行われることに。

中国地方の覇者となった毛利元就

”謀神”との異名を持つ毛利元就ですが、尼子家当主である尼子晴久が存命中は石見銀山を維持することができず苦戦を強いられます。しかし、尼子晴久が世を去ると尼子家家中に動揺が走り、毛利家と和議を結ばざるを得なくなります。(※雲芸和議)

この和議を皮切りに元就は一気に反撃に転じて、石見銀山を入手。1566年(永禄9年)には宿敵であった尼子家を遂に滅ぼし、石見銀山を完全に掌握することになります。

その後、毛利家は中央に進出してきた織田信長率いる軍勢と幾度も戦いますが、経済力に勝る織田家との戦いを可能とした要因の一つとしてこの石見銀山の豊富な銀の産出が挙げられます。

江戸幕府統治から廃鉱まで

1590年(天正18年)豊臣秀吉が天下を統一すると、石見銀山は豊臣家と毛利家による共同管理下におかれます。豊臣政権時に行われた大陸出兵時には軍資金としてこの銀が充てられています。

1600年(慶長5年)徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利を収めると、石見銀山は徳川家康に接収され、翌年には大久保長安を初代銀山奉行に任命しこれを管理させます。以来約260年間、石見銀山は幕府が直接支配する天領となります。

幕府の直轄領(※静岡県総合教育センターより)

しかし、銀の産出量は江戸時代の初期(寛永年間1624年から1644年)を過ぎると著しく減少し始めます。1673年(延宝元年)の記録では、それでも約1340kgの灰吹銀が出ましたが、江戸末期の1830年(天保元年)には約300kg程度になってしまいます。

銀の産出は減るものの、銅や鉄鉱石などは産出され続けたため採掘は続けられます。1866年(慶応2年)に長州藩と幕府軍による第二次長州戦争にて長州藩が勝利すると、約260年の幕府管理は終わりを告げます。

民間会社藤田組による煉瓦製煙道跡地

明治政府期には民間会社に払い下げとなり経営されますが、地震や銅価格の下落など受けて1923年(大正12年)には休山となり、第二次世界大戦中に銅の再産出を目論み採掘が始められますが、1943年(昭和18年)に坑道内が水没する事件が発生したため、石見銀山は完全に閉鎖され、約400年に渡る歴史に幕を下ろします。

~銀山で働く人々の暮らしと保障~

ここからは石見銀山で働いていた鉱夫たちの生活に着目してみたいと思います。まず、銀山で働く人々は周囲の農村から供給され、2~3年の年季奉公が多かったようです。

石見銀山炭鉱夫の作業絵(※ワシモ(WaShimo)のホームページ様より)

最盛期を過ぎて、坑道がだんだん深く、長くなってくると、抗夫たちは劣悪な環境下で働くことになりました。採掘の現場は閉塞された坑道で、明かりをとるための油煙や二酸化炭素が充満しており、石を砕く際の粉塵も吸い込んでしまいます。

これらの劣悪な環境のため「気絶え」と呼ばれる呼吸器系の鉱山病に抗夫達は悩まされます。家族構成の多くが独身者や夫婦のみと見られており、古文書の研究から平均寿命は約30歳といわれています。現代のブラック企業も真っ青な環境ですね(汗)

採掘時に使ったとされるマスク”福面”のレプリカ(※いわみ大田福めぐり様より)

一方で病人に対しては当時としては手厚く保護していました。働けなくなった人に対して出る勘弁手当は1人米2合を50日間支給しました。労働者確保のための児童手当というべき子ども養育米も2~10歳までの間に1日3合を支給しています。さらに鉱山病者には健康増進のために「御勘弁味噌」を配給。重傷者には米2合5勺を生涯支給したそうです。まさに、生きるために働く鉱夫たちは命がけでお国のために働いていたというわけです。

3つのゾーンに分けられた石見銀山遺跡と背景

石見銀山遺跡ととその文化的景観となっているエリアを大きく三つに分けると「銀山」「大森」「その周辺」となります。これら三つのエリアを簡単に説明したいと思います。

銀山ゾーン

銀山山中には大小さまざまな間歩(鉱石を採掘するための坑道)が900か所残っていますが、現在内部を見られるのは2か所だけです。

①龍源寺間歩

龍源寺間歩(※なつかしの国石見様より)

通年公開されている間歩(まぶ)です。全長600メートルで見学できるのは入り口から157mの地点までです。

②大久保間歩

大久保間歩(※いわみ大田福めぐり様より)

2008年4月から一般公開(事前予約必要。期間限定)銀山最大級の規模を誇る間歩。初代石見銀山奉行の大久保長安の名前をとったものです。

③永久精錬所跡

永久精練所跡(※日本の風景様より)

明治時代から大正年間にかけ、銀や銅生産の中心となった場所。当時の繁栄を伝える精錬所、分析場、煙道、選鉱所、沈殿池などの遺跡が残っています。

大森ゾーン

大森の町並みは江戸時代に2代目・奉行の竹村丹後守が現在の場所に奉行所(後の代官所)を設けてから作られています。奉行所と関係のある建物、郷宿(奉行所に来た人が止まる宿)武家屋敷、商家などの町家が混在しています。

①羅漢寺 五百羅漢

羅漢寺外観(※島根観光ナビ様より)

石窟五百羅漢は銀山で働いて亡くなった人々や祖先を弔うために、月海浄院が発願し、25年もの歳月をかけて、1766年(明和3年)に完成。羅漢寺はこの五百羅漢を護るために建てられました。合計501体の羅漢像が安置されています。

周辺ゾーン

温泉津沖泊道の街並み(※モシコム様より)

銀の積み出しや物質の輸送に使われた港も時代によって変遷し、現在もその名残を残しています。また、銀山街道と呼ばれる鞆ヶ浦道や温泉津沖泊道も世界遺産になっています。

さいごに

おおよそ400年にわたる石見銀山は明治期の大規模な産業の影響を受けることなく操業を停止したため、大規模な地形改変を受けることなくその姿を残しています。一部では”遺産としては地味”との声もありますが、16~17世紀における海外と交流史上の役割や国内統一に関与した歴史などの点から重要な歴史的遺物であることは事実だと思います。なかなか気軽に行ける場所ではないのですが、歴史と遺跡と自然との共生が交わった石見銀山に興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか?

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