戦国武将伝 第五回 黒川晴氏

戦国武将伝 第五回 黒川晴氏戦国時代

黒川晴氏 (くろかわ  はるうじ 1523年-1599?1609?)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。陸奥黒川氏第9代当主。

名門・奥州大崎氏に属し、伊達政宗の奥州制覇を打ち破った東北の名将です。黒川家は元々大崎家の支流であるため大崎の配下に思われていますが、実際には主君と家臣の関係ではなく、大崎領と伊達領の間に位置する黒川郡を領した独立した戦国大名でもありました。今回は伊達・大崎の間で知略を尽くし「大崎合戦」を制した晴氏とはどんな人物であったかスポットを当てていこうと思います。

黒川家の当主として

黒川氏は清和源氏足利氏流の血縁

大永3年(1523年)、陸奥黒川氏第7代当主・黒川稙国の次男として生まれ、将軍・足利義晴より偏諱を賜り晴氏と名乗りました。また永禄11年(1568年)、兄である第8代当主・稙家が死去すると家督を相続して黒川氏第9代当主となります。黒川家は鶴盾城を拠点に南に伊達、北に大崎という二大勢力に両属していたため、両家に大変気を使わなければなりませんでした。
そのため晴氏は娘を伊達晴宗の三男・留守政景(伊達政景)に嫁がせたり、大崎義直の息子・義康を養子にしたりと当時の黒川氏が置かれていた状況が見て取れます。
しかし、そんな晴氏の気苦労を知ってか知らずか、大崎家では内輪揉めが頻発しており晴氏を悩ませます。さらに伊達家では”独眼竜”こと政宗が台頭してきており、両家の間で不穏な空気が流れ始めます。

戦いの発端

奥州の覇者を目指す伊達政宗

天正12年(1584年)、家督を相続した伊達政宗は父・輝宗の外交方針を破棄して上杉景勝と結び、大崎氏の分家にあたる最上義光と対立を深めたため、伊達・大崎の一門につながる黒川家の立場は極めて微妙なものとなってしまいます。さらに天正14年(1586年)、大崎義隆の近習の間で争いがおき内紛へと発展、大崎氏重臣・氏家吉継が、伊達政宗に援軍の派遣を要請したことで事態は急変します。

政宗は各方面へと兵を繰り出していた

これを好機と見た政宗は、天正16年(1588年)1月、大崎氏内紛の鎮圧を名目として約10,000人(5,000人とも言われる)の兵を留守政景・泉田重光に率いさせ大崎領に侵攻させます。一方、迎え撃つ大崎義隆は中新田城を防衛拠点に定め、南条隆信を守将に据えて籠城戦の構えを見せます。
その頃、両家と関係を持つ黒川家は難しい選択を迫られます。黒川家の祖であり歴史ある奥州探題であった大崎に付くか、それとも娘婿がいる伊達家に付くか、両家に翻弄されながらも晴氏は軍を率いて大崎の南部に位置する桑折城に入城します。

大崎合戦

伊達軍進撃図

桑折城はちょうど中新田城の中間に位置する城のため、伊達軍がここを落として行かなければ背後を取られるという形になるので、晴氏は伊達軍を牽制することに成功します。
また季節は冬ということもあり、早急に決着を着けたい伊達軍はしだいに焦りだします。
そして、天正16年(1588年)2月2日、泉田重光率いる伊達軍先陣はしびれを切らし中新田城に攻め寄せるも、城を囲む低湿地帯と南条隆信の奮戦により城攻めは難航します。
さらに折りからの大雪のため伊達軍は後退しようにも身動きが取れなくなっていました。
そして、これを見た晴氏は大崎方として参戦することを決意し桑折城より出陣、泉田重光の軍に急襲をかけます。

桑折城跡地

晴氏の急襲を受けた伊達軍は大混乱に陥ります。さらに中新田城の大崎軍も城を出て打って出てきたため挟み撃ちにされた伊達勢は潰走し、近くの新沼城に逃げ込みます。
新沼城を包囲した大崎軍は一気に伊達軍を全滅させるべきとの意見が大半でしたが、晴氏はこれに反対します。なぜならこの勝利は悪魔で一時のものであり、もし再び伊達軍と対峙すれば敗れることは必定であることを晴氏は理解していました。
また、新沼城には晴氏の娘婿である留守政景も入城していたため、なんとしてでも助け出したいという思惑もあったのです。
2月23日、晴氏は政景を救うべく新沼城に使者を使わし、和睦を斡旋します。
政景は晴氏の和睦を受諾し、29日に新沼城を出て敗残兵を収容しながら大崎領より撤退しました。
こうして晴氏の活躍により大崎と伊達の戦いは大崎の勝利で幕を閉じます。
なお、当時奥州で破竹の勢いを誇った伊達軍が敗れた戦はこの大崎合戦のみです。

その後

大崎合戦の後も奥州各地で戦いは続き、大崎家は出羽国の最上義光の支援を受けて、伊達家と対峙を続けます。しかし、天正17年(1589年)に政宗は摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼすと、大崎家はその圧迫に耐えかねて再び伊達氏に従属してしまいます。

摺上原古戦場

さらに天正18年(1590年)、豊臣秀吉により小田原征伐が行われると、大崎家は家中の争いに追われていたため参陣できず、晴氏も分裂した大崎家を再びまとめるために奔走していたため参陣は間に合いませんでした。結局、晴氏の努力も虚しく、秀吉の奥州仕置により大崎家はお取り潰しとなり、黒川家も改易の憂目に合ってしまいます。
また伊達政宗は大崎合戦の恨みを忘れておらず、旧黒川領の領有を秀吉に認められた際、これを機会に晴氏を殺そうとしましたが留守政景の必死の取りなしによって助命され、以後は政景の庇護下で余生を過ごしたそうです。一説によると、その後政宗は晴氏と対面すると彼を気に入り、屋敷を与え晴氏に色々相談するようになったと伝えられます。
そして慶長4年(1599年)※(1609年説あり)7月5日に死去。享年77歳。
入道名「月舟斎」という名の通り、黒川晴氏は大崎家を照らした月に浮かんだ立派な船であり、戦国乱世という荒波を上手く切り抜けたのではないでしょうか。

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