戦国武将伝 第七回 斎藤朝信

戦国武将伝 第七回 斎藤朝信戦国時代

斎藤朝信(さいとう とものぶ 1527年? -1592年?)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。越後上杉氏の家臣。

上杉謙信に仕えて「越後の鐘馗」の異名をとった斎藤朝信です。朝信は謙信政権下で政務奉行を務め、軍制上では上杉家精鋭部隊・七手組の隊頭でもありました。文武両方に優れた朝信は武骨者の多い上杉家にとって頼もしい存在であり、謙信の重臣として厚い信頼を受けています。今回は忠義、仁愛を重んじ、士卒をいたわり、百姓をいつくしみ万人から慕われた斎藤朝信の人生を追いかけて見ようと思います。

忠臣の家柄

越後国の武将・斎藤定信の子として誕生。斎藤氏の出自に関しては不明な点が多く、越後守護上杉氏の被官として歴史に登場し、上杉氏が越後守護となって越後に入部したときに関東から付いてきたものであろうと言われています。また代々、現在の柏崎市にある赤田城主で下野守を名乗っています。
齋藤家は古くから上杉謙信の父・長尾為景に仕えており、叛乱の多い家中の中で裏切ることなく主家に仕えてきたため為景から厚い信頼を寄せられていました。

上杉謙信

その後、為景が世を去ると長尾景虎(後の上杉謙信)が兄・晴景から家督を譲られ当主の座に就くと朝信は長尾藤景・柿崎景家・北条高広と連署して景虎の命令を厳守することを誓います。
また、主な戦役には若き頃から従軍していたとされており、このころには景虎から信頼を寄せられているのが分かります。
永禄3年(1560年)、景虎は越後に逃れてきた関東管領・上杉憲政の要請を容れて関東に出陣したが、この陣に斎藤朝信も加わり、翌年に憲政から上杉名字と関東管領職を譲られた景虎が鶴岡八幡宮で就任式を行ったとき、朝信は柿崎景家とともに名誉の太刀持ちをつとめます。

越後の鐘馗

道教の神・鍾馗

永禄4年(1561年)8月、上杉軍は甲斐の武田氏を討伐すべく信濃国川中島に出陣。世に有名な第四次川中島合戦です。この時、朝信は越中にて不穏な動きを見せる一向一揆に備えるべく山本寺定長とともに越中に出陣して上杉本隊の川中島入りを助けています。
その後も関東出兵に従軍し小田原城の戦い、下野の佐野城攻めや唐沢山城の戦いなど、朝信は各地を転戦して数々の戦功を挙げます。
また、謙信は敵城を奪取した際は決まってその城将に朝信を任命しており、軍政両面をそつなくこなす朝信を見込んでの人事であったといえます。
朝信は占領した土地を上手く治め、領民からも慕われたのでその働きから「越後の鍾馗」と呼ばれるようになります。

柴田勝家

実際、この時には朝信は上杉家の政務奉行と七手組の隊頭を兼務していたので”鍾馗”の異名に負けず劣らずの文武両道の名将であったことが伺えます。
その後、織田信長が北陸に進出してくると、織田家重臣・柴田勝家ら北陸方面軍と戦っています。

謙信死後の朝信

上杉景勝

天正6年(1578年)3月、主君であった上杉謙信が急死します。これにより、養子であった上杉景勝と上杉景虎との間で”御館の乱”とよばれる家督争いが勃発します。
景勝には、朝信をはじめ直江景綱・本庄繁長・上条宜順ら長尾家譜代の諸将が付き、景虎には本庄秀綱・河田長親・上杉景信・北条景広・柿崎一族らの諸将が加担したため、謙信遺臣を二分しての戦いとなってしまいます。

”御館の乱”追悼碑

初戦は景虎方が優勢でしたが、景勝は景虎を支持していた甲斐の武田勝頼と和睦交渉を持ち掛けます。この時、朝信は同じ七手組衆の新発田長敦と共に交渉役として出席し、武田勝頼との同盟締結に成功します。そして、外部勢力の干渉を巧みに排除し、家中の支持を集めた景勝はこの戦いに勝利し上杉家の当主に君臨します。
御館の乱終結後の天正8年(1580年)、朝信の活躍を景勝は高く評価し、朝信は刈羽郡の六ヶ所と景虎派の旧領を与えられます。また嫡子の乗松丸にも北条氏の旧領から恩賞地が与えられました。
しかし、この戦いで上杉氏の軍事力の衰退は否定しようがなく結果的に織田家北陸方面軍の進行を容易にしてしまいます。

激戦地となった魚津城

天正9年(1581年)、侵攻を開始した織田家の柴田勝家軍を朝信は越中魚津城で迎え撃ちこれを退けます。しかし、翌年に再び侵攻してきた柴田勝家は大軍をもって魚津城を包囲します。
朝信は魚津城を救うべく援軍を率いて魚津城に向かいますが、ここで朝信に関する記録は途絶えてしまいます。一説によればその年に病死、または高齢により隠居したとも言われています。

おわりに

その後、斎藤家は嫡子の乗松丸が跡を継ぎ、主君・景勝より一字を賜り景信と名乗り、景信の子の代には米沢に移り、上杉定勝から三百石を与えられ子孫は米沢藩士として明治維新まで存続しました。また、前述した通り彼の異名は”鍾馗”でしたが、武田信玄からは中国春秋時代の斉の名宰相・晏嬰に例えられています。朝信は一説によると文禄元年(1592年)頃に死去したともいわれていますが、もし関ヶ原の戦いまで存命していれば、朝信の外交手腕により、また違った上杉家の未来が見られたのかもしれません。

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