戦国武将伝 第一回 古田重然

戦国武将伝 第一回 古田重然戦国時代

古田重然 (ふるた しげなり 1543年-1615年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、茶人である。

漫画「へうげもの」で一躍知名度をあげた古田織部重然です。織田信長に仕え、千利休に師事し、いわゆる「織部好み」を大成させた彼ですが、初期の頃は茶人と言うより武人寄りな人物で、生涯を通して多くの戦場に赴いています。また晩年は徳川幕府から動向を監視されているのを見ると、師である利休と同じく大変影響を持った人物であったことが伺えます。今回はそんな「へうげもの」の志を貫いた彼の人生に迫っていきます。

使い番佐介

山口城跡地

天文12年(1543年)、美濃本巣軍の山口城主、古田重定の子として生まれ、後に叔父の古田重安の養子となったと言います。通称は佐介。父重定も茶人として知られた存在でしたが、若い頃の重然は茶の湯に興味がなかったとも言われています。
古田氏は元々美濃の守護大名土岐氏に仕えていましたが、永禄9年(1567年)の織田信長の美濃進駐、あるいはそれ以前から織田家に仕え、重然は当代一流と名高い細川藤孝(後の幽斎)のもとで伝令、使い番を務めます。その後、翌年の信長の上洛に従軍し、摂津の三好攻めにも参加し武功を立てます。永禄11年(1569年)、信長の仲介で摂津茨城城主の中川清秀の妹・仙と結婚し着々と立身出世街道を突き進んでいきます。
天正4年(1576年)山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官に任命され、禄高は300貫と少ないながらも各地を転戦します。また、天正6年(1578年)11月、摂津有岡城の荒木村重が突如謀反を起こし、義兄の中川清秀もこれに呼応するという危機に陥りますが、重然の説得により織田方に引き戻すことに成功しています。

秀吉に仕える

中川清秀肖像画

天正10年(1582年)、信長が本能寺の変にて横死すると、義兄の中川清秀と共に羽柴秀吉に与し、山﨑の合戦に参加します。またこの年、千利休の書簡から重然の名前が見られるため、この時正式に利休の弟子になったと思われます。
天正11年(1583年)正月、反秀吉派であった滝川一益の伊勢亀山城攻めに従軍、同年4月、反秀吉派筆頭の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いにも参加し武功を挙げるも、義兄中川清秀が戦死したため、清秀の嫡男秀政の後見人となり、中川家の存続に尽力しています。
翌年、秀政と共に小牧・長久手の戦いや、天正13年(1585年)の紀州雑賀攻め、四国征伐などにも参戦し、武功を重ねていきます。そして同年7月、秀吉は朝廷より関白の位に任官されると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部正(織部助)に任ぜられ、山城国西岡に所領3万5,000石を与えられます。大名となった重然はその後も、九州平定、小田原征伐に参加し、豊臣家の天下統一に貢献しました。

利休と織部

茶聖として名高い千利休

天正10年(1582年)、千利休と出会ってから重然は茶人としてメキメキと頭角を表わすようになっており、利休七哲の一人に数えられるようになります。
利休は重然の美的センス高く評価し、二人のやりとりの中でおもしろいエピソードが誕生しています。例に挙げると、

・利休が「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に二つ立派なものがあるが分かるものはいるか」と弟子たちに問うたところ、その場にいた重然は早馬で擬宝珠を見に行き、戻ってきた重然はその二つを見事に適中させた。

・ある日の茶席で重然は薄板を敷かずに籠の花入れを置いていたのを見て利休は「籠の花入れを薄板に乗せることは昔から皆やって来たことだが、私はどうも面白くないと思っていた。このことに関しては私があなたのお弟子になりましょう」と言い、それ以降利休は薄板を敷かずに直に籠の花入れを置くようになった。

泪(なみだ)

師と弟子という関係でありながらお互いに切磋琢磨し、尊敬しあう二人でしたがある日不幸が襲います。天正19年(1591年)、秀吉の勘気に触れた利休は突如切腹を申し付けられます。
このことに関しては諸説ありますが、主な理由として「大徳寺に自分の木像を楼門の2階に設置し、その下を秀吉に通らせた」、「安価な茶器を高額で売却し、私服を肥やした」などがありますが、豊臣政権の中で絶大な影響を持つようになった利休は秀吉にとって危険人物になっていたのは事実です。織部を含む利休七哲や、利休を慕う大名は奔走しますが助命は適わず、ついに刑は執行されてしまいます。
利休が刑場に向かう際、利休と親交のあった諸将は秀吉を恐れ、誰も見送りに来ませんでしたが、重然と細川忠興だけは堂々と見送りに行ったと言います。この二人は利休から遺品として茶器を授かっています。特に重然が授かった茶杓「泪」(なみだ)はまっすぐな美しい茶杓です。
「人と違うことをせよ、己を貫くべし」まるでそう訴えかけるこの作品を授かった重然は悲しみを胸にしながらも師の志を超えていくことを誓うのでした。

筆頭茶頭誕生!ヘウゲモノ也!

黒織部鷺文筒茶碗

利休死後、重然は名実ともに天下一の茶人に収まり、豊臣政権内での筆頭茶頭として活躍します。
天正20年(1592年)豊臣秀吉は大陸出兵を実行に移します。いわゆる文禄の役です。重然も秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れ肥前名護屋城に在番衆として留まりますが渡海はせず、各大名の饗応に応じています。また朝鮮より渡ってきた陶工を招き、新しい器の創作に励んでいたのではないかと思われます。

鳴海織部扇面鉢

慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉が逝去し、重然の父の重定が殉死します。
また重然はこの時55歳と高齢の域に達しており、家督を嫡子の重広に譲り伏見の自邸に隠居しています。翌年の慶長4年(1599年)2月、不安定な情勢の中、重然は親交のある大名、商人を招き茶会を催します。この時重然は新作の器を披露したところ、それを見た参加者はその器のデザインに驚愕してしまいます。また参加者の一人である博多の豪商・神谷宗湛は重然を「ヘウゲモノ也」と評しており、まさに「へうげもの」古田織部重然はこの時誕生したといっても過言ではないでしょう。
しかし、茶人として躍進を続ける重然とは別に、時代は新たな局面へと移り変わろうとしていました。

徳川将軍家茶の湯指南役へ

天下人となった徳川家康

慶長5年(1600年)6月、五大老筆頭である徳川家康は上杉景勝に逆心ありと見なし、会津征伐を決行します。その後、石田三成が挙兵したと聞くと家康は常陸の大名・佐竹義宣を説き伏せるよう重然に命じます。佐竹義宣は石田三成と親交があったので三成方に加勢するつもりでしたが、茶の湯の師匠であった重然の説得を受け、不戦を誓います。後方を安全にした家康は軍勢を西に反転、同年9月に両軍は関ヶ原で激突します。重然は家康方として出陣し、戦後に前述の活躍も含め一万石の加増を受けます。
関ヶ原の戦いの後、慶長5年(1603年)徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。
さらに2年後には将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、幕府の権力安定化に努めだします。
この際、家康は重然を秀忠の茶の湯指南役に命じ、重然は秀忠の師となります。
重然は将軍秀忠を始め、伊達政宗、加藤清正、浅野幸長や慈胤法親王、聖護院親王など多くの大名・貴族・寺社・経済界の著名人を弟子に持つ名実ともに天下の茶人となっていました。
慶長17年(1612年)には江戸にて「織部百カ条」著し、茶の流儀を定めます。こうして世の中を席巻する重然でしたが、次第に幕府は危機感を募らせるようなり、重然が持つ影響力を危険視し始める様になっていきます。

天下の茶人切腹 「申し開きも見苦し」

大坂夏の陣屏風図

慶長19年(1614年)豊臣家と徳川家の衝突は避けられない状況になり大坂冬の陣が勃発します。
浅野幸長とのやり取りをまとめた『茶道長問織答抄』に、「こんなに高齢なのに、どうして西へ東へと飛び回らねばならぬのだろうか。これでは病気になろうというものだ。寒い大坂に行くのも茶の湯のせいだ」と答えているので、重然も幕府軍として参加していたようです。
また、弟子の佐竹義宣の陣に寄った際、月夜の明るい日に茶杓の材料を求めて竹藪に入ったところ、重然の禿げ頭が目立ち大坂方に狙撃され、左目の上をかすめて負傷したといいます。

総織部獅子香炉

翌慶長20年(1615年)豊臣徳川両家の対立は苛烈さを増し、遂に大坂夏の陣に発展します。
さらにここで事件が起こります。重然の茶頭である木村宗喜が豊臣家に内通し、京都への放火を計画したという疑いがかけられ、重然もこの計画に関与しているとされたのです。
こうして重然は京都所司代の板倉勝重に捕縛されてしまいます。また幕府は重然は大坂冬の陣のころから軍の機密を大坂城内に矢文で知らせていたなどの罪状を挙げ、大坂城落城後の6月11日重然は切腹を申しつけられます。重然はこれに対し「かくなるうえは 申し開きも見苦し」と一言も釈明せずに切腹を受諾したと言います。享年73歳、また重然以外の親族も連座したため古田家は断絶してしまいます。

おわりに

黒織部芒文沓形茶碗

師である千利休と同様にその影響力・存在から死罪となってしまった重然、また彼の創作した「織部好み」と言われた器なども徹底的に排除されてしまいました。しかし重然の弟子たちや関係者たちはその後も活躍し、多くの作品を残しています。また彼の作品を見る限り、師の利休とは対照的に「歪み」を強調した作品が多く、独自の美を追及していたのが頷けます。さらに重然がコーディネートした会席道具の多くは、料理の多様化を推進し、現代の器に繋がっているように思います。
戦国の世でありながら数寄の世界で天下を取ったへうげものの影響力は現代の日本の器にも脈々と流れているかと思うと、とても感慨深いのではないでしょうか。

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