戦国武将伝 第八回 真田信綱

戦国武将伝 第八回 真田信綱戦国時代

真田信綱 (さなだ のぶつな 1537年-1575年)は、戦国時代の武将。武田信玄・勝頼の二代に仕える。武田二十四将の一人。真田昌幸の兄。信幸・信繁の叔父。

真田家と言えば智謀の士のイメージが強いですが、今回紹介する真田信綱は武勇で知られていた人物です。信綱は幼い頃から父・幸隆(幸綱)と共に武田信玄に仕え、真田家の家督を継ぐと三尺三寸の大太刀を振るい武田家の勢力拡大に貢献します。また信綱率いる騎馬隊約200騎は信濃領主の中では最大であり、最強と謳われた武田騎馬軍の一角を担っていたことが分かります。今回は武勇によって真田の名を知らしめた信綱の活躍に注目していきたいと思います。

前半生

真田幸隆

天文6年(1537年)、真田幸隆(幸綱)の嫡男として誕生。幼名は幼名は源太。官途名は左衛門尉で源太左衛門(尉)と称したと言います。天文10年(1541年)に甲斐の武田信虎と結んだ信濃国人の連合軍が小県郡へ侵攻し、父・真田幸隆は所領を失墜し流浪の身となります。(海野平の戦い)
当時5歳であった信綱は父・一族と共に故郷を追われる身となりますが、真田幸隆は禰津氏の紹介により甲斐の新しい国主となっていた武田晴信(信玄)に仕え、旧領の奪回を目指します。
また幼い信綱も小姓として晴信の側に仕えることとなります。

甲斐の虎と呼ばれた武田信玄

武田氏に臣従した後は、父・幸隆は信濃国の村上義清攻めで活躍し、天文22年(1553年)には旧領を完全に回復することに成功します。この時の信綱の動向は記述が少なく主な活動は分かっていませんが、このころには正室を迎え子供たちを儲けていたと言われています。子どもは娘がおり、弟・昌幸の嫡男である真田信之に嫁いで、真田信吉を生んでいます。男子もいて、後年「与右衛門」という名前で越前松平家に仕えたという説もあります。
また、成人してからは父から「綱」の字を受け継ぎ、主君・晴信が信玄と号すると「信」の字を与えられ正式に信綱と名乗るようになります。

転戦し大いに活躍する

謙信・信玄一騎打ちの銅像

永禄4年(1561年)、『甲陽軍鑑』によれば越後の上杉氏と第4次川中島の戦いが行われると、信綱は父と共に妻女山の上杉本陣を奇襲すべく別動隊を率いて出陣したと言われています。
以降も戦場では専ら父・幸隆や弟の真田昌輝らと共に行動しており、永禄6年(1563年)上野国岩櫃城攻略や永禄10年(1567年)白井城の戦いで活躍します。またこの年、幸隆が病気がちになったので信綱が真田家の家督を相続します。この頃には真田家は信濃国の先方衆の中でもっとも力を持つようになっていました。さらに弟の昌輝は別家を建てることを許されており独自に騎馬50騎を従えていたというので信玄の真田家に対する信頼が如何に高かったのかが分かります。

真田家家紋の六文銭

永禄11年(1568年)12月、信玄が三国同盟を破棄し駿河今川領に侵攻すると、信綱は昌輝と共に出陣し駿河国蒲原城攻略を信玄より命じられています。翌年には三増峠の戦いにて北条氏政の軍勢と衝突した際には信綱は内藤昌豊と共に殿軍を務め無事に武田軍を退却させています。
元亀3年(1572年)には、信玄が西上作戦を実施すると信綱もこれに参加し、徳川軍を三方ヶ原にて散々に打ち破ったと言われていますが、上野国岩櫃城にて守りを固めていたという説もあります。

長篠に散る

武田勝頼

元亀4年(1573年)4月、信玄が急死すると武田勝頼が当主となりますが、武田家の弱体化は否めませんでした。さらに翌年の天正2年(1574年)5月に父・幸隆が病死してしまいます。幸隆の死去に伴い信綱は正式に真田家の家督を継ぎますが、天正3年(1575年)5月、勝頼は大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、長篠城を包囲します。これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至り、信綱は昌輝・昌幸の兄弟を引き連れ参陣します。

長篠の戦い

この時、信玄時代からの重鎮たちは信長自らの出陣を知って撤退を進言するも、勝頼は決戦を行うことを決定し攻撃を開始します。そして信綱は重臣・馬場信春の右翼に陣取り、自ら三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、佐久間信盛の馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に突撃を繰り出します。しかし織田・徳川連合軍の圧倒的な鉄砲の銃撃を受けて信綱は被弾し、弟・昌輝と共に戦死してしまいます。享年39歳。家督を継いで僅か一年の出来事でした。

その後

信綱が着用していた甲冑

信綱の首は織田・徳川方に取られますが、その後家臣の白川勘解由兄弟が持ち去り、信綱の陣羽織に包んで帰還し菩提寺となる信綱寺に葬ったとされています。この信綱の血痕が残った陣羽織は現存しており、現在も信綱寺に収蔵されています。また使命を全うした白川兄弟は主の後を追って殉死し、その忠義を賞されて白川家は加増を受けています。

昌幸は真田家存続の為に奔走する

信綱・昌輝兄弟が戦死したことにより生き残った昌幸が真田家を継ぐことになるも、この戦いで真田一族の多くを失ったことにより、真田家の立て直しに昌幸は大変苦労することになります。
こうして真田家の行く末は弟の昌幸に託された訳ですが、奇妙なことに信綱の官位「左衛門尉」は後年、昌幸の次子である信繁が豊臣秀吉から授かり同じ真田左衛門尉となります。
そして左衛門尉となった信繁は真田幸村と称され、「真田日本一の兵」と天下に轟く事になるのです。

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