戦国武将伝 第四回 長宗我部信親

戦国武将伝 第四回 長宗我部信親戦国時代

長宗我部信親 (ちょうそかべ  のぶちか 1565年-1587年)は、
安土桃山時代の武将。土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。

「土佐の出来人」と称された長宗我部元親の嫡子で、幼少の頃より聡明であったため父や家臣達から将来を有望視されるものの、戸津川の戦いにて壮絶な戦死を遂げてしまう悲劇の若武者です。彼の死後、父の元親は情緒不安定となり、長宗我部家滅亡の遠因を作ってしまいます。今回はそんな将来を大いに嘱望されながらも無念の死を遂げた彼の生涯を見ていきます。

信親誕生

土佐の出来人・長宗我部元親

永禄8年(1565年)、長宗我部元親の嫡男として誕生。幼名は千雄丸。母は元親の正室で足利義輝の家臣・石谷光政の娘です。幼少の頃より利発で元親に寵愛されており、元親はわざわざ京都から一流の学者、武芸の師を呼び寄せ、千雄丸に英才教育を施すほどでした。
また千雄丸も父の期待に応え勉学と武芸に励み、ますます逞しくなっていきます。

織田信長

天正3年(1575年)、元親は織田信長に使者を送り、両家は誼を通じます。また、元親は信長に千雄丸の烏帽子親を頼みます。信長はこれを了承すると自らの「信」の字を千雄丸に授け、千雄丸は信親と名を改めます。この時、信長は信親を気に入り自分の養子にしようか迷いますが、長宗我部家の嫡男であったため、左文字の銘刀と名馬を与えるに留まったと言います。
その後、信親は父と共に各地を転戦し、四国統一を目指します。

四国平定と豊臣家臣従

こうして誼を通じた織田家と長宗我部家でしたが、次第に綻びが生じ始めます。
天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫りますが、元親はこれを拒絶したため両家は敵対関係となります。

本能寺の変直前の勢力図

天正10年(1582年)5月、織田家は信長の三男・織田信孝を総大将とした四国攻撃軍を編成し大軍を堺に集結、これと同時に三好康長を先鋒として出陣させます。
窮地に立たされた長宗我部家でしたが、幸運にも翌月に本能寺の変が起こり信長が横死します。
これにより信孝の軍は瓦解し、先鋒軍として阿波国・勝瑞城に入っていた三好康長は逃亡してしまいます。これを好機と見た信親は勝瑞城を制圧しようと元親に進言しましたが、病になっていた元親は8月まで待つよう指示します。
しかし、信親は小姓組を率いて出陣して阿波国の海部城に進み、元親の弟である香宗我部親泰を頼り、自ら阿波攻めを行おうとします。驚いた元親は急いで伝令を出し信親を説得します。

長宗我部家本城・岡豊城跡地

やむなく信親は本拠の岡豊城に帰還しましたが、元親は8月に出陣し、翌月に勝瑞城を制圧します。
その後、長宗我部軍は進撃を続け、天正13年(1585年)に四国のほぼ全域を手中に治めます。
しかし、四国を統一したのもつかの間、今度は信長の後継者となった豊臣秀吉が台頭し、元親に対し伊予・讃岐の返納命令を出します。元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしますが、秀吉はそれを許さず交渉は決裂してしまいます。

四国征伐進撃図

そして、豊臣秀長を総大将とした10万を号する大軍が四国に上陸、長宗我部勢は奮戦しますが衆寡敵せず、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏し、長宗我部家はこれ以後豊臣政権配下で土佐一国を領する大名となります。

戸次川に散る

天正14年(1586年)、豊後の大名・大友宗麟が薩摩の島津義久を退けるよう豊臣秀吉に救援を求めにやって来ます。事態を重く見た秀吉はこれを了承し、黒田官兵衛(孝高)に毛利家の兵を率いさせ、さらに高松城主・仙石秀久に四国勢として、長宗我部元親・長宗我部信親、十河存保を先発隊として豊後に出陣させます。豊後上陸後、島津四兄弟の一人・島津家久が大友家の鶴ヶ城を包囲していたため、仙石秀久は鶴ヶ城を救うべく戸次川に陣を敷きます。

戦後「三国一の臆病者」と称された仙石秀久

冬季の早朝に戸次川を挟んで両軍は対峙しましたが、功を焦った仙石秀久は元親・信親親子の反対を押し切り、戸次川渡ってを戦うことを決定します。この時、信親は仙石の決定を批判し、家臣に対して「明日自分は討ち死にするだろう」と吐き捨てるように言ったと言います。
翌日、無事に渡河した四国勢ですが、ずぶ濡れで士気が下がっている中、島津家久は得意の釣り野伏せ戦術を用い仙石勢を翻弄、先陣の仙石勢は真っ先に敗走してしまい四国勢は大混乱に陥ります。

戸次川古戦場跡地

長宗我部の3千の兵は新納大膳率いる5千の兵と戦闘状態になりますが、形勢は圧倒的に不利な状況であり退却を余儀なくされます。元親は家臣の説得で落ち延びますが、信親は家臣・桑名太朗左衛門に退却を促されますが引かず、中津留川原に踏みとどまって島津勢に突撃を敢行します。
信親は4尺3寸(約1.6m)の大長刀を振るって8人の敵を討ち、さらに太刀を抜いて6人を討ち果たしますが、島津家の鈴木大膳に討たれ壮絶な最後を遂げます。享年22歳。
この戦いで信親に従っていた家臣700人は討死にし、十河存保も戦死、鶴ヶ城も落城してしまいます。

その後

長宗我部信親墓地

戦後、元親は島津家に使者を送り信親の遺骸を引き取ります。
信親の遺骸は着用していた甲冑に矢弾、太刀、槍の跡がたくさんあったとされ、袖や草摺も途中からちぎれておりボロボロになっていたと言います。また、変わり果てた姿で父の元へ帰ってきた信親を元親は直視出来ず、その場で泣き崩れたといいます。
その後、愛する嫡男の戦死に精神的なダメージを受けた元親は英雄としての覇気を一気に失い、長宗我部家中に混乱を招きます。これにより長宗我部氏は戦死した家臣団の再建における家臣間の諍いや後継者騒動によって徐々に滅亡への道を歩むことになってしまいます。
もし信親が戦死せず家督を継いでいたのなら、長宗我部家滅亡への道は回避されていたのではないでしょうか。

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