三国志人物伝 第九回 張紘

三国志人物伝 第九回 張紘三国志

張紘(ちょう こう、153年-212年)は、中国後漢末期の政治家、学者。
字は子綱(しこう) 呉の孫策、孫権に仕えた。

張昭と共に「呉の二張」といわれた張紘ですが、どちらかというと孫権とのエピソードが豊富な張昭の陰に隠れがちな彼ですが、初期の孫呉政権設立に大きく貢献しています。また孫策は彼を臣下に加えるべく、彼の下に直々に赴いているのを見ると張紘が大変な人物であることが分かります。
今回は孫一家から信頼され、補弼の任を全うした張紘の一生を覗いてみようと思います。

三公より招聘を受ける

趙昱

張紘は徐州広陵郡射陽県の生まれで、若き頃は洛陽に遊学し、博士の韓宗の下で「京氏易」と「欧陽尚書」を修め、さらに陳留郡に移り、濮陽関から「韓詩」、「礼記」、「春秋左氏伝」などを学びます。学問を修めた後、故郷に戻った張紘は広陵太守の趙昱により茂才に推挙されました。
また、張紘は趙昱を慕っていたのか、彼が後に笮融に殺害されると、激しく怒り悲しんだと言います。張紘の名声は後漢朝廷内にも届いており、大将軍何進、大尉の朱儁及び司空の荀爽と三公と呼ばれる大物達から招き寄せられますが、張紘は病気を称して出仕しませんでした。
その後、中原の戦乱を避けて江東の地へと避難しました。

孫策に仕える

孫呉の重鎮張昭

後漢の興平元年(194年)袁術から旧孫堅軍を返還してもらった孫策は江東の地に基盤を作るべく広く智謀の士を求めます。張紘のことは孫策の耳にも届いており、ある日孫策は張紘の家を訪ねます。この時、張紘の母親が亡くなっていたので彼は喪に服していましたが、若き孫策はそれを承知で家を訪ね、仕えてくれるよう必死に説得します。志在る熱き若者に心打たれた張紘は彼に仕えること決意します。この時張紘43歳、初めての士官でした。
さっそく孫策は朝廷に上奏し、張紘を正議校尉に任命します。また張紘と同郷の秦松・陳端らも孫策に臣属し、孫策は張昭、張紘、秦松、陳端ら四人を参謀としました。
それ以降孫策は出陣する際、張昭、張紘のどちらか一人を伴い、どちらかに留守を任せるようにしたといいます。また張紘は孫策が軽々しく陣頭に立って指揮する姿を見ると「総大将たる者が最前線に立つべきではない」と諌めたと言います。
この時、快進撃を続ける孫策に注目した呂布は、当時徐州を治めており、智謀の士である張紘を得るべく茂才に推挙したいと言い徐州に招き寄せようと画策します。しかし張紘は呂布を嫌っており、孫策が彼に代わって断りの手紙を書き、張紘を守ったと言います。

曹操との謁見と孫策の死

後の呉皇帝孫権

建安4年(199年)孫策は朝廷に上章文を奉る使者として虞翻を送ろうとした所、虞翻が固辞したため張紘が使者となります。許都に着くと、当時天子を奉戴していた曹操は張紘を気に入り、この時彼を侍御史に任命します。また張紘は孔融ら名士たちと親交を深めましたが、彼らと語る際は孫策の智謀の深さや勇猛さ或いは朝廷に対する忠義心などを強調することを忘れませんでした。
しかし翌年の建安5年(200年)、君主の孫策が暗殺されるという事件が起きます。
曹操はこれに乗じて呉へと攻め込もうと計画しますが張紘は、「他人の死に乗ずるのは古の決まりに反します。むしろこれを機会に恩義を施しておくべきです」と諫言に努め、曹操は彼の意見を受け入れ計画を断念します。逆に曹操は孫権に討虜将軍の地位と会稽太守の職を与え懐柔しようと考え、張紘を孫権への使者として派遣させます。
江東へと戻ってきた張紘は新しく孫呉の君主になった孫権の母から孫権を補佐するよう哀願されたので、張紘は変わらぬ信任に深く感謝し、孫権が時局の判断を誤らぬよう心血を注いで補佐することを約束します。このとき一部の者達が、張紘は曹操に恩義があるのでいつかまた曹操のところへ戻ってしまうのではないかと疑っていましたが、孫権はそんな疑問は一切持たず、亡き兄同様張紘を信頼し、なにか起こるたびに張紘に意見を求めました。また孫権は家臣をよく字で呼んでいましたが、張昭と張紘だけは「張公」「東部」との尊称で呼んでいます。

帝都建立を進言する

現在の南京市

建安13年(208年)、赤壁の戦いにて曹操が大敗すると孫権は大軍を率いて合肥に出陣、張紘は長史に任命され従軍します。すぐに落城できると読んだ孫権でしたが、劉馥によって整備された合肥城は堅固であり、また張喜、蒋済らの活躍もあったので思うように城攻めは上手くいきません。
業を煮やした孫権は自ら軽装騎兵を率いて前線に立とうとしたため、張紘はこれを諫めます。
戦いは長期化したため孫権は撤退しますが、翌年また合肥に出陣しようとします。
これを見た張紘は今は賢者を採用し国力の回復に努めるべき、と進言したので孫権は従いました。建安17年(211年)、張紘は孫権に本拠地を呉郡から秣陵へと遷都するように進言します。
秣陵は始皇帝の時代から王者の気がある土地として有名で、また秣陵は長江流域にあり物流、軍事的な地理的利点が大きい部分に張紘は注目したのです。孫権は遷都を行うと名を秣陵から建業へと改名し、呉郡に残った家族たちを迎えに行くよう張紘に命じました。しかし、その最中張紘は病気に罹り容体が急変したため、急死してしまいます。享年60歳。
その後、建業は孫家の国都として繁栄し、現在の南京市へと発展していきます。
孫権がここを都として以来、中華の副都として発展していくのを見ると、まさに張紘の進言は大当たりだったと言っても過言ではないでしょう。張紘の一生で華々しい活躍があったとは言い難いですが、孫家の礎を支えてきた名臣であり、孫権が帝王となるには欠かせない人物であったと思います。

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