戦国四君から学ぶリーダー像 【孟嘗君・信陵君編】

戦国四君から学ぶリーダー像 【孟嘗君・信陵君編】春秋戦国時代

上に立つ者としてどのような姿勢でいればいいか、考えたことはありませんか?ここでは、「乱世を駆け抜けた戦国四君の4人がどのようなリーダーであったのか」という側面に焦点をあて、そこから学べる理想のリーダー像を考察していきましょう。

戦国四君とは?

紀元前260年の勢力図 ※wikipediaより

「戦国四君」とは、中国の春秋戦国時代(紀元前403~同221年)に活躍した「斉の孟嘗君(もうしょうくん)」「魏の信陵君(しんりょうくん)」「楚の春申君(しゅんしんくん)」「趙の平原君(へいげんくん)」という4人の有力者のことです。

彼らが「戦国四君」と呼ばれた理由として、「数千人以上の食客を養っていたこと」「一国に匹敵するほどの政治的・社会的な影響力を持っていたこと」が挙げられます。

食客とは?

「食客」とは、主人の家に客として養われる人のことです。中国・戦国時代に広まった風習であり、主に「食客」は養ってもらう代わりに主人の手助けをします。

そして、「戦国四君」を評価する上で、おさえておきたいがその数です。四君はさまざまな才能・技術を持った者を「食客」として養っており、その数は数千人にも及んでいます。よほどの権力や財力を持っていなければ、数千人もの「食客」を養うことは不可能なので、四君がどれほどの有力者だったのか分かるでしょう。

孟嘗君とは?

孟嘗君

孟嘗君(〜紀元前279年)とは、中国・戦国時代の斉の公子であり、政治家。孟嘗君という名は死後に呼ばれた名であり、姓名は田文(でんぶん)です。

孟嘗君の壮絶な生い立ち

孟嘗君の父・田嬰(でんえい)は斉の王族でしたが、母は正妻ではありませんでした。しかも、その当時「5月5日生まれの子は成長して父母に害を及ぼす」という迷信があったため、田嬰はその日に生まれた孟嘗君を殺すように命じました。

しかし、母は周囲にばれないようひそかに孟嘗君を育てます。そして、成長した孟嘗君と田嬰が面会した日、「なぜ殺さなかったのか」と田嬰に責められた母を孟嘗君はかばい、逆に「命は迷信によるものではなく、天から授かったものなのです」と言い返します。

その後、そんな田嬰に自分を認めさせた孟嘗君は、家事や食客の応接までも任せられるようになります。すると、孟嘗君の評判の良さを聞きつけた食客が日ごとに増え、最終的には皆が孟嘗君を跡継ぎに薦めるほどになりました。そして、田嬰は孟嘗君を跡継ぎに決めたのでした。

孟嘗君は苛烈さと親しみを備えたリーダー

孟嘗君が食客に慕われている話を2つご紹介します。

鶏の鳴きまねをして門を早く開けさせた

鶏の鳴き真似が得意な食客が、秦に捕らえられた孟嘗君を助けて脱出できたことから、「つまらないような特技を持つ者でも何かの役に立つ」という意味で知られる故事成語、「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」ができました。またこの話によって、孟嘗君がどんなにつまらない特技を持った食客でも養っており、来るもの拒まずだったことが分かります。

また、趙を訪れた孟嘗君を見に来た人々が「背丈の小さい貧相な男だ」と笑って孟嘗君を怒らせ、それを見た食客たちが、その場で数百人を斬り殺したという話があります。有力者の孟嘗君が小柄だったことを伝えるための話であると同時に、孟嘗君が食客に慕われている話でもあると言えるのではないでしょうか?

孟嘗君が突破した函谷関 ※wikipediaより

司馬遷によると、孟嘗君の食客の中には罪人などの乱暴者も多くいましたが、孟嘗君は身分によって態度を変えることはせず、どんな食客でも自分と同じように扱ったといいます。

幼少期から隠されるように育ち、実の父からも疎まれる存在だった孟嘗君は、母の愛だけを一身に受けて育ちました。正妻ではなかったものの、すぐれた人柄である母の背中を見て育った孟嘗君だからこそ、食客にも慕われるようなリーダーになることができたのでしょう。

信陵君とは?

信陵君

信陵君(〜紀元前244年)とは、中国・戦国時代の魏の公子であり、政治家・軍人。昭王の末子で、王位を継いだ安釐王(あんきおう)の異母弟でもあり、姓名は魏無忌(ぎむき)です。

恵まれた環境で育った信陵君

昭王の末子として生まれた信陵君は、安釐王と異母弟でしたが、お互いに仲良く遊ぶ仲でした。そして、周囲からもたくさんの愛情をもらいながら育った信陵君は、一流の教育も受けて何不自由ない暮らしを送ります。

しかし、安釐王が即位した頃、魏の首都・大梁を秦に包囲されます。安釐王が領地を渡したことで危機は免れますが、いつ秦が攻め込んでくるか分からない状況に怯えることになります。

そこで、信陵君は優秀な人材を各国から集めて食客として養うことを決意します。信陵君は自分が王族であることを棚に上げることはせず、謙虚な姿勢で誰に対しても礼を尽くして接しました。すると、その信陵君の人柄を聞いた才能のある多くの者が、信陵君のもとに集まるようになったのです。

信陵君は賢明さと度胸を備えたリーダー

後に天下を取った劉邦

司馬遷は「卑賤の者にも謙り、賢明でありながら愚かな者に頭を下げることを実行できたのは信陵君だけであった」と高く評価していることから、まさに信陵君は賢明なリーダーだと言えるでしょう。また、漢王朝を開いた劉邦が、信陵君のことを尊敬していたことも史記に記されており、信陵君の人柄が素晴らしかったことが分かります。

信陵君の有名な話として、隠れた賢者であった侯嬴(こうえい)という貧しい老人を食客に迎え入れようとする話があります。侯嬴は信陵君が訪ねてきたにも関わらず、食客になることを拒みますが、信陵君はそれでも諦めませんでした。本人が交際を望まなくても、自分が見込んだ人物であれば、真摯に求めるのが信陵君だったのです。結果的に、信陵君の謙虚で温厚な姿勢に心打たれた侯嬴は、70歳にして信陵君の食客になりました。

滅亡寸前の趙を救うべく信陵君は独断で出陣し、秦軍を撃退した

さらに、信陵君は軍人として武功もあげています。1つ目は、邯鄲の戦いにて援軍として駆けつけた時。2つ目は、合従軍を率いて蒙驁(もうごう)率いる秦軍を破って函谷関まで攻めた時。このような功績をあげたことからも、信陵君はリーダーとしての素質を十分に持ち合わせていたと考えられます。

その後の信陵君

信陵君死後、18年後に魏は秦に滅ぼされる

函谷関まで攻めたことにより、信陵君を恐れた秦は間者を用いて「信陵君が王位を狙っている」という嘘の噂を流し、それを耳にした安釐王は信頼していた信陵君をしだいに避けるようになります。安釐王の対応にショックを受けた信陵君は、病気と称し引きこもって酒を飲むようになり、過度の飲酒が原因で紀元前244年にこの世を去ります。

賢明で温厚な性格の信陵君だからこそ、皆がついてきて功績をあげることができたと言えますが、その繊細な性格ゆえに些細なきっかけで落ちぶれてしまったのではないでしょうか?

おわりに

今回は戦国四君の内のふたりである孟嘗君と信陵君のリーダーの素質について執筆しました。個人的に二人に共通する部分は、相手の身分に関わらず能力のある者たちには謙虚な姿勢で礼を持って接したところではないでしょうか?

実際、この二人は漢王朝の高祖である劉邦から大いに尊敬されており、劉邦が張良、韓信と言った名臣たちを使いこなせたのは彼らに倣った部分が大きいと思います。次回は残りの二人について紹介していこうと思いますので、ぜひご覧くださいね。

タイトルとURLをコピーしました