愛洲移香斎 ~剣聖を生み出した陰流の開祖~

愛洲移香斎 ~剣聖を生み出した陰流の開祖~戦国時代

愛洲 移香斎(あいす いこうさい 1452年?-1538年?)は、室町・戦国時代の兵法家。剣術家。陰流の始祖。伊勢国(現在の三重県)出身。移香斎は号であり、通称は久忠。惟孝、勝秀と書かれる場合もある。

戦国時代最強の剣士は誰か?という議題になると多数の人が「剣聖」の異名を持つ「上泉信綱」を挙げると思います。その信綱が開いた「新陰流」の起源となった「陰流」を開いたと言われるのが今回紹介する愛洲移香斎です。武者修行のため日本各地を巡り、一説では中国大陸まで渡ったとの説もあり、上泉信綱と同じくなかなか実体を掴めない人物ではありますが、今回は謎が多い彼について紹介していこうと思います。

出自について

愛洲氏家紋 ※wikipediaより

移香斎は伊勢国(現在の三重県)の豪族である愛洲氏(愛曽とも)の家にて誕生しました。愛洲氏は鎌倉時代の元寇の際に水軍を率いて活躍したと言うほど、海運業に精通した豪族であり、後の室町幕府と明国との日明貿易にも携わっていたと言います。”八幡船”を生業としていたとの説もあるので、いわゆる“倭寇”と呼ばれる海賊であったのかも知れません。

そんな明日の命も知れない荒くれ稼業ですから、武芸一般の習得は当然であり、元来、剣術に長けていた移香斎はそんな環境の中で剣の腕を上達させていきました。また、1483年に行われた日明貿易の際に移香斎ら愛洲氏の船も遣明船として出立し、北京に赴いたと言われています。

この時、移香斎が何をしたかなどは記述がありませんが、案外、明の武芸者相手に一勝負していたなんてこともあったのかも知れません。

陰流開眼

鵜戸神宮 ※wikipediaより

海運稼業をいつまで続けたのかは定かではありませんが、その後、若き移香斎は武者修行のため諸国を巡ります。36歳ごろの時に九州の日向国(現在の宮崎県)を訪れて「西の高野」と言われる有名な修行場であった鵜戸の岩屋(うどのいわや)にて修行に励みます。

この時の修行で、霊験を体験したことにより開眼。「陰流」を立ち上げるキッカケに目覚めたといいます。一説では「摩利支天」という仏教の神様のお告げにより開眼した、満願の日に猿の神様が奥義と秘伝書を授けた、との話ですが本当でしょうか?

また、このとき開眼した場所が日向国であったことからか、晩年は日向守を名乗ったそうです。開眼した経緯についてはともかく、移香斎にとって思い入れの深い地であったのでしょう。

師匠と弟子について

念阿弥慈恩は剣術の始祖と呼ばれている

「陰流」を開眼した移香斎ですが、果たして、ここまで自己流で奥義開眼に漕ぎ付けたのでしょうか?一応、移香斎には師匠ではないかと言われる人物がいます。その人物が「念阿弥慈恩(ねんあみじおん)」という禅僧です。

元の名を相馬四郎義元といい、殺された父の仇を討つべく幼いころから剣術に打ち込み、父の仇討ち後は仏門に帰依。その後、自らが開いた流派「念流」を広めるべく諸国を放浪し、行く先々で門弟を増やしていきました。

また、慈恩には「十四哲」と言われる高弟たちがおり、その一人に「猿御前」と呼ばれる人物がいます。この「猿御前」が移香斎ではないかという説があるのですが、残念ながら関連性は不明です。しかし、移香斎が開眼した際に「猿」の神様が奥義を授けた話や、移香斎の子である小七郎宗通が後に流派を「猿飛陰流」に改名した説を考えると何か繋がりがあると考えられます。

上泉信綱像 ※wikipediaより

続いて、移香斎の弟子であったと言われる剣聖・上泉信綱との関わりですが、今のところ二つの説があり、一つは移香斎の弟子であったという説と、移香斎の子である小七郎宗通の弟子であったという説です。有力な説は後者なのですが、上泉信綱も正確な誕生年が不明なため、なかなか判断が難しいところです。

どちらにせよ上泉信綱はこの修行を経て「念流」「香取神道流」らの諸流派を掛け合わせた流派「新陰流」を生み出すに至ります。

その後

「鬼義重」の異名を持った佐竹義重 ※wikipediaより

高齢となった移香斎は日向国にて余生を過ごし、87歳という長寿でこの世を去ります。
その後、息子の小七郎宗通が家督を継ぎ「元香斎」と称して、1564年に常陸国(現在の茨城県)の大名・佐竹義重に仕えました。主君である佐竹義重は元香斎に「陰流」を学んだためか、7人の敵を一瞬で斬り伏せたといわれるほどの強さだったそうです。

関ヶ原の戦いで佐竹氏が出羽国(現在の秋田県)に減封されると元香斎もこれに従い出羽に移り、姓を「平沢(平澤?)」に改めたそうです。その際、元香斎は陰流を「猿飛陰流」に改名したとの説もあるのですが、1575年に改名したとの説もあり、はっきり分かりません。改名するにしても、何故改名する必要があったのでしょうか?門弟である、上泉信綱の「新陰流」が主流になってしまったことに対抗したんでしょうか?

平沢常富 ※wikipediaより

その後、平沢家は佐竹家において江戸留守居役筆頭となり、重要なポジションに就くことになるのですが、剣術の気風は姿を消し、江戸時代中期には狂歌師の「平沢常富」を輩出しています。

「陰流」の流派が平和な時代になるにつれて姿を消していったのは少し悲しいですが、陰流から派生した新陰流は多くの流派を生み、現代にも伝承されていることを考えると、陰流開祖である愛洲移香斎の存在はとても大きなものだったのだと実感できます。

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