三河一向一揆 ~若き徳川家康を窮地に追いやった一向一揆~

三河一向一揆 ~若き徳川家康を窮地に追いやった一向一揆~戦国時代

徳川家康の三大危機の一つと言われる”三河一向一揆”なのですが、”三方ヶ原の戦い”や”伊賀越え”と比べるとイマイチ知名度が落ちるように見えます。しかし、実際は独立間もない徳川(松平)の家中を二分し、家康自身も銃撃を受けるほどの危機に陥っており、戦国時代の宗教勢力の恐ろしさを実感させるものであります。今回はそんな徳川家康を危機に追いやった三河一向一揆について調べてみました。

桶狭間の戦い後の徳川家康の動向

桶狭間の戦い後の家康(元康)の撤退路(※ジャンクワードドットコム様より)

1560年(永禄3年)5月、”海道一の弓取り”と称された今川義元は桶狭間にて織田信長の強襲を受けまさかの討死を遂げます。義元敗死の報を聞きつけた松平元康(※”徳川家康”と名乗るのは1566年からですが、以後は有名な”徳川家康”にて表記します)は、自らの生誕の地である岡崎城に入城すると、三河国統一に向け独自の軍事行動を開始します。

藤波畷古戦場跡(※wikipediaより)

翌1561年(永禄4年)になると、家康は織田信長と和睦し、今川家との断交を表明。三河国内の今川勢力を攻撃し始めます。また、4月には三河の名族である吉良氏にも攻撃を開始し、藤波畷の戦い(ふじなみなわてのたたかい)にてこれを撃破すると、東条城の吉良義昭を降伏させます。

1562年(永禄5年)家康は織田信長と正式に会談し同盟を締結(清州同盟)。後顧の憂いを亡くした家康は平定した西三河の領国経営に力を入れることとなります。

本願寺三河三ケ寺について

ここで三河一向一揆の中心となった本願寺教団について簡単に説明します。

もともと三河西部矢作川周辺には15世紀後半から浄土真宗本願寺派らが勢力を伸ばしており、佐々木の上宮寺、野寺の本證寺、針崎の勝鬘寺(しょうまんじ)、の三つの寺院が中心となって活動していたため”三河三ケ寺”と呼ばれていました。

三河三ケ寺の一つである本證寺本堂(※wikipediaより)

また、三河三ケ寺は家康の父である松平広忠から守護使不入(※年貢、諸役等の免除)の特権を与えられ、独自の経済圏を確立していたため、西三河では大きな影響力を誇っていたのです。

皮肉なことに父である広忠が彼らに与えた特権が大きな波紋を呼び起こします。

三河吉良家について

吉良氏家紋の足利二つ引き

徳川家康が今川家より独立後に戦った吉良家についても少し触れたいと思います。

もともと三河国は鎌倉時代に起こった承久の乱で戦功のあった足利義氏が三河守護職を得たことによって治め始めた土地です。義氏は庶長子である足利長氏を三河国吉良荘の地頭に任命し、これ以降、長氏は吉良長氏と名乗ったのが吉良氏の発祥と言われています。

その後、足利尊氏が初代室町幕府将軍となると、尊氏を支えた吉良氏は幕府内でも要職を務めるようになり、一時は「御所(将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われます。しかし、足利幕府の権威が失墜すると、吉良家もその影響力を徐々に失い、戦国時代には三河にてわずかな勢力を保持するだけとなってしまいました。

そして、1561年(永禄4年)にて家康と戦った三河吉良家当主・吉良義昭は一旦は家康に降伏するも、再び不穏な動きを見せることとなります。

有名な松の廊下事件

また、もうご存じの方もいると思いますが、この三河吉良家の子孫が江戸幕府の高家となり”赤穂浪士討ち入り事件”で有名な吉良上野介義央となります。

源氏の名門である足利家の吉良氏が三河の小豪族出身である徳川(松平)に取って代わられるのも下克上の定めかと思うと栄枯盛衰を感じさせます。

三河三ケ寺との対立

今川家との戦いが続く中、家康は戦いを優位に進め、東三河方面に進出を開始します。一方、たび重なる軍役のため領民の負担は大きくなり、領内に不満の声が上がり始めます。さらに徳川軍は上宮寺の周辺に砦などを築き始めたため、三ケ寺との間に緊張が走ります。

そのような状況の中、ここで事件が発生します。1563年(永禄6年)家康の命により砦を築いていた菅沼定顕という家臣が、半ば強制的に年貢米を上宮寺から取り立ててしまったのです。(※しかし、菅沼定顕という家臣は存在が確認されておらず、事件の詳細は不明)

本願寺中興の祖と呼ばれる蓮如

このことに三河三ケ寺は不入特権を侵害されたとして激怒し、本證寺第十代・空誓(本願寺蓮如の曾孫)は、上宮寺や勝鬘寺と共に徳川家康追討の檄を飛ばし、門徒たちを集結させます。

そして、集結した門徒たちは上宮寺付近の砦に攻撃を開始します。これにより”三河一向一揆”の戦いは幕を開けます。

三河一向一揆

徳川家康の”友”とも呼ばれた本多正信

空誓の檄文に呼応した三河領内の国人衆、農民、門徒らの勢いは大きく、碧海郡・幡豆郡・加茂郡・額田郡の4郡が家康に背きます。事態を重く見た幡豆郡西尾城の城主である酒井正親は一旦、和平の使者を送るも、使者は殺害されてしまい、一揆側は徹底抗戦の姿勢を示します。

また、徳川家臣団の中には浄土真宗を信仰する者も多くいたため、後に江戸幕府の重臣となる本多正信、渡辺守綱など多くの家臣が一向一揆側として参戦する事態となってしまい、重臣の酒井忠尚に至っては、もともと織田家と親交を結ぶ家康に疑問を持っており、この一揆をきっかけに三河上野城にて籠城し、家康と対決する姿勢を表します。

さらに、これを好機と見た三河吉良家当主・吉良義昭は家康打倒の兵を挙げ、各地の今川家残党勢力と共に攻撃を開始します。

一揆勢との攻防 ~上和田の戦い~

各地で一揆の火の手が上がるのを見た徳川家康はこれを鎮圧すべく、上宮寺に鳥居氏、勝鬘
寺に大久保氏、本證寺に藤井松平氏らを配置して、自らも出陣します。

まず、旧臣であった夏目吉信ら一揆勢が立て籠もる野羽城(六栗城?)の攻略を開始し、調略をもって城を陥落させます。夏目吉信は周りの擁護もあり、助命され再び家康の臣下として仕えます。(※夏目吉信は後に、三方ヶ原の戦いで家康を救うべく戦死する)

徳川十六神将の一人である蜂屋貞次

次に勝鬘寺に立て籠もる蜂屋貞次ら一揆勢を攻撃するも、逆に撃退されてしまいます。勢いづいた一揆勢は11月(10月?)岡崎城に向け進軍を開始し、途中にある大久保氏が守る上和田城を包囲したため家康は小豆坂にて迎撃に向かいます。

この時、蜂屋貞次は水野忠重と戦っていたのですが、家康の姿を見ると、「かつての主君に弓を引くことは出来ぬ」と言い放ち、戦場を離脱したと言います。

馬頭原の戦いと一揆の収束

家康が身を隠した鳩ヶ窟がある山中八幡宮

戦いは翌年まで持ち越し、さらに戦いは激化します。1564年(永禄7年)1月11日、土呂・針崎・野寺の一揆勢が上和田の砦に攻め寄せたため、家康は再び救援に向かいます。

一揆勢は小勢ながらも勢いは凄まじく、家康も敵の銃撃を受け、危うく命を落とすほどでした。また、一説では家康は山中八幡宮の鳩ヶ窟(はとがくつ)に身を隠し、一揆勢の追撃を回避したとの伝説があります。

古くから織田家との戦いの地となった小豆坂は三河一向一揆でも激戦地となった

そして15日、家康は小豆坂・馬頭原(ばとうがはら)にて決戦を挑み、一揆勢を撃破します。この戦い以降、徳川方は優勢となり、2月には一揆勢の主将格だった矢田作十郎が戦死したことで一揆勢は衰退。

好機と見た家康は一揆側に和議を持ち掛けたため、一揆側もこれに承諾し、浄珠院にて和議は成立しました。一応これにて”三河一向一揆”は収束します。

その後

この一揆後、家康は三河を統一し戦国大名へと進化する

家康は一揆側と和睦することに成功すると、かつて自分と敵対した多くの家臣たちの帰参を許し、より強力な家臣団の再編に努めます。また、一揆後も三河国内で抵抗を続けていた吉良氏や酒井忠尚らを国外に追放し、反乱分子を一掃します。

一揆の中心となった本願寺教団の三ケ寺に対して、家康は当初は寛大な条件で臨みましたが、本願寺側が武装解除した隙を狙い、教団を一気に弾圧。本願寺の寺院に他派・他宗への改宗を迫り、これを拒んだ場合は破却するという強引な手段を使い、一揆衆を完全に解体させました。

一説には、もともとは本願寺側に寛大な処置を下そうと考えていたものの、家臣団と本願寺側との徳政令(税の免除)が原因で、強引に解体せざるを得なかったとも言われています。

その後、天下統一を進める織田信長と本願寺は”石山戦争”にて10年近く争うことに

しかし、家康はこの事件以降、19年後の1583年(天正11年)まで三河国内に本願寺教団禁制を敷くほどであったので、宗教勢力の恐ろしさを実感したことがわかります。

そして、この事件を皮切りに徳川家は三河領国内の支配体制を確立し、戦国大名へと飛躍することとなります。

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