戦国武将伝 第九回 伊集院忠棟

戦国武将伝 第九回 伊集院忠棟戦国時代

伊集院忠棟(いじゅういん ただむね 1541年?-1599年)は、戦国時代から安土桃山時代の島津家の武将。

島津家の筆頭家老でありながらも薩摩の「国賊」のレッテルを貼れら謀殺されてしまった伊集院忠棟です。そんな不名誉なレッテルを貼られた彼ですが、実際には筆頭家老として内政を取り仕切り、茶の湯・歌道に通じていたため上方の武将と親交があり世の情勢に深く通じてもいました。また彼の死が関ヶ原の戦いの際に島津家が少数の軍勢しか動員できなかった遠因ともなっています。

筆頭家老として

島津貴久

島津家家臣・伊集院忠倉の子として誕生。祖父の伊集院忠朗は島津忠良・貴久父子に仕え、肝付兼演との戦いや鉄砲の導入の進言などの功績により家老として島津氏の政務を取り仕切っており、伊集院家は島津家の筆頭家老として君臨していました。忠棟も幼い頃から島津義久に仕え、永禄9年(1566年)には父から家老職を引き継ぎ、早くから政務を取り仕切ったそうです。また忠棟は政務だけではなく多くの合戦にも参加しており、大友宗麟との耳川の戦い、竜造寺隆信との沖田畷の戦いなどの主要な戦いに参加しています。このころにはこれらの功績もあり大隅国と日向国に2万石の領地をもつまでになります。

豊臣家に降伏

豊臣秀吉

天正14年(1586年)島津義久は豊後の大友領に攻め込み一気に九州制覇を目指しますが、翌年に豊臣秀吉による九州征伐が行われ10万近い大軍が九州に上陸してきます。
忠棟は圧倒的戦力差から降伏を進言しますが、義久や弟の義弘は徹底抗戦を主張し進言を却下します。もともと忠棟は九州征伐以前から島津と豊臣の潤滑油として外交の使者を務めており、また得意の茶の湯・歌道を通じて当時の一流文化人として名高い細川幽斎(藤孝)から上方の情勢を聞かされており、天下がいずれ豊臣家に帰結することを分かっていました。そのため戦いには消極的だったのです。

豊臣軍進撃図

同年4月17日、追い込まれた島津勢はこの状況を打破すべく日向国根城坂にて決戦を挑みます。このとき島津軍の左翼を任されていた北郷時久の突撃と声を合図に、右翌を任されていた忠棟が進軍する手はずでしたが、忠棟は聞こえなかったなどという理由で全く進軍しませんでした。このため島津軍は完敗。戦後、忠棟は剃髪し自らを人質として降伏し島津家の赦免を願い出ます。

秀吉に降伏する島津義久

その後、島津四兄弟の末弟・島津家久も降伏し講和を望んだため、忠棟は主君である義久のもとへ赴き説得を促します。結果、義久は降伏を決意。剃髪して名を龍伯と改めた後、忠棟とともに泰平寺で豊臣秀吉と会見し、島津家は正式に降伏しました。

大名に取り立てられる

石田三成

戦後、忠棟は石田三成と共に戦後処理を担当し、その内政手腕を発揮します。次第に忠棟は豊臣家の重臣と懇意となり、中央にその名を知られるようになります。忠棟の能力に注目した秀吉は彼を高く評価し大隅国2万石を与えます。さらに文禄4年(1595年)、大名各地の領内にて太閤検地が行われると忠棟はこの検地で地頭職を中心にその所領を大移動させ島津一族の北郷氏の領地であった庄内(都城)とその周辺8万石を得ます。しかしこの大胆な知行配分は島津家中に波乱を招きます。

太閤検地

当時は文禄の役の真っ最中で島津家の多くの重臣は朝鮮に滞陣中であり、知らない間にに勝手に所領を移動させられた者も数多くいました。また根城坂の戦いにおいての軍規違反の行いを許していない将兵たちも顕在であったため忠棟に対する怨嗟の声は高まるばかりでした。大名となり権勢を誇る忠棟に不穏な空気が立ち込めます。

誅殺

島津忠恒

忠棟の行いは島津宗家からも危険視されるようになり、島津家の次期当主・島津忠恒(家久)は父である島津義弘に再三に渡り書状を送り忠棟を取り除くよう進言します。しかし忠棟は8万石を有する大名でもあり、迂闊に手出しすることは豊臣政権に対しての反逆として捉えられかねません。そのような状況の中、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去したため、朝鮮滞陣の将兵は帰国することとなり島津家もそれに倣い帰国します。そして秀吉の死を好機と見た忠恒は遂に行動を起こします。

島津忠恒は気性が荒いことで有名だった

慶長4年(1599年)3月、島津忠恒は京都伏見の島津邸に忠棟を呼びつけると自らの手で忠棟を斬殺してしまいます。斬殺の理由は「伊集院忠棟が、『当主である』島津家をないがしろにしたので成敗した。」との見解でした。事件後、石田三成が問責の手紙を送りますが、島津義久は忠恒の単独犯行であったという手紙を送り弁明しています。また忠棟夫人はこのことを徳川家康に3日間も直訴するも家康は「夫人の薩摩弁が理解できなかった」と発言します。結果として忠棟夫人の直訴も虚しく、家康の調停により忠恒はお咎めなしという形で治まりますが、忠棟の嫡男・伊集院忠真は父が斬殺されたことを知ると領内の庄内都城にて叛旗を翻します。

現在の庄内都城

この乱は「庄内の乱」と呼ばれ島津氏家中最大の内乱となり、九州を制した島津勢の中核であった伊集院勢と伊集院忠真の奮戦も重なり、さすがの島津勢も苦戦し戦いは長期化してしまいます。

その後

慶長5年(1600年)3月15日、9ヶ月以上の戦いの末に、徳川家康の調停により伊集院忠真は降伏し庄内の乱は終結します。降伏後、忠真は今まで通り島津家に仕えることを許されますが忠恒は警戒を解かず、忠真も肥後国の加藤清正に助力を願うなどの事件が発覚し両者の対立は続きました。そして慶長7年(1602年)10月、関ヶ原の戦いでの家康への謝罪のために忠恒は京都伏見へ上洛することとなり忠真もこれに従います。上洛前に日向国野尻で狩りを行うこととなり忠真も参加しますが、なんと忠真はその場で撃ち殺されてしまいます。また同日に島津家に預けられていた忠真の母親と弟たちも殺害され伊集院一族は皆ことごとく粛清されてしまいます。

新井白石

その後、薩摩藩において伊集院家は「国賊」と見なされ、伊集院忠棟については「独立心を抱き、主君を害する者であった」と評されますが、後年江戸時代中期の将軍側用人・新井白石からは「九州征伐後の島津家の滅亡を救った忠義の者である」と評されています。
実際、伊集院忠棟の行動を評価するのはなかなか難しいものですが、島津家は存続し後の世に薩摩藩が明治政府の中心となったことを考えると個人的には忠棟の判断は正しかったとように思うのですが…。

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