三国志人物伝 第六回 留賛

三国志人物伝 第六回 留賛三国志

留賛(りゅう さん、183年 – 255年)は、中国後漢末期から三国時代の呉にかけての武将。
字は正明(せいめい)

戦闘中、味方の士気を上げるため軍楽隊が演奏することは歴史上ありますが、まさか指揮官自ら大声で歌を歌い、奇抜なダンスを踊って味方の士気を上げたとなるとこの留賛ぐらいしかいないのではないでしょうか。また性格は質実剛健ですが、癖の強いところをみると根っからの江南人なのが見て取れます。今回はそんな変わったところがありながらも、呉を支えた彼の人生を見ていきましょう。

自ら足の筋を断つ

揚州会稽郡長山県の出身。若き留賛は郡の役人として仕事に勤めていました。
そんなある日、黄巾族の残党が会稽郡に侵入し、略奪の限りを尽くします。これを捨て置けずと見た留賛は、自ら陣頭に立ち鎮圧に乗り出します。この戦いで留賛は黄巾賊残党の首領である呉桓を討ち取ります。しかし、留賛自身も足に負傷し、傷が癒えた後も足が曲がったままになってしまいます。それ以降、留賛は戦に出ることは叶わず、家に籠らざるを得なくなってしまいます。
もともと彼は兵法書や歴史書を読むことを好んでいたため、活躍する先人達の姿に気持ちが逸り、ある日家族を集めるとこう宣言します。

「私の足が曲がったままなのは、足の筋のせいだ。今から足の筋を切断して伸ばせるようにするから、伸ばした状態で皆で動かないように固定して欲しい。もしも、それで死んでしまってもその程度の男だったということだ。」

外科手術の技術も、ろくに確立されていない時代ですので、まさに自殺するようなものです。
留賛の家族たちは彼を引き留めますが、留賛は隙を見て自らの足の筋を剣で押し切ります。
あまりの激痛と大量出血のため留賛は気絶、彼の家族は必死になって彼の足をまっすぐに伸ばし、治療に当たったため一命はとりとめることに成功します。また、足もびっこを引きずりながらも歩けるようになります。

孫権に仕える

このことを聞きつけた呉の武将の凌統は彼を自身の邸宅に招き、話をしたところ彼を高く評価します。この後、淩統は留賛を登用するよう孫権に上奏し、孫権はこれを快諾します。これにより留賛は晴れて呉の一員となります。その後、留賛は各地でたびたび戦功を挙げ、屯騎校尉に任ぜられました。また剛直な留賛は議論の際は、いつも正論を説くので周りの人間に媚びへつらうような発言をすることはありませんでした。それは君主である孫権も例外でなく、孫権が間違っていると彼が思えば直言し憚らないため、孫権は頭を抱えたそうです。

東興の戦い‼呉将多いに天地に唄う‼

ここで留賛の独特な戦い方についてなのですが、留賛はまず戦場で敵と対峙すると、髪を振り乱しながら空に向かって叫び、そして声を張り上げながら歌います。さらに留賛に従う兵卒たちもこれに応じ、呆然とする敵を前に大合唱が始まります。そして、合唱が終わると一斉に敵に向かって突撃を繰り出します。この奇抜な戦闘スタイルで留賛は勝利をものにしており、彼は一度も敵に敗れることはありませんでした。そんな中、呉の建興元年(252年)、呉帝孫権がこの世を去ります。
これを見た魏の大将軍の司馬師は呉討伐を実行し、諸葛誕・胡遵らに呉への侵攻を命じます。
これに対し呉軍は、諸葛恪が全軍の総指揮を執り、丁奉、留賛、呂拠、朱異らを率いて迎撃に当たります。この時、戦場は雪が降るような寒い日でした。
魏の武将たちは宴会を開いて、敵は完全に油断をしきっていると見た丁奉は、兵士を鼓舞しつつ鎧を脱がせて冑に剣だけを持たせて奇襲をかけます。これに驚いた魏軍は大混乱に陥り、留賛、呂拠らの軍が一斉に攻めかかったため十万近くいた魏軍は壊滅、呉軍は大勝利を収めます。留賛はこの時の活躍により左将軍へと昇進し、呉軍の中でますます存在を増すようになります。

老将、死を悟る

不敗を誇る留賛でしたが、寄る年波には勝てず不敗伝説に陰りが見え始めます。
呉の五鳳2年(255年)、寿春の毌丘倹と文欽が6万の兵を率いて司馬師打倒の兵を挙げます。
これを見た丞相の孫峻は援軍として出陣、この機に乗じて魏を討とうとします。留賛は孫峻の指揮下、驃騎将軍の呂拠と共に出陣。留賛は孫峻から節と左護軍を授けられての出陣だったので、大いに期待されていることが分かります。しかし行軍の途中、留賛は病に倒れてしまいます。
この時、留賛73歳、この時代ではいつ倒れてもおかしくはない年齢です。
あまり良い噂を聞かない孫峻ですが、留賛を心配してか、はたまた行軍の支障になったか、どちらか分かりませんが、留賛に帰還するよう命じます。帰還の際に諸葛誕の配下蒋班に遭遇、追撃を受けます。病のため号令も発せられないため、部隊は陣立てすらままならない状態です。
このとき留賛は自分の死を悟り、近くの部下にこう伝えました。

「私は将軍となってからというもの、敵を撃ち破って旗を奪い、一度も敗れることはなかった。
しかしいま病が重く、兵士は少ないうえ貧弱だ、お前たちは早く逃げよ。一緒に死んでも無益で、敵を喜ばせるだけである」

そういうと留賛は部下の若者に将軍を示す曲蓋と印綬を与え、刀を抜いてと部下達を斬り付けようとしました。これを受けて、部下たちは泣きながら逃げ去っていきます。
そして、ついに不敗を誇った留賛は蒋班率いる兵によって討ち取られてしまいました。
留賛の死を聞いた人々は大いに悲しんだそうです。
呉の将として立派な最後を遂げた留賛、そんな彼ですが中国六朝時代の科学者、陶弘景が記した
『真霊位業図』という書物の中で留賛は「主南門鑰司馬」として神格化されています。
やはりその独自の戦闘スタイルが独特だったからでしょうか。どんな奇抜であったとしても、彼が呉を支えた名将だということは事実でしょうね。

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