果心居士 戦国大名たちを惑わせた幻術士

果心居士 戦国大名たちを惑わせた幻術士戦国時代

果心居士(かしんこじ、生没年不詳)は、室町時代末期から戦国時代に実在したと言われる幻術師。七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと言われるが、実在を疑問視する声もある。

漫画・ドラマで『信長のシェフ』を見たことがある方やゲーム『信長の野望』をプレイしたことがある方は、果心居士という人物を知っているのではないでしょうか。『信長のシェフ』では、平成から戦国時代にタイムスリップした男が果心居士を名乗り、妖術を使い処刑の場から脱出したことが描かれています。また『信長の野望』では忍者の出自で、鬼謀という所持戦法を使用し、敵を恐慌状態に陥れる術を使い、知略に優れた人物として設定されています。この果心居士は、戦国時代においてはよく知られた術者でしたが、生まれた年も亡くなった年も、どこで生まれたかも定かではありません。今回は多くの謎に包まれた彼の逸話をご紹介します。

出自について

高野山

果心居士の出自については、筑後国で生まれたという説が有力とされていますが、大和国とする文献もあり内容が一致していません。生没年に関しては、江戸時代に成立した柏崎永以の随筆『古老茶話』において、慶長17年(1612年)7月に、駿府城で徳川家康と因心居士という者が面会し、年齢を尋ねられた居士が88歳になると答えた、という記述があります。因心居士が果心居士と同一人物で、なおかつ『古老茶話』が信用のおける資料であれば1524年の生まれであると推測されますが正確なことは分かっていません。余談ですが、『信長の野望』では1524年の生まれ、1619年に亡くなる設定となっています。幼いとき高野山に住んでいたが、生まれつき術に長けており、徳利に入りそうにないものを入れたり、大きな塔へ縄をかけて登ったりするなど、おかしなことをしていたようです。日本の仏教では、こういった怪しい術はバラモンの外道となるため、ついには高野山から追い出されてしまいました。

時の権力者たちとの出会い

1 松永久秀

梟雄と言われた松永久秀

当初、三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)の右筆として仕え始めた松永久秀ですが、徐々に力を蓄え、ついには大和国の支配を任されることとなります。そんなある時、果心居士のうわさを聞いた久秀は、自らの居城である多聞城に彼を招きました。はじめから久秀は、居士の幻術など信じておらず、怪しげな術を見破ろうという魂胆でした。久秀は彼を試すかのように、「自分に恐ろしい思いをさせることができるか」と問いました。彼に人払いをするよう頼まれた久秀は、2人きりとなった部屋の明かりをすべて消します。いつの間にか、居士の姿はそこにはありません。みるみるうちに月の光は消え、静まり返った部屋に、いつしか降りだした雨の音だけが響いていました。すると居士が座っていた場所に青白い影が浮かび上がり、髪の長い女性が座っているのでした。それは数年前に亡くなった久秀の妻でした。さすがの久秀も取り乱して混乱したと伝わっています。

2 織田信長

案外変わり者好きな信長公

京都の祇園社の境内である行者が、地獄が描かれた見事な絵を開いて、群衆に説法を行い、人々から施しを受けて生活していたそうです。この話を伝え聞き、絵に高い関心を寄せた信長は、この行者を自分の屋敷に呼び出しました。この行者こそ果心居士でした。絵を直接見て感銘を受けた信長は、この絵が欲しくなりました。信長の家来が絵を献上するよう居士に諭すものの、小判百両と引き換えなら絵を譲るとの返答。あまりにも居士の意志が固いことが分かった信長は、いくらかの金銭を渡しそのまま帰しました。帰りの道中、後をずっとつけていた家臣が、人影のない場所に差し掛かったところで、居士を斬り殺し絵を奪い去りました。しかし家臣が絵を持ち帰り、信長の前でその絵を広げると絵はただの白紙となっていたのです。しばらくたってから、斬り殺されたはずの居士が以前のように絵を広げてあちらこちらで説法をしているとの話がとどきます。ふたたび信長の前に召し出された居士は、「正当な代金を払ってくれれば絵は元通りになるでしょう」と答えました。信長が小判百両を払うと白紙の画面には、再び絵が現れたそうです。

3 明智光秀

果心居士は光秀のその後を予測していたのか

天正10年(1582年)、信長を討ち果たし天下を取った明智光秀は、居士を屋敷に招待しました。光秀の歓待に応え、居士は大きな屏風に描かれた近江八景の絵に術をかけました。その絵は遠景に1人の男が小さな小舟を漕いでいる様子が描かれていましたが、居士が手招きすると小舟が次第に手前に近づいてくるのでした。やがて水が屏風からあふれだし、座敷が水浸しになってしまいます。そこへ小舟が画面から飛び出し座敷の水の上に出ると居士は小舟に乗り込み、そのまま人々に別れを告げました。いつしか彼の姿は屏風の風景の中の人となり次第に遠ざかり、消えていったのでした。

4 豊臣秀吉

激怒した秀吉

天正12年(1584年)、豊臣秀吉の前に召し出された居士は1人の女を出現させたという。それは秀吉が誰にも話したことのない女の姿であり、若かりし日に戦陣で犯し、殺してしまった女性であったともいわれています。その姿に驚き恐怖で動けないほどになった秀吉は、過去の過ちを暴く居士のやり方にひどく激怒し、彼を捕らえ磔刑に処することとしました。刑を執行するときになって、居士はネズミに姿を変え逃げ出し、タイミングよく舞い降りてきた鳶が、ネズミに変身した居士を掴み、空に消えてしまったそうだ。その後、彼の消息は完全に途絶えてしまいました。

幻術の数々

ルパン並みの奇術ばかりですw

・居士が猿沢池で大勢の人を集め説法していたとき、池の水面に笹の葉を投げ入れると、それらの葉が鯉に変わり泳ぎ出しました。この怪しげな術を信用しないという男の歯を居士が爪楊枝でなでたところ、歯が今にも抜け落ちんばかりになってしまった。

・薪能(たきぎのう)が催されていたものの人混みのせいで全く見ることができないことに業を煮やした居士は、群衆の最後尾に移動します。そこで顎をひねると、みるみる顔が細長くなり、2尺(1尺は約30センチメートル)もの長さになったため、彼は薪能をしっかり堪能できたそうです。

・顔見知りの借金取りにばったりと街中で出会うも、自らの顔を別人の顔に変え逃げることができた。

さいごに

果心居士は、小泉八雲の『怪談』、司馬遼太郎の『果心居士の幻術』などで取り上げられていますが、信用のおける1次史料、2次史料に彼について記述するものはありません。果心居士という人物の存在が疑問視されている所以であるといえるでしょう。これまでご紹介した幻術の数々は、多少大げさに後世に伝えられている点はあるかもしれませんが、彼のように怪しい術を繰り出す人物が存在していたのは確かなことではないでしょうか。そうでなければ、当時の人がありもしなかった幻術を想像力だけで後世に伝えることはできない気がします。それこそ特殊な異能力を繰り出す忍者は、当時の人にとっては幻術者に思えたことでしょう。果心居士が才能に優れた忍びであったからこそ裏で暗躍し、歴史の表舞台の記録に残ることが少なかったのではないでしょうか。

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