三国志人物伝 第三回 陳登

三国志人物伝 第三回 陳登三国志

陳登 (ちん とう、生没年不詳)

字は元龍(げんりゅう)は中国後漢末期の武将。

曹操と劉備の両者に仕え、二人の英雄から高い評価を得ていた陳登ですが、彼の生涯を見ていると、君主の為というよりも、生まれ故郷である徐州のために一生を尽くしたという感じがします。
そんな地元のために、後漢末の動乱を駆け抜けた男の人生はいかなるものだったのでしょうか。

徐州に生まれて

陳珪

陳登は徐州下邳郡淮浦県の出身。生年については分かっていません。父親の陳珪は息子と共に親子二代で孝廉に推挙されており、徐州を代表する名家であることがわかります。
陳登は若き頃から世を扶け、民を済おうとする志があり、文学的才能に秀でていました。また、25歳の時に孝廉に推挙され、東陽県長に任命されます。県長に就くとその志の通り、民衆のためになる統治を行ない大きな名声を得ます。それを聞きつけた徐州牧の陶謙は陳登を評価し、典農校尉に推挙します。陳登はその土地に適した産物を調べ、堀を掘って灌漑を整備したので、稲が豊かに実り貯えられるようになったといいます。

徐州動乱す

三国志最強と名高い呂布

興平元年(194年)、徐州牧の陶謙は病で重篤に陥り、公孫瓚軍の援軍として徐州に滞在していた劉備に徐州を譲るよう遺言を残しこの世を去ります。劉備はこれを断りますが、劉備を英雄と見ていた陳登は積極的に徐州の主となるように勧めます。また、儒教の祖・孔子の子孫である孔融からも徐州の主となるよう説得されたため劉備は徐州の主となることを決めます。

※ちなみに後に魏の重臣となる陳羣はこのとき劉備に仕えており、劉備の徐州領有を反対しており、その後、劉備は陳羣の意見を聞かなかったことを後悔したといいます。

興平2年(195年)、呂布が劉備を頼り徐州にやって来ます。
呂布は曹操に敗れ根拠地にしていた定陶を追い出され、劉備を頼ってやって来たのです。
呂布は図々しくも劉備と義兄弟の盃を結びます。劉備もこの時は安心していたのか、翌年の建安元年(196年)、南の袁術を討つため本拠地の下邳城を義弟の張飛に任せて出陣します。
しかし、この隙を狙っていた呂布は袁術と手を結び、劉備が出陣している間に下邳城を占領してしまいます。劉備は呂布に降参して小沛に入城しますが、しばらくして呂布と争い、曹操の下へ逃げ込みます。こうして徐州は完全に呂布の支配下となってしまい、陳登もやむを得ずこれに従います。

呂布討つべし

曹操

陳登は呂布が徐州を治めるに相応しくない人物とみると、父親の陳珪と共に呂布を討つチャンスを待ちます。そのころ袁術が呂布との関係を強化すべく、呂布の娘を袁術の子の嫁に迎え入れたいと申し入れます。当初、呂布はこれに応じて娘を送り出そうとしますが、両者の関係強化を恐れた父陳珪は必死になって「袁術と同盟してはならない」と呂布を説得します。
必死の説得により呂布は縁談を取りさげ、袁術の婚姻の使者を曹操の下へ送り、使者を斬首させます。さらに陳登は呂布に「曹操こそが同盟を結ぶにふさわしい相手」と勧めます。
呂布は乗り気ではありませんでしたが、曹操が朝廷に働きかけ、呂布を左将軍に任命。
すっかり気分を良くした呂布は曹操と誼を結ぶことに賛成します。すかさず陳登は曹操への使者となることを申し出ると、これを呂布は受諾し、陳登は曹操への使者として派遣されます。
使者として赴いた陳登は、曹操に対し「早く呂布を滅ぼす方策を建てなければならない」と忠告します。これを聞いた曹操は陳珪・陳登父子に信頼を寄せるようになり、陳登を広陵太守に任命し、密かに徐州の安定を託します。
陳登が広陵太守に任命されたと聞いた呂布は彼を疑いますが、陳登は呂布にへりくだり疑念を晴らします。また、戦の際は父陳珪と共に積極的に献策し、呂布軍を大勝させます。
こうして呂布は次第に陳登たちを疑わなくなっていきました。
建安3年(198年)9月、呂布は小沛の劉備を攻撃、これを救援すべく曹操は自ら軍を率いて出陣し、逃げてきた劉備軍と合流すると呂布の本拠地である下邳城を包囲します。曹操軍が到着すると、陳登は待ってましたとばかりに曹操に帰順し、呂布討伐の先陣を務めます。
また下邳城には陳登の弟3人がいましたが、呂布に捕まり、弟たちは人質にされ陳登の動揺を誘いますが、陳登はこれを無視し、城の包囲をますます強めていきます。包囲のさなか、もともと人望のなかった呂布の下から裏切り者が続出します。
そして呂布軍の軍師である陳宮、そして将軍高順が裏切り者たちによって捕縛されると、呂布軍は一気に瓦解、天下を散々に引っかきまわした呂布でしたが、曹操軍によって捕らわれ、有名なエピソードの後、首をはねられます。
また、陳登の弟3人は、後難を恐れた裏切り者たちの手によって無事救出されています。

小覇王との戦い

江東の覇王孫策

呂布の誅殺後、陳登は伏波将軍に任命されます。
また、太守として広陵の統治に力を注いだため、地元民から敬愛の念を抱かれるようになります。その後、陳登は孫策が治める江南地方を併合したいと考えるようになります。
呂布が健在であったころから、陳登と孫策は敵対関係でした。
かつて陳登の叔父の陳瑀は揚州を巡って孫策と争い敗れたため、陳登はいつか一族の雪辱を果たしたいと願っていたのです。建安5年(200年)、曹操と袁紹が官渡で睨み合っている隙を突き、孫策は軍を西上させます。この動きを見た陳登は、かつて孫策に滅ぼされた揚州の太守たちの残党を煽動させ、孫策の領内各地で反乱を起こさせます。
孫策は反乱を鎮圧しますが、ただちに報復の軍を編成し、弟の孫権を派遣し徐州に攻め入ります。
陳登は城内に籠り、曹操に援軍を要請します。孫権の軍は陳登の軍の十倍以上の兵を率いており、果敢に攻め込みますが、陳登はこれに屈せず必死になって戦います。
しばらくして曹操の援軍が到着すると、孫権軍は形勢不利を悟り退却を始めます。
逃げる孫権軍を陳登率いる軍は追撃し、あらかじめ伏せて置いた伏兵が一斉に孫権軍に襲い掛かり、これを壊滅させます。この戦いの後、孫策が暗殺されたこともあり、孫家の軍は立て直しを余儀なくされ徐州方面に軍を出さなくなりました。

おわりに

一般的な刺身(イメージ図)

その後、陳登は東城太守に任命され、広陵の地を去ります。
彼を慕う広陵の民衆は彼に付いて行こうとしましたが、陳登は涙ながらに彼らを立ち戻らせたといいます。数年後、陳登は39歳という若さでこの世を去ります。死因についてですが、彼は魚の刺身が好物で頻繁に食していました。調理技術の未熟な時代ですので、生の魚にはびっしりと寄生虫やその卵が含まれていました。これでは病気にならない方がおかしく、陳登の胃の中に寄生虫が湧いてしまいます。
その後、名医華佗によって一旦は治療は成功しますが、華佗は3年後にこの病気が再発することを予言し、良い医者を側におくよう忠告します。それから3年後、華佗の言った通り病気が再発してしまいますが、そのとき既に華佗が不在であったため、結局陳登は病死してしまいました。
また陳登の死後、劉表の下に身を寄せていた劉備は、陳登を低く評価する許汜という名士に対して「元龍のような文武両道を兼ね、胆志を持った人物は、古代にこれを求められても、今の世に彼に匹敵する人物を見つけるのは難しい」と反論しています。
陳登はなかなかの策士であり、彼をして「驕にして自らほこる」、驕り昂って自惚れが強い、という世評があったので、家臣の陳矯に都で自分はどう評価されているか教えて欲しいと依頼した点を見ると結構神経質だったようです。彼は最終的に曹操に仕え、徐州、広陵の地で活躍しましたが、劉備に出会った際に「傑出した雄姿を持ち、王覇の才略を備えている」と評しています。
もし彼が麋竺や孫乾のように劉備と共に各地を転戦していたなら、また違った三国志の世界が見られたのかもしれません。

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