戦国武将伝 第十回 正木時茂

戦国武将伝 第十回 正木時茂戦国時代

正木時茂(まさき ときしげ 1513年-1561年)は、戦国時代の武将。里見家の家臣。

関東の雄である北条氏と熾烈な争いを続けた里見家。その里見家の全盛期を支えたのが「槍の大膳」の異名を取った正木時茂です。時茂は里見義堯に仕え第一次国府台合戦や上杉謙信の小田原包囲陣などで活躍し、敵方である北条氏康から「八州の弓取り」と評されるほどでした。また房総からは遠くはなれた越前国の武将・朝倉宗滴からも高く評価されています。

正木氏と稲村の変

稲村城跡地

永正10年(1513年)、正木通綱(時綱)の子として誕生。正木氏は三浦半島を中心に平安時代の末から鎌倉時代にかけて、房総半島にも勢力をのばして、東京湾の制海権を握っていた三浦氏の系統だといわれています。父である通綱は里見氏麾下の有力武将の一人であり、強力な水軍を保有する豪族でもありました。また通綱は里見氏から一族的あつかいを受けるほど厚遇されていましたが、天文2年(1533年)、里見家当主・里見義豊が当主の座を脅かす叔父・里見実堯を殺害する「稲村の変」が勃発すると、通綱もこの争いに巻き込まれ稲村城において誅殺されてしまいます。嫡子の弥次郎も父と共に殺害され、残った正木時茂と弟の時忠がかろうじて脱出することに成功します。

里見義堯の重臣となる

里見義尭

父、里見実尭を殺害された息子の里見義尭は義豊を討つべく兵を挙げます。生き残った時茂と時忠は里見義尭の寄騎となりこれに従軍します。初戦は里見義豊に押されて義尭・時茂勢は造海城に籠城しますが、義尭は宿敵でもある北条氏綱に援軍を求めると氏綱はこれを了承し援軍を送ります。援軍を得た義尭・時茂勢は城から打って出て妙本寺付近の合戦で義豊軍を破り、敗れた義豊は滝田城に撤退したが義堯・時茂勢は攻勢の手をゆるめず滝田城を攻略します。義豊は真里谷城の武田信保を頼って上総に落ち延び、上総の援兵を得て体制を立て直すと再び進撃を開始します。
里見義尭・正木兄弟・北条の連合軍と里見義豊軍は犬掛の地にて激突。両軍入り乱れての激戦となりましたが戦いは連合軍の勝利に終わり、里見義豊は敗走の際に討死。お家争いを制した里見義尭は名実共に里見家第5代当主となります。(犬掛の戦い)この戦いの後、義尭は再び正木氏を厚遇し時茂は里見家の重臣として列することになります。

勢力拡大

第一次国府台合戦絵図

その後、時茂は大膳亮と称し弟時忠とともに義堯に従い各地を転戦します。このころ里見義堯は真理谷武田氏の家督争いをめぐり北条氏綱と敵対関係になっており、強大な北条家に対抗するべく小弓公方の足利義明と同盟を結び対抗します。そして天文7年(1538年)、北条家と里見・足利連合軍の戦いが切って落とされます。(第一次国府台合戦)
しかし、里見義堯は総大将の足利義明の呑気な態度に敗北を予感し自軍を移動させます。結果、義明は戦死し、里見義堯はそれを聞くやいなや結局一度も交戦することなく戦場を離脱。義明の死亡により「空白域」と化した上総国南部に進出を開始します。

房総半島勢力図

時茂もこれに従い天文11年(1542年)に要害である上総勝浦城を落して弟の時忠を城主に任命し、2年後には真里谷朝信が守る大多喜城を攻略し時茂はここを居城とします。その後、時茂は大多喜城を拠点に安房東部の長狭郡から東上総へ進出し勢力を拡大し、大多喜をはじめ、勝浦・一宮・峰岡などに一族を配置し正木家の全盛を築き上げます。

槍大膳

時茂の槍捌きは関東に鳴り響いていた

里見家幕下の有力武将として各地を転戦する時茂の剛勇は各地にその名を轟かせていました。特にその槍使いは目を見張るものであったと言います。時茂の槍さばきに関するエピソードとして里見義堯が北条氏康と対峙した際のことです。撤退の際に殿を任された時茂は馬上で片手綱のまま敵を十数人刺殺し、そのまま悠々と引き上げたというものがあります。このような活躍から敵である北条氏康から「正木を始め八州の弓取り」と評されるほどでした。またこの時「大膳」を名乗る武将は時茂以外にも数人いたそうですが、この時流行した詩には「依田の大膳、銭大膳。矢田の大膳、逃げ大膳。正木の大膳、槍大膳。」と謳われ槍さばきを賞賛されています。

最後

関東の勇・北条氏康

永禄4年(1561年)初頭、越後の上杉謙信は北条氏康を討つべく関東の大軍を率いて出陣します。里見義堯もこれに呼応し上総西部に進撃を開始し、時茂は義堯の嫡男・里見義弘と共に上杉謙信の下に参陣し、小田原城包囲に加わります。しかしこの年の4月、時茂は突如この世を去ります。享年51歳。その後、時茂の嫡男である正木信茂が家督を継ぎ主君・里見義堯の娘を娶るなど大変期待されますが、第二次国府台合戦にて25歳の若さで戦死していまいます。養子の正木憲時が正木氏を継ぎますが天正9年(1581年)に主君・里見義頼に逆心ありと見なされ粛清されてしまいます。しかし里見氏を軍事面で支えてきた正木氏本宗家の消滅は里見氏自身にとっても大きな損失のため、里見義頼は次男の別当丸に正木氏の名跡を継がせて「正木時茂」を名乗らせています。その後里見家が無嗣改易されると鳥取藩池田光政に預けられ、寛永7年(1630年)に同地で没したといいます。また、時茂の弟の時忠の家系には後の徳川家康の側室として有名な於万の方がおり、その子である徳川頼宣が紀伊藩主となると正木氏は終生厚遇されたそうです。

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