三国志人物伝 第二回 劉巴

三国志人物伝 第二回 劉巴三国志

劉巴 (りゅう は、? – 222年)
字は子初(ししょ)
後漢末期からの三国時代の政治家。

蜀漢に仕え、劉備諸葛亮から高く評価された劉巴だが、その持ち前の気位さから劉備に仕えるまで前途多難な生涯を送っている。最終的に尚書令という高位にまで昇進し、諸葛亮たちと共に蜀の政治の一端を担った彼の軌跡を辿っていこうと思う。

荊州の名士として

劉表

劉巴は荊州・零陵郡丞陽県に生まれた。父の劉祥はかつて江夏太守を務めていたが、当時、長沙太守であった孫堅董卓打倒の兵を挙げるとこれに呼応し、非協力的な態度を示す南陽郡太守の張咨を殺害するも、領民の反乱を招き、殺害されてしまいます。また、当時荊州を治めていた劉表は、遠縁筋の劉祥とその子の劉巴のことを快く思っておらず、南陽郡の反乱のどさくさに紛れて幼い劉巴も謀殺しようとしますが、生き残った劉祥の家臣が必死に弁護したため一命をとりとめます。
その後、劉表よりたびたび茂才(孝廉)に推挙されますが、劉巴はこれには応じませんでした。19歳になると零陵郡の戸曹史主記に任命されます。

荊州争乱と劉備からの逃亡

曹操

建安13年(208年)、劉表が病没すると、曹操は大軍を率いて侵攻を開始します。
曹操を恐れた劉表の家臣の多くは、当時劉表の客将であった劉備に従いますが、劉巴は真っ先に曹操に仕えます。おそらく劉巴は、劉表・劉備よりも曹操こそが自分が仕えるに相応しい人物だと思っていたようです。その後、曹操は劉巴を高く評価し、彼を掾(エン)に任命させ、不安定な状態であった荊州南部にある長沙郡・零陵郡・桂陽郡に帰順を呼びかけるよう命じます。
命を受けた劉巴は荊州南部に赴きます。しかし、まもなく曹操は劉備・孫権連合軍に赤壁の戦いで大敗し、荊州から撤退。劉巴は孤立してしまい、曹操のもとへ戻れなくなります。
さらに長沙郡・零陵郡・桂陽郡は劉備によって占領されてしまいます。劉巴は劉備の臣下になることを嫌い、遥か南にある交州へと向かいます。劉備はそれを阻止すべく、諸葛亮に命じて帰順させようとしますが劉巴は誘いを拒絶し、交州へと逃亡します。諸葛亮の報告を聞いた劉備は非常に残念がったといいます。

交州から益州へ

士燮

交州に入った劉巴は張と改姓して、交州太守の士燮に仕えます。
しかし、士燮は交州の治世を第一に考えるような人物で、劉巴のような天下の中枢で活躍できる才能の持ち主とは意見が合いませんでした。まもなく劉巴は交州を去り、劉璋が収める益州へと向かいました。劉璋は同じ劉性である劉巴を厚遇します。一説によれば、劉璋の父の劉焉は昔、劉巴の父の劉祥によって孝廉に推挙されたことがあったからと言われています。
また、劉璋は重大な事柄については、たびたび劉巴に意見を求めるほど信頼するようになります。

劉備に仕える

劉璋

建安16年(211年)、劉璋は漢中に割拠する五斗米道の張魯に対抗するべく、劉備を益州に招こうとします。しかし、劉巴は劉備の目的が蜀の乗っ取りだと見抜いていたため、必死に劉璋を諫めますが劉璋は聞きません。結局、劉備は易々と入蜀を果たし、葭萌関に駐屯します。
これを見た劉巴は黄権と共に「劉備に張魯を討伐させることは、野に虎を放つようなものです」と進言しますが、劉璋は完全に劉備を信用していました。その後、何を言っても無駄だと悟った劉巴は病気と称して館に引きこもり、誰とも面会を拒むようになってしまいます。
建安17年(212年)、遂に劉備は劉璋のいる成都に向け進軍を開始、2年間に及ぶ戦いの末、遂に劉備軍は劉璋のいる成都城を包囲します。
このとき劉備は劉巴が成都にいることを知ると軍中に命令を発し、

「もし劉巴を殺害する者があれば、わし自らが三族に及ぶまで死刑を処す!」と述べます。

夏5月、劉璋は劉備に降伏し、劉備は益州を手に入れます。
さすがの劉巴も遂に折れたのか、この時ばかりは門を開いて劉備の元を訪れ,以前の無礼を陳謝しました。劉備はこれを許し、諸葛亮のとりなしもあって劉巴は左将軍西曹掾に任じられます。

蜀の重臣へ

劉備

話は前後しますが、劉備が劉璋を攻撃する際、劉備は将兵たちに「事が成就したら、蔵の中の品物はすべて与える」と約束します。
そして成都が陥落すると将兵たちは府庫に殺到し、所蔵された財貨を持ち去ってしまいます。
そのため軍需品の不足をきたし、劉備は非常にこれを心配しました。
劉巴はこれに対し、「心配するに及びません。百銭に値する貨幣を鋳造し、諸物価を安定させ、官吏に命じてお上の管理する市を立てさせるだけですみます」と進言した。劉備がこれに従うと、なんと数ヶ月で府庫は充たされます。
後に劉備は劉巴の才を評して「子初の才能はずば抜けている。わしのような男なら彼を使いこなせるが、わしでなかったら彼に任せるのは難しいぞ」と言ったといいます。
そして劉巴は諸葛亮・法正李厳伊籍ら名だたる家臣たちと共に蜀の法律である『蜀科』の制定に携わります。また、蜀科にについては不明な点がありますが、内容は非常に厳しく、厳畯なものであったが、公正公平なものであり、民から怨嗟の声が上がることはなかったといいます。
建安24年(219年)、劉備は漢中にて曹操を打ち破り、漢中王となります。
この時劉巴は尚書に任命され、後に法正が亡くなると彼に代わって尚書令となります。

その後の劉巴

諸葛亮

建安26年(221年)、蜀の群臣は劉備を皇帝に推戴し、劉備は皇帝に即位します。
この時、劉巴は天の神と地の神への報告文や任命書を作成していますが、一説によれば劉巴は劉備の皇帝即位に反対したと言います。その年、劉備は呉に対して親征を行うものの、夷陵の戦いにて大敗北を喫してしまいます。心労から病になった劉備は成都に戻らず永安にとどまります。
このとき劉巴は永安に赴き劉備に謁見しています。
そして章武2年(222年), 劉備より先に劉巴は若くしてこの世を去ります。
彼の死後、魏の陳羣が諸葛亮に手紙を送って劉巴の消息をたずねますが、劉君子初と称して、諸葛亮は彼に対して非常に敬意を表しています。
また諸葛亮は「幕下において策謀をめぐらすことに関しては、私は、劉巴に遠く及ばない。撥と太鼓をもって陣営の門に立ち、百姓兵を喜び勇みたたせるぐらいであれば、あるいは私も人と議論はできるだろう」と彼の知略を高く買っていました。
彼は生涯質素な生活を送り、田畑を営んで財産を貯蓄しようとはしませんでした。
また同時に数奇な運命に弄ばれた結果として、劉備に仕えたのであり、劉備の猜疑心に触れないように慎ましやかに、寡黙に業務に取り組むだけで、公務が終わると他人と交わることもしませんでした。一方で士大夫としてのプライドは高く、劉備の宿将である張飛が劉巴の家を訪ねた際、彼は話もしようとしなかったとあるように、庶民出と士大夫の多くが混じり合った劉備軍は、彼にとってあまり居心地の良いところではなかったかのように思えます。
梟雄と評した男が己の主君となり、その主君が皇帝となり、無謀な親征にて身を滅ぼす…。
果たして劉巴はこの世を去る際、主君である劉備に、彼が仕えたいと思っていた英雄の素質を見い出すことはできたのでしょうか。

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