張仲景 三国志に登場しない伝説の医聖

張仲景 三国志に登場しない伝説の医聖三国志

張 機(ちょう き、150年? – 219年)は、中国後漢末期の官僚・医師。張璣とも。字は仲景。荊州南陽郡涅陽県の人。張仲景として知られ、その功績から医聖と称えられている。

三国志を代表する医師といえば「神医」と称された華佗が有名ですが、この張仲景は「医聖」と称され東洋医学の進歩に大きな寄与をした人物として知られています。また歴史書「三国志」には彼に関しての活躍の記述はありませんが、張仲景は自らの治療経験や病気の症状などを詳細に記録した「傷寒雑病論」という書物を書き残しています。一方の華佗はこのような書物を残してはおらず、張仲景の著書を読んだ華佗は大変驚いたという話もあります。今回は歴史の表舞台の裏で多くの患者を救い後の世に大きな功績を残した張仲景について調べていきたいと思います。

若くして医術を修める

扁鵲

後漢末期の頃、張仲景は荊州南陽郡涅陽県に誕生し、彼が10代になるころには既に地方に名前が広まるほどの聡明さを備えていました。また彼は春秋戦国時代の医者・扁鵲(へんじゃく)を幼い頃から尊敬しており、いつか扁鵲のように多くの患者を救いたいと思うようになります。
青年期に差し掛かると、張仲景は同郷の医師・張伯祖に師事し医術を学びます。彼は教えられたことはすぐに習得し、薬の用途なども瞬く間に覚えてしまったので、師である張伯祖は教えることが無くなってしまうほどでした。その後、人格的に優れていたこともあり孝廉に推挙されて役人として勤めることになります。

官を辞して医の道を進む

面相から症状を診る「望診」

役人となり宮仕えをしていた若き張仲景にこのようなエピソードがあります。
張仲景の近くを通りかかった年上の役人の顔色が優れていないのを見ると張仲景は「薬を服用して安静にするべきです。さもなくばあなたは40歳になるころにこの世を去ります」と進言しますが、役人は若造のハッタリだと思い相手にしませんでした。結果、この役人は張仲景の言った通り40歳でこの世を去ったと言います。張仲景は患者を見ただけで診断する「望診」に優れていたと言われており、既にこの頃からこの才能の片鱗を表していたことが分かります。

黄巾の乱

その後、184年に黄巾の乱が勃発し後漢の権威は失墜。時代は群雄割拠の時代へと移り変わります。この時の張仲景の動向については不明ですが、献帝が即位してからしばらく後に長沙太守に任命されたと言われています。これは筆者の推測ですが、おそらく張仲景は中原の戦乱を避けるため自ら長沙太守の任に就いたのではないかと考えています。

都「洛陽」の遥か南に位置する長沙

またこの時ヨーロッパやインドで疫病が発生し、中華も例外ではなくこの疫病によって多くの者が亡くなっていました。張仲景も200人近くいた一族が十年もたたないうちに三分の二がこの疫病によって亡くなるという有様でした。
この状況を憂いた張仲景は長沙太守の官を辞します。そして、疫病に苦しむ患者を救うべく己の医術をさらに極めることを決意するのです。

傷寒雑病論を著す

『傷寒論』と『金匱要略方論』

「傷寒雑病論」の「傷寒」とは肺炎・感冒・腸チフス・コレラ等の発熱をともなう伝染病(疫病)と言われており、張仲景は治療に関わった患者の症状に合わせて様々な治療を行いました。
また張仲景は治療には主に漢方薬を用いており、小青竜湯(しょうせいりゅうとう)、五苓散(ごれいさん)、葛根湯(かっこんとう)など現在も使用されている漢方を治療に一早く取り入れています。

建安24年(219年)の勢力図

その後、張仲景は「傷寒」に関する病態、症状、分類別に治療法や処方、治療の原則を記した「傷寒雑病論」を書き残します。しかし、張仲景が無くなってから僅か10年足らずで散逸してしまいます。張仲景が亡くなったのは建安24年(219年)頃と言われていますが、この時は三国による荊州争奪戦が繰り広げられていた背景もあり、これが「傷寒雑病論」散逸の原因であったのかもしれません。

王叔和

しかし、魏の太医令であった王叔和が散逸した資料を収集し新たに編纂し直します。
さらに唐代、宋代と時代を経て傷寒に関する部分を再編した『傷寒論』と、雑病部の『金匱要略方論』の2種類の書に分かれました。

医聖祠

後に、この書は中国漢方医学に大きな貢献を果たし、中国だけでなく日本、アジアの諸国にも伝わり後世に大きな影響を与えました。現在、「医聖」と呼ばれた彼の故郷である河南省南陽市には「医聖祠」という大きな祠が建てられており「漢長沙太守医聖張仲景墓」と刻まれた墓碑が残されています。

逸話

日本人にも馴染みのある中華料理の餃子ですが、一説によれば餃子を考案したのは張仲景であると言われています。張仲景が故郷の南陽群に戻った頃、毎年冬になると飢えと寒さに苦しむ民衆が世に溢れており、また寒さによって多くの民衆の耳が凍傷に冒されるという有様でした。
これを見た張仲景は診療所の前に大きな釜を設置し、肉・唐辛子・薬草を煮込み、出来上がった中身を取り出して細かく切ってから、小麦粉で出来た皮で包んで再びスープの中で煮るという薬膳料理を患者たちに振る舞います。この薬膳料理は「去寒嬌耳湯」と呼ばれ、この料理は食べると体が温まり血行が良くなるという特徴があり、この料理を食べ続けた患者の耳の凍傷は改善したという話があります。

中国では現在も水餃子が主流

また張仲景がこの料理を大晦日まで民衆に配り続けたことから、人々は新年の訪れと張仲景に感謝し、毎年この料理を大晦日や記念日に食するようになります。次第にこの料理は「嬌耳湯」の発音を真似て「餃子(ジャウ・ツ)」と呼ばれ中国全土へと普及していきました。

張仲景石碑

現在の中国でも毎年春節・大晦日に水餃子を食べる習慣が伝わっており、中国の餃子が一般的に水餃子なのはこの張仲景の功績からと言われています。

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