戦国四君から学ぶリーダー像 【春申君・平原君編】

戦国四君から学ぶリーダー像 【春申君・平原君編】春秋戦国時代

前回は「孟嘗君・信陵君編」にて、斉の孟嘗君(もうしょうくん)と魏の信陵君(しんりょうくん)をご紹介しました。今回は、「春申君(しゅんしんくん)」と「平原君(へいげんくん)」のリーダー像についてご紹介します。智謀の士でありながらも、あえない最後を遂げた春申君と優秀な家臣の諫言を受けて過ちを受け入れた平原君。 二人のリーダーのその後を分けた部分は何だったのでしょうか?まだ読んでいない方は、ぜひ「孟嘗君・信陵君編」もあわせてお読みください。

春申君とは?

春申君

春申君(〜紀元前238年)とは、中国・春秋戦国時代の楚の政治家。姓名は黄歇(こうえつ)です。

唯一の王族以外の戦国四君

数千人以上の食客を養っており、一国に匹敵するほどの政治的・社会的な影響力を持っていた戦国四君ですが、春申君以外はみな王族関係の出身です。つまり、春申君は有力な後ろ盾がなく、自らの実力だけで出世しています。王族と肩を並べるくらいの実力を身につけていた春申君は、どのようにして戦国四君と呼ばれるまでに成長したのでしょうか?

雄弁を評価された春申君

白起 ※wikipediaより

各地を巡っては勉学に励み、博識が高いことで知られていた遊説の士である春申君は、楚の頃襄王(けいじょうおう)に雄弁と評価され、楚に迎え入れられます。

春申君が楚に仕え間もない頃、楚は秦の猛将・白起により国都を落とされており、止めを刺すべく韓・魏とともに楚を攻めようと計画を企てます。この事態に対し、頃襄王は春申君を使者として秦に派遣します。

そして、春申君は「天下には秦と楚以上の強国はありません。今、楚を滅ぼそうとすれば、ともに傷つくことになり、結果として韓と魏を強くするということを大王は忘れております。私は大王のためを思って、楚を滅ぼすことには賛成できません」と秦の昭王(しょうおう)に書簡を送ります。

すると、雄弁さが際立つ春申君の文書を読んだ昭王は楚に攻めることをやめただけでなく、条件付きで楚の同盟国になることを約束しました。

この出来事がきっかけで春申君は出世の道を歩むのですが、さらなる試練が待ち受けているのです。

春申君は判断力と勇気を備えたリーダー

秦と和平を結ぶ条件として、楚は頃襄王の子である太子完(たいしかん)と春申君を人質として秦に送りこみます。

二人は人質として暮らすこと数年。頃襄王が病気になり、この先長くないことを知った太子完と春申君は楚に帰ろうとしますが、昭王は許してくれません。そこで、春申君は農民の格好に装った太子完をひそかに秦から逃したのです。

そして、春申君は秦に残り、太子完が遠くに行った頃を見計らって「私は太子を楚に帰国させました。太子を逃した私にどうか死罪の判決を」と昭王に伝えました。

それを聞いた昭王は激怒しましたが、秦の宰相・范雎(はんしょ)が「黄歇は自らの身を投げ出し、君主のために尽くしました。即位した太子は、必ず黄歇を重役に登用します。このまま楚に帰らせれば、秦に良い影響をもたらすでしょう」と進言。これを聞いた昭王は思い留まり、春申君を楚に送り返したのです。

楚の宰相へ

春申君が帰国してまもなく、太子完が孝烈王(こうれつおう)として即位し、春申君も宰相として取り立てられます。自らの命を投げ出してでも太子完を逃そうとした判断力とそれを実行できる勇気は、まさにリーダーになる器を持ち合わせていたと言っても過言ではありません。

性悪説を唱えた荀子

その結果、王族ではなくても戦国四君のひとりとして君臨し、多くの食客を抱えます。その中には性悪説で知られる荀子(じゅんし)もいたと言われています。また、珠玉で飾られた靴を上客に履かせていたことから、食客に対して手厚い待遇をしていたことが分かります。

春申君老いたり

春申君像

楚の宰相となった春申君は長平の戦いで大敗し、滅亡の危機に立たされていた趙を救うべく、平原君の要請を受けて、魏の信陵君と共に援軍として駆け付け秦軍を撃退します。

統率者としても優れていた春申君でしたが、次第に春申君に暗雲が忍び寄ります。

ある日、趙の李園(りえん)という者が食客として春申君の下を訪れます。この李園には美しい妹がおり、李園は妹を孝烈王の側室とするべく春申君に近づいたのです。

あろうことか春申君はこの妹を自らの側室として迎え入れ、子どもを身ごもらせてしまいます。さらに、李園と妹の口車に乗り、自らの子を孝烈王の太子にしようと画策します。

李園の妹は孝烈王の側室となり、それに伴い李園も重役に取り立てられます。しかし、真実を知る春申君の存在が次第に邪魔となり、刺客を集めて春申君暗殺を計画します。それを察知した春申君の食客・朱英(しゅえい)は用心するよう諫めますが、有頂天になっていた春申君は話を聞きません。

最後の四君のあまりにもあっけない最後

そして、孝烈王がこの世を去ると、李園の刺客たちの襲撃を受けた春申君は殺害されてしまい、一族もろとも滅ぼされてしまったのです。一国を救った英雄としては、あまりにあっけない最後を遂げてしまいました。

そんな春申君に対し、司馬遷は『史記 春申君列伝』に「李園に殺されたのは、春申君が老いぼれてしまったからだろう。決断すべき時に決断しないと、逆に禍を受ける」と老いによって判断力が鈍ってしまったと評しています。

平原君とは?

平原君

平原君(〜紀元前251年)とは、中国・戦国時代の趙の公子。武霊王(ぶれいおう)の子で、王位を継いだ兄の恵文王(けいぶんおう)がおり、姓名は趙勝(ちょうかつ)です。

濁世の貴公子 平原君

平原君は趙の公子の中で最も賢く、食客が訪れることをたいそう喜んだので、他の四君と同じく食客は数千人にものぼったと言われています。また、兄の恵文王と甥である孝成王の宰相に任命されていますが、3回も辞職しています。つまり、辞職するたびに再度復職しているので、3回も宰相になったのです。

『史記 平原君虞卿列伝』の司馬遷によると、「濁世には得がたい佳公子(けがれた世の中には貴重な品格の高い公子)」と平原君を評しています。もしかすると、戦乱の世には珍しいほど品格を重んじる人物だったのかもしれませんね。

長平の戦いと平原君

赤く染まっている部分が上党郡

紀元前262年、秦に攻められた韓は領土の一部を奪われ、上党郡という韓の地域が飛び地になって孤立してしまいました。秦に上党郡を渡したくない韓は、上党郡の一部を趙に受け渡す代わりに助けを求めたのです。

このとき、当時の趙王であった孝成王(こうせいおう)は、実力者の平原君と弟の平陽君(へいようくん)に意見を聞きました。平陽君は「秦と争うことは明白であり、献上を断るべきです」と進言しましたが、平原君は「領地が得られるのになぜ断るのか。早く献上を受け入れなさい」と意見しました。

秦の圧政を恐れた上党郡の民衆たちの声もあり、孝成王は平原君の意見を取り入れたのですが、献上を受け入れたがために秦との戦争が始まり、それが40万人もの趙人の犠牲を出した「長平の戦い」を引き起こします。

長平の大敗北

滅亡の淵に立たされる趙国

紀元前260年。趙の行動に激怒した秦の昭王は王齕を将軍とした遠征軍を趙に差し向け、上党を占領。上党郡の民衆と兵たちは雪崩を打って趙へ逃げ込みます。

趙は老齢ながら名将である廉頗を総大将に任命し、長平城の塁壁を補強、物資を運び込み防衛体制を整えさせて持久戦に持ち込みます。これに対し、秦は謀略を用いて廉頗を総大将から外し、趙括を総大将に任命するように仕向けます。

この策略により、実戦経験の乏しい趙括が総大将となり決戦を挑みますが、秦の白起将軍の前に大敗北を喫してしまい、40万の趙兵が生き埋めにされてしまいます。

名臣と平原君

毛遂の弁舌は考烈王の心を動かした

秦軍は更に趙の首都の邯鄲を包囲。国家存亡の危機に平原君は楚へ援軍を求めに行きます。この時、食客の一人の毛遂(もうすい)という者が同行を求めます。この時「嚢中の錐」というやりとりを経て、毛遂の言を受け入れた平原君は共に楚へと出立します。

楚に着いた平原君らは援軍を請いますが、秦を恐れた楚の考烈王は援軍を躊躇します。しかし、毛遂の見事な説得により、援軍の派遣が決定。平原君は毛遂を重要するようになります。

邯鄲に戻った平原君でしたが、気が緩んでしまったのか籠城中にも関わらず贅沢な暮らしをしていました。すると、李同(りどう)という兵卒から一喝され、己の過ちを認めさせられます。その後、非を認めた平原君は家財を全て軍費へと替え、家の女中たちも総動員し戦いに臨みます。

平原君は自らの過ちを認められる素直なリーダー

長い戦いの末、遂に楚の春申君、魏の信陵君率いる軍勢が到着し、趙は秦軍を撃退します。この時、平原君は戦死した李同に代わり父親を貴族とし取り立てています。

毛遂や李同ら身分の低い者達であっても、自分に非があればこれを素直に認める素直さと柔軟さを平原君には備わっていました。平原君には他にもこのようなエピソードがあります。

平原君は公孫竜の進言に従い加増を断っている

「邯鄲の戦い」で趙を助けた信陵君は無断で出撃していた為、魏に帰れずに趙に留まっていました。そして、優秀な人材だと噂になっていた博徒の毛公と味噌屋の薛公の下を訪れ歓談していると、それを知った平原君が「信陵君は卑しい身分の者を相手にするのか」と馬鹿にしたのです。

それを聞いた信陵君は「平原君は名分ばかり気にして、本当に優秀な人材を求めていない」と怒り、平原君は慌てて信陵君を追いかけて謝罪しています。

また、平原君の妾が不自由な足取りで歩いていた平原君の食客をあざ笑い、激怒した食客は「どうかあの女を殺して、その首をください」と平原君に頼み、その願いを受け入れます。しかし、平原君は表面上で約束しただけであって、妾を殺すことなど考えてもいませんでした。

すると、「女を愛して士を賤しく扱うような人物だ」と食客が次々と平原君から去っていき、事情を知った平原君はすぐさま妾の首を切ります。そして、自ら門まで行って食客にその首を渡して謝罪をすると、平原君のもとにまた食客が集まるようになったのです。

平原君の墓

このような話を聞くと平原君が愚か者のようにも感じますが、逆に考えると平原君は自らの気持ちに素直でありながら、自らの過ちを認めて謝罪できる心の広さも持ち合わせています。平原君のように、自らの過ちを素直に謝罪できるリーダーはどれほどいるでしょう。

その素直さに惹かれた人こそが、平原君の食客として仕えたのではないでしょうか?平原君は他の四君にはない、実に人間味のある人物だと言えますね。

おわりに

四君亡き後、天下は秦の下に急速に束ねられる

今回は戦国四君春申君と平原君のリーダー像について執筆しました。前回の孟嘗君と信陵君も併せて、この4人の共通点は、様々な食客を招き入れて自らの糧としたところではないでしょうか?

あと、春申君の最後に関してなのですが、始皇帝の実父であると言われている呂不韋の最後と関連性が見られるため史実でないとの説もあり、その死に関しては謎が残ります。

平原君は他の3人と比べると頼りない部分が見られるのですが、個人的に素直で他人の意見を受け入れる部分や、周りに賢者が集まるところは後の天下人である劉邦と共通していると思いました。

最後に今回の四君を通して感じたことは、人は皆、必ずどこかで役に立つからこそ、その本質を見極めるリーダーが重要であるというメッセージが『史記』の中に隠されていると筆者は感じました。

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