三国志人物伝 第一回 張嶷

三国志人物伝 第一回 張嶷三国志

 

張嶷 (ちょう ぎょく、または ちょう ぎ ? – 254年)字は伯岐(はくき)は蜀漢に仕え、対魏戦線、及び対異民族において活躍した武将である。

小説「三国志演義」においては諸葛亮の南蛮制圧戦にて初登場するも、南蛮王孟獲の妻、祝融夫人に一騎打ちを挑み、同じ蜀将の馬忠と共に捕縛されるという情けない武将のイメージを持つが、歴史書「三国志」の記述から蜀漢を支えた名将だということが分かる。今回の記念すべき第一回はそんな彼の半生について迫っていきたいと思う。

若き日

成都武侯祠の張嶷像

巴郡南充県の人。寒門の出身だったという。しかし、少年時代から大望を強く持ち、若い頃から士気勇壮な人物として知られた。20歳の時に南充県の功曹となり、翌年の215年夏5月に劉璋を降した劉備が入蜀を果たすも、混乱冷めやらぬ状態で益州各地で山賊が発生していた。
そんな中張嶷のいる南充県が山賊に襲われる。県令は家族を捨てて逃亡する中、若き張嶷は少数の仲間達を率いて置き去りにされた県令の家族を護衛し、見事彼らを避難させることに成功している。これが評判となり君主の劉備から高く評価され、従事に任命される。それと同時に多くの同郷の名士から交際を求められるようになり、張嶷は彼らと親しく付き合うようになった。

北伐従軍と異民族との闘い

章武3年(223年)蜀漢皇帝の劉備が夷陵の戦いの大敗から失意のうちにこの世を去る。後事を託された丞相の諸葛亮は劉備没後に益州南部で反乱を起こした雍闓高定を討つべく建興3年(225年)に南征を行い、両者を討つと同時に益州南部四郡を平定した。
諸葛亮は乱を平定した後成都に帰還したが、その後も反乱は頻発したため、後に張嶷の上司となる馬忠、そして李恢が度々鎮圧に当たることになった。また翌年の226年頃に張嶷と親交のあった龔禄は南部四郡のうちの一つである越嶲郡太守だったが、李求承という者の反乱によって殺害されてしまう。
張嶷はこの事件を終始忘れなかったのか、数十年後の延煕3年(240年)に張嶷は太守不在となった越嶲郡太守に任命されると、殺害された龔禄の仇を討つべく懸賞金を出して李求承を捜索し、これを逮捕すると今までの悪行を追及し処断している。建興5年(227年)、諸葛亮は魏を討つべく北伐を決行する。張嶷は都尉として従軍する。ちょうどそのころ広漢郡綿竹県の山賊の首領・張慕らが反乱を起こし、軍資金を略奪し、官民を吸収した。
張嶷は都尉として兵を率いて張慕らを討とうとするが、神出鬼没のように動き出すため、張嶷を悩ませた。戦いによって捕縛することは難しいと判断した張嶷は一計を提案し、偽って和睦を結び、祝いの酒宴を開いた。宴もたけなわ、山賊たちの酔いが回ったところで張嶷はみずから側近を率いて、張慕ら五十人余りの首を斬り捨てる。驚いた山賊たちは散り散りになって逃げだすが、張嶷はこれを追撃し、残った残党たちをわずか十日間のうちに滅ぼした。その後、張嶷は牙門将軍という位に任命され、馬忠の副将として活動する。

張嶷と同じく異民族戦で活躍した馬忠

建興9年(231年)、諸葛亮は四度目の北伐を行い、祁山を包囲する。この戦いで魏の名将張郃を戦死させ、司馬懿を撃退するが、長雨と食糧不足のため撤退する。この時、汶山郡の羌族が反乱を起こすと馬忠の別働隊として鎮圧に向かう。張嶷は反乱を起こした羌族の酋長を説得し、抵抗を続ける部族を攻撃し、勝利を収めた。
建興11年(233年)、南夷の豪帥であった劉胄が反乱を起こした。張嶷は馬忠と共に反乱の鎮圧に向かう。張嶷は常に馬忠軍の先陣として戦い劉冑を撃破。また、同じく南中の地である牂牁郡興古県の獠族が叛乱したので、馬忠から諸部隊を預かって討伐し、降伏した者二千人を漢中に送った。
諸葛亮が死去した後も南中に滞在し、延煕3年(240年)、に越嶲郡太守に任命される。前述した通り越嶲郡はかつて親交のあった龔禄が統治し、反乱により殺害された場所であった。
張嶷が統治した際も、現地の部族による抵抗が行われたが、張嶷は恩愛と信義によって多くの蛮族を心服させ、従わない部族は計略を持って撃ち破り、郡の機能を回復させた。
また、張嶷が太守として赴任した際、城郭が破壊されていたので小さな砦を築き、ここを拠点とした。三年間砦にいたのち、元の城郭を再建することにしたが、そのころには多くの蛮族の男女たちが労働力を提供するほど友好的になっていた。その後も異民族の統治に力を注ぎ、関内侯という位を賜っている。
越嶲郡太守となり数十年が経ち、郡もすっかり安定していた。しかし未開の地の長き生活が彼の身体に負担をかけたのか、このころから病気がちになり、たびたび成都に帰還したいと上奏を重ねるようになる。皇帝劉禅は張嶷を不憫に思い、中央に帰還すること許可し、成都に戻るように伝えた。この際、張嶷を慕う多くの蛮族が彼が去るのを悲しみ、彼の乗る馬車にすがりつき泣いた。さらに、蜀郡属国の旄牛族の部落を通過した時に、各部族長たちは蜀郡の境目まで随行し、彼を見送っている。このとき彼に従って成都まで随行した蛮族の頭目は百余人に上ったという。成都に帰還した後、劉禅から盪寇将軍に任じられた。張嶷が南中の地を去った後、張嶷が生きている間、部族による反乱は全くというほど起こらなかったという。

最後の戦い

北伐に臨む姜維

延熙17年(254年)、魏の泰州の隴西郡狄道の県長の李簡が蜀漢に帰順したい旨の書簡を送ってきました。無論、蜀の重臣一同はこれを偽の投降だと疑います。しかし、張嶷はこの降伏を偽りではないと主張する。そこで皇帝劉禅は諸葛亮亡き後、蒋琬、費禕の後を受け軍権を握ぎっていた姜維に隴西郡狄道県に向かうこと命じ、姜維もこれを好機と捉え北伐を敢行する。
そのころの張嶷は重病で、杖がなければ歩行もままならない状態であったが、張嶷は「臣は老骨に鞭を打って、前線で戦って戦死するのは本望」と上奏して、従軍することになった。出陣前夜に張嶷は劉禅に謁見し、こう述べた。

「臣は陛下の恩寵を受けながら、病によっていつ死ぬかわからぬ身となってしまいました。急に世を去りでもして、ご厚恩に背きはしないかといつも恐れておりましたが、今日こうして願いが叶い、出陣する機会を得ました。仮に涼州を平定したならば、臣は外にあって逆賊を防ぐ守将となりましょう。しかしながら、もし不運にも勝利を得られなかったならば、わが命を捧げ国家のご恩に報いる所存であります」

皇帝劉禅はその言葉に感動し、彼のために涙を流したという。

そして254年夏6月、姜維は二度目の北伐を開始。蜀軍は予定通り李簡の治める隴西郡狄道を目指します。そして張嶷の予想した通り蜀軍が狄道に至ると、李簡は城門を開いて帰順します。
さらに姜維は狄道を押さえると勢いに乗り、そのまま東進して隴西郡治である襄武を包囲。
事態を重く見た魏軍は、雍州都督の郭淮と後任である陳泰に迎撃を命じます。二人は征蜀護軍の徐質に襄武の救援に向かわせます。また、襄武を包囲していた蜀軍はこれを迎撃します。

徐質 大斧を得意としたという

しかし、徐質の軍は襄武を包囲していた蜀軍を強襲、蜀軍は一時的に城の包囲を解き、引き下がらなければならなくなります。この時、重病の張嶷は殿を務め奮戦、そして倍以上の兵を率いる徐質に張嶷の部隊は突撃を繰り返します。そして乱戦のさなか、遂に張嶷は徐質の軍に討ち取られてしまいます。しかし、張嶷の部隊は味方の損害の倍以上の敵を殺傷しており、態勢を整えた蜀軍の猛反撃を受けて徐質は戦死する。この戦いの勝利により姜維率いる蜀軍は、狄道をはじめとした周辺3県を制圧することに成功しました。
この戦いの後、張嶷の訃報を聞いた劉禅はその死を悼みました。また、張嶷より恩顧を受けた南中越嶲郡の各諸民族たちは張嶷の死を悲しみ、張嶷の廟を建てて、四季ごとの豪雨と洪水の氾濫があるとこれを祈願したといいます。

おわりに

張嶷の石像

張嶷の死から9年後、蜀は魏に攻められ滅亡してしまう。
もし、彼が病でなく長寿であったのなら、この戦い以降も続く姜維の無茶な北伐も、もう少しマシな結果になっていたのではないかと思っている。(実際2年後の段谷の戦いで大敗している)
また張嶷は人を見る目にも優れており、様々な逸話が残されている。魏の降将、夏侯覇も進んで親交を結ぼうとしたあたり、彼の名声の高さを伺うことができる。
三国志演義では二流の武将であるが、歴史が記す真の姿は三国時代を代表する名将であることは間違いない。そんな彼の存在がもっと知られることを切に願わずにいられない。

タイトルとURLをコピーしました