伊達秀宗【伊達政宗の跡を継げなかった初代宇和島藩主】

伊達秀宗【伊達政宗の跡を継げなかった初代宇和島藩主】戦国時代

「伊達」といったらほとんどの方が、「独眼竜・伊達政宗」のイメージをおもちではないでしょうか。今回ご紹介する伊達秀宗は、伊達政宗の庶長子としてこの世に生をうけ、伊達家の家督を継ぐ者として育てられました。しかし、庶長子の身分と、人質として暮らしていた豊臣家の影響を色濃く残すことが災いしてか、徳川の世になると家督相続者から外されてしまいます。時代の流れに大いに翻弄された、伊達秀宗の生涯をふりかえります。

出生

1591年(天正19年)9月、伊達政宗の長男として陸奥国・村田城で生まれた伊達秀宗。幼名は兵五郎といいます。母は政宗の側室・新造の方だったため庶長子(しょちょうし)の扱いとなります。秀宗が生まれた時点では、政宗と正室・愛姫(めごひめ)のあいだには男子がいなかったため、秀宗は「御曹司様」と呼ばれて育てられます。

伊達政宗

秀宗が生まれる1年前、1590年(天正18年)には豊臣秀吉による全国統一がなされ、戦国の世が終わりました。秀宗はそんな天下泰平の時代に生まれたのです。

人質としての少年時代

伊達家の家督相続者とみなされていた秀宗は当然のごとく、時の権力者のもとに人質として差し出されることになります。最初の行き先は豊臣家、その後、徳川家と時代の流れに振りまわされ、その後の彼の人生を想起させるかのようなものでした。

豊臣家での人質時代

1594年(文禄3年)、わずか3才で秀宗の人質生活が伏見城で始まりました。人質とはいっても秀吉からは、かわいがられていた様子がみてとれます。

豊臣秀頼

秀吉の猶子(ゆうし)となり、元服した際には、秀吉の一字を授かり「秀宗」と名乗るようになりました。さらに豊臣姓も授かり、秀吉の跡継ぎ・豊臣秀頼の小姓にも取り立てられるようになります。

この時の逸話として、秀宗が秀頼と組み討ち遊びをした時、年長の秀宗は秀頼を組み敷いたが、踏みつける際に咄嗟に懐紙を取り出し、直に踏まなかったので秀吉と淀殿は大いに感心したと言います。

関ヶ原合戦絵巻

秀吉の死から2年後の1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発すると父・政宗は徳川家康が指揮する東軍に味方します。すると秀宗は、西軍についた宇喜多秀家の屋敷で人質に取られてしまいます。その後、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、無事解放されますが、今度は徳川家康の下に預けられ江戸で人質生活が始まります。

ちなみに、関ヶ原の戦いが始まる数か月前に、父・政宗と愛姫とのあいだに弟・虎菊丸(のちの伊達忠宗)が生まれています。

徳川家での人質時代と揺れ動く立場

1602年(慶長7年)9月から秀宗の江戸での生活が始まりました。しかし、1603年(慶長8年)1月、政宗は3才になる虎菊丸を家康に拝謁させると、秀宗の先行きに暗雲が漂い始めます。

さらに1611年(慶長16年)12月、虎菊丸が江戸城で元服した際に、2代目将軍・徳川秀忠から一字を賜り「忠宗(ただむね)」と名乗ることになりました。この出来事により、秀宗が伊達家の家督相続から除外されることが決定づけられます。

仙台藩2代藩主・伊達忠宗

これに関しては、そもそも側室の子であった秀宗は家督を継ぐことができなかったと考えられてきましたが、「御曹司様」と呼ばれるなど周囲からは家督相続者とみなされていました。

しかし徳川の世となった以上、秀吉から一字もらうなど豊臣家の影響を受ける秀宗に仙台藩を継がせるのは時代が許さない、という政宗の政治的判断があったという説が有力となっています。

初代宇和島藩主 伊達秀宗

1614年(慶長19年)、大坂冬の陣で秀宗は政宗に従い初陣を飾ります。参戦した伊達家には、その功に対し伊予国・宇和島藩10万石が与えられることになりました。

宇和島城天守閣 ※wikipediaより

このとき、家督相続から外れてしまった秀宗を気づかってか、政宗は宇和島に別家を興すことを思い立ちます。秀宗には父の思惑通り宇和島藩が与えられ、ここに宇和島・伊達家が誕生したのです。

伊達秀宗【伊達政宗の跡を継げなかった初代宇和島藩主】

伊達宇和島藩の家紋

しかし宇和島は豊臣政権時代より頻繁に領主が入れ替わっていたこともあり、藩の財政は当初より非常に厳しいものがありました。そのため秀宗は藩政整備のため父・政宗から6万両もの借金をし、1635年(寛永12年)まで続く借金の返済は宇和島藩には大きな負担となってしまいます。

和霊騒動(われいそうどう)

当初から逼迫していた藩財政に追い打ちをかけるかのように1619年(元和5年)、宇和島藩は大坂城の石垣修復普請を請け負ったことで、さらなる出費に追われることとなります。

宇和島藩では、藩財政の責任者である山家公頼清兵衛(やんべきんよりせいべえ)と桜田元親(さくらだもとちか)らは、仙台藩への借金の返済や大坂城普請の資金調達方法をめぐり、たびたび対立していました。

もともと公頼は政宗に仕えており、政宗から信頼が厚い家臣でした。宇和島移封の際には秀宗を監視するための目付役を命じられており、たびたび秀宗の粗相や浪癖を政宗に報告していました。そんな公頼を秀宗は以前から疎ましく感じていました。

実質、秀宗による”御成敗”であった

1620年(元和6年)6月、秀宗は桜田一派の家臣に山家邸襲撃の命を下し、公頼とその一族が皆殺しにされるという事件が勃発します。この事件の顛末を秀宗はなにをおもったのか、幕府や父・政宗に報告しませんでした。

何も報告しなかったことが政宗の逆鱗に触れ、秀宗は勘当されることになってしまいます。さらに政宗は幕府老中・土井利勝(どいとしかつ)に宇和島藩の返上を申し出ました。しかし、これは利勝が政宗をなだめたため、政宗は申し入れを取り下げ、領地替えの危機は免れました。

親子の再会

老中・土井利勝は政宗の怒りを鎮めただけでなく政宗と秀宗のあいだを取り持ち、親子がひさしぶりに面会する機会を設けます。

幕府老中・土井利勝

親子水入らずの面会の席では、秀宗は思いのたけを父・政宗にぶつけます。「長きに渡り人質生活を送っていたにもかかわらず、徳川の世となったことで仙台藩を継げなかったことを不満に思っており、父を憎んでいる」と言い切るなど父と子は腹を割って話し合いました。

秀宗の不満をすべて聞いた政宗は、怒ることなくその気持ちをすべて受け止めます。政宗は勘当を解き、親子関係が修復されたのでした。

贈答品が収められている伊達美術館 ※宇和島市ホームページより

以後、2人は互いに和歌を交換したり、政宗からは茶道具などが贈られたり親密な関係が続くのでした。ちなみに、このやり取りの中で政宗から秀宗に贈られた「唐物小茄子茶入」と伽羅の名香「柴舟」は宇和島・伊達家の家宝となっています。

晩年

父・政宗が1636年(寛永13年)5月に亡くなると、秀宗は次男・宗時(むねとき)とともに葬儀に参列しました。このころより秀宗は病のため床に伏せることが多くなったことで、跡継ぎと定めていた宗時を宇和島に帰国させ、政務を執り行わせます。しかし秀宗の期待とは裏腹に1653年(承応2年)、宗時は39歳で早世してしまいました。

1657年(明暦3年)7月、秀宗は3男の宗利(むねとし)に家督を譲り隠居すると、8月には5男の宗純(むねずみ)に、宇和島藩10万石のうち3万石を与えます。これにより宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となりました。

等覚寺の伊達秀宗の墓

1658年(明暦4年)年6月8日、伊達秀宗は江戸藩邸で68歳の生涯を閉じました。くしくも仙台藩を継いだ弟・忠宗が同年の8月に亡くなったことは、なにか因縁めいたものを感じさせます。

おわりに

時の権力者の移り変わりに翻弄された伊達秀宗の人生を振り返ってきました。長く苦しい少年時代を人質として過ごしたあかつきには…。当然、父・政宗のあとを継ぐものだと思っていたにもかかわらず、徳川の時代になったことですべてが覆された自分の将来。父の跡を継ぐことはかなわなくなりました。

父・政宗の計らいで初代・宇和島藩主になったものの、人質という苦労を味わうことなく政宗の跡を継ぐことになった弟・忠宗をどのようなまなざしで見ていたのでしょうか。

ただ、筆者としては南北朝時代の初代将軍・足利尊氏の庶長子であった足利直冬のような関係にならなかったことは幸いだったと思う次第です。

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