トーベ・ヤンソン ムーミンを作ったフィンランドの女性作家

トーベ・ヤンソン ムーミンを作ったフィンランドの女性作家サブカルチャー

本名はトーベ・マリカ・ヤンソン(英語名:Tove Marika Jansson 1914年8月9日 – 2001年6月27日)フィンランドのヘルシンキに生まれたスウェーデン語系フィンランド人の画家、小説家、ファンタジー作家、児童文学作家である。人気キャラクター「ムーミン」を作ったことで知られている。

トーベ・ヤンソンは人気キャラクター「ムーミン」を作った小説家です。日本においてはTV アニメで親しまれていますが、始まりは小説となります。また日本で製作されたテレビシリーズ3作目の「たのしいムーミン一家」が好評となり、そこから世界60か国に放送され人気を博したという経緯があります。小説のほかムーミンの絵本やコミックも手掛けたトーベ・ヤンソンですが、2001年86歳で亡くなるまでムーミンのさまざまな活動に精力的に携わっています。今回はムーミンを作ったフィンランドの女性小説家トーベ・ヤンソンの生涯についてです。

芸術一家の長女として誕生

幼少期のトーベ

トーベ・マリカ・ヤンソンは、彫刻家の父ヴィクトル・ヤンソンと画家・商業デザイナーの母シグネ・ヤンソンの間に1914年8月9日誕生しました。弟2人(ペル・ウーロフ・ヤンソン、ラルス・ヤンソン)をもった長女として芸術一家の中育ちます。父の彫刻作品はフィンランドの街中でも見受けられますが収入は安定せず、家計を支えたのは母・シグネでした。2人の姿はしっかりもののムーミンママ、自由を愛するムーミンパパに反映されているかのようです。

15歳の若さで雑誌の挿絵画家としてプロデビューする

「ガルム」1944年10月号表紙

幼いころから絵を描くことを愛し、詩や物語を作ったトーベ・ヤンソンですが、14歳の時に自作の絵と詩が雑誌へ掲載されます。その後15歳の若さで政治風刺雑誌「ガルム」の挿絵画家として収入を得て、商業デザインや美術を学ぶようになります。20代にはフランス・イタリアへと渡り絵画技術の習得に勤しみました。フィンランドに帰国後は個展を定期的に開きつつ、ヘルシンキ市庁舎など数多くの壁画を手掛け、画家としての地位を築きました。

ムーミン誕生のきっかけと第二次世界大戦

トロール族のイメージ図

トーベが10代の頃、工芸専門学校でデザインを学んだとき叔父の寄宿先で世話になります。ある日夜中に台所でこっそりつまみ食いをした彼女に対し叔父は「トロール」の話をして注意をしました。親元を離れ不安を抱えていたトーベはその生き物がとても記憶に残ったと後に記しています。その話に加え、弟のペル・ウーロフとのケンカの腹いせに描いた鼻の長い醜い生き物が、ムーミンの原型となったようです。その後、第二次世界大戦が始まり、フィンランドも戦火に見舞われます。戦争に強く反対するトーベは独裁者へ向けた痛烈な風刺画を多く寄稿していますが、絵のサインに醜い生き物がよく登場しています。このトーベ・ヤンソンの分身としていつもそばにいた、怒ったような困ったような顔をした醜い生き物は後に「ムーミントロール」と名づけられ、物語の主人公となりました。戦争終結後、友人や出版社の後押しもあり、1945年1作目の「小さなトロールと大きな洪水」が生まれます。

母国から世界へはばたいた「たのしいムーミン一家」

「小さなトロールと大きな洪水」

「小さなトロールと大きな洪水」は48ページの子冊子でひっそりと売られたため、商業的に決して成功と呼べるものではありませんでした。しかし3作目の「たのしいムーミン一家」は母国フィンランドやスウェーデンで大きな話題となります。さまざまな偶然も重なりイギリスでも出版したところ、目の肥えた読書人の心を強く掴み、北欧の奇妙な生き物たちの物語はたちまちヨーロッパ中で大ヒットしました。ムーミンを作った小説家としてトーベ・ヤンソンは国際的に不動の名声を手に入れました。しかし、このムーミンブームにより、トーベ・ヤンソンは締め切りのプレッシャーや終わりのない打ち合わせ、契約書の数々に疲弊していきます。

トーベを支えたトゥーリッキ

精神的に疲弊していたその時期に出会ったのが、トーベが亡くなるまで人生をともにしたグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラでした。芸術家でもあった同性パートナーの支えと助言によりトーベは「ムーミン谷の冬」を完成させます。6作目となる本作は、児童文学にとどまらず美術・哲学・言論・精神医学の分野において高い評価を得て、多くの賞を受賞しました。

シリーズ完結と母の死

グルーブハルにて母シグネと

連載漫画の仕事を抱えていたトーベでしたが、1959年に末弟のラルスに仕事を任せ、フィンランド南岸の沖合にある孤島グルーブハルに小屋をたててトゥーリッキと芸術に没頭するようになります。小説の執筆はなおも続け「ムーミン谷の仲間たち」「ムーミンパパ海へいく」を書き上げました。1966年には児童文学における最高の栄誉である国際アンデルセン賞を受賞し、作品の評価はまさに留まるところ知りませんでした。そして、第9作目で最後となる「ムーミン谷の十一月」は大きな悲しみのなか作られ、本作品でムーミンシリーズの小説完結が宣言されることになります。

ムーミン谷の十一月

それは「ムーミン谷の十一月」執筆中のことでした。なんとトーベ・ヤンソンの支えとなっていた、母シグネが急遽亡くなってしまったのです。このショックは大きく、トーベはしばらく母の名前を口にできなくなったと言われています。母シグネは挿絵や切手のデザインを手掛けるアーティストでした。母の影響もあり幼少のころより芸術を愛し、ムーミンを作った小説家が誕生したといっても過言ではありません。実際、ムーミン作品ではムーミンママを慕うホムサ・トムトというキャラクターに、シグネとトーベの関係性が見て取れます。他にも父親がムーミンパパ、パートナーのトゥーリッキがトゥーティッキとして物語に登場しています。

その後のトーベ

1967年トーベ・ヤンソン写真

小説シリーズの完結後もムーミンに関する創作にトーベ・ヤンソンは関わり続けます。同時に一般小説の執筆も始め、「ムーミン谷の仲間たち」「ムーミン谷の冬」に続く3度目のフィンランド国民文学賞を受賞しました。1971年と1990年にはアニメーション放映の関係で2度来日し、監修に参加しています。1998年に最後の小説である「伝言」を発表し、2001年6月27日に老衰で86年の生涯に幕を下ろしました。ムーミンを作った小説家トーベ・ヤンソンは、画家や作家、漫画家、作詞家、舞台美術家、商業デザイナー、映像作家の仕事を掛け持ちしていました。また、他の人がなし得ない幅と量の作品を世に生み出しました。仕事へ邁進するとともに愛する人々の存在も忘れることなく、その関係性や自身の経験が作品に大きく影響を与えています。

おわりに

ムーミン谷のキャラクターたち ※英語版wikipediaより

ムーミンが誕生してからすでに76年が経ちましたが、日本では今もなお人気を誇っています。ちなみに日本のムーミンの認知度は98%と言われており、母国フィンランドの97%を上回っているというので驚きです。また現在、埼玉県飯野市には「ムーミン・バレーパーク」と「トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園」というトーベの世界観を再現した施設があります。とくに後者の方は”たくさんの子どもたちがお互いを受け入れながら、のびのび遊べる場所”を作りたいという飯野市が直接トーベ本人に手紙を送り、7年のやりとりを経て建設された経緯があります。気になった方は是非足を運んでみてくださいね。

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