戦国武将伝 第三回 堀秀政

戦国武将伝 第三回 堀秀政戦国時代

堀秀政(ほり ひでまさ 1553年-1590年)は戦国時代から安土桃山時代の武将・大名
織田信長・豊臣秀吉に仕えた。

「名人久太郎」と呼ばれ信長から寵愛を受けた堀秀政です。幼い頃より信長の側近衆の一人として重要され、信長死後は秀吉の家臣として天下統一まで活躍しますが、若くしてこの世を去っています。外交から合戦、内政までなんでもそつなくこなし「名人」と呼ばれた秀政、そんな「名人」の生き様を今回は紹介していきたいと思います。

信長の小姓

天文22年(1553年)、斎藤道三の家臣である堀秀重の長男として美濃国厚見郡茜部で生まれます。
幼い頃は一向宗の伯父のもとで従兄の奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたといいます。
最初、信長の側近・大津長昌、次いで木下秀吉(羽柴秀吉)に仕え、永禄8年(1565年)に13歳という若さで小姓・側近として取り立てられます。

現在の本圀寺

永禄11年(1568年)、信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮御所・本圀寺の普請奉行を任じられます。また各種の奉行職を務め、僅か16歳で信長の側近としての地位を確立します。
その後秀政は織田家の主な合戦に参加するようになり、天正3年(1575年)に越前一向一揆討伐に参加、天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐においては、佐久間信盛、羽柴秀吉らと共に部隊を率いています。
翌年、有岡城城主・荒木村重が反乱を起こすと、秀政と同じく小姓仕えであった万見重元、菅谷長頼らと共に鉄砲隊を率いて参陣しています。

信長と激戦を繰り広げた本願寺顕如

また、叔父が一向宗の僧であったため石山本願寺との交渉にも携わっており、天正8年(1580年)には石山本願寺との和睦と法主顕如の紀州鷺森への退城を促しており交渉に奮闘しています。
またこの時、本願寺顕如から「釋道哲」の法名を授かっています。

名人久太郎

天正9年(1581年)、第二次天正伊賀の乱にて部隊を率いて、信長の次男・織田信雄の補佐に当たっています。この時、信長から今までの功績を称えられ近江坂田2万5,000石を与えられます。
また信長の孫、三法師こと織田秀信の後見役を一任されています。

信長の嫡孫・織田秀信

翌年の天正10年(1582年)に甲斐の武田勝頼を滅ぼすべく、甲州征伐に信長と共に出陣しますが、信長の嫡子である織田信忠が滅ぼした後だったため戦闘には参加しませんでした。
その年の5月、武田征伐を祝して信長は徳川家康を安土城にて饗応しますが、急遽接待役であった明智光秀はその任を解かれ、秀政と丹羽長秀に接待役を命じています。

明智光秀は信長に対し不満を募らせる

饗応後、中国方面にて毛利輝元と対峙している羽柴秀吉の軍監として備中へと赴きます。
このように跡継ぎの後見役から同盟相手の饗応までそつなくこなす秀政はいつしか家中の人々から「名人久太郎」という渾名で呼ばれるようになります。
このままいけば秀政は信長の側近としてますます出世していくことは誰の目に見ても明らかでした。しかし、翌月に明智光秀が謀反を起こし本能寺にて信長は横死し、嫡男信忠も京にて自害してしまいます。

秀吉に仕える

中国大返し進路

備中にて羽柴秀吉のもとにいた秀政でしたが、信長死すの報を知ると直ちに秀吉と共に光秀を討つべく京都へと引き返し山崎の合戦に参加し明智軍を撃破、また光秀の援軍に来た明智秀満を坂本城へと退却させ、敗北を悟った秀満は先祖代々の家宝を秀政に明け渡し自害しています。

清須会議

その後、織田家にて清須会議が開かれ、秀政は丹羽長秀に代わって近江国の佐和山城を譲り受け、9万国の加増を受けます。また織田家新当主となった三法師の蔵入地の代官と守役を任されます。
その後、秀吉と織田家家老筆頭の柴田勝家の対立が激化すると秀政は秀吉に与し、天正11年(1583年)4月、越前北ノ庄の柴田勝家攻めに従軍。この時の活躍により従五位下・左衛門督に叙任されます。
2年後の小牧・長久手の戦いでは徳川家康を討伐すべく、三河侵攻軍の一部隊を率いて出陣。
しかし総大将の羽柴秀次が徳川軍の奇襲を受け敗走、秀政は敗走してきた秀次の重臣・田中吉政からの報告を聞くと、すぐさま敗走兵を組み込み徳川軍を迎え撃ちます。

小牧長久手の戦場所

徳川方の榊原康政、大須賀康高は余勢をかって堀勢に一気に攻めかかってきますが、秀政はこれを伏兵を用いて挟撃し徳川方を敗走させことに成功。しかし家康本体が迫っていることを知ると自軍の不利を悟り秀政は部隊を撤退させます。この時、別部隊を率いていた池田恒興、森長可と言った諸将が戦死しているなか秀政だけ武功を挙げ生還しています。

織田家重臣だった池田恒興は戦死してしまう

天正13年(1585年)に秀吉が関白に叙任すると、秀政も従四位下・侍従兼左衛門督に任ぜらますが、この間も三法師こと織田秀信の後見人を務めており、織田家への忠誠を忘れていないことが分かります。同年、紀州征伐、四国の長曾我部攻めでも軍功を挙げ、丹羽長秀の遺領であった越前国北ノ庄18万石を授かります。

名人陣中に没す

天正15年(1587年)、秀政は九州征伐の先鋒を任されます。
豊臣軍は大軍もあって連戦連勝を飾りますが、この時秀政は敵の島津軍の兵を捕虜にした際、
「後三日はもちこたえてくれ。連日の勝利で疲れが溜まっている」と皮肉たっぷりの文が書かれた書状を捕虜に渡して逃がしたところ、これを見た島津家の諸将は敗北を悟ったと言います。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして小田原征伐を行うと秀政はこれに従い出陣し、北条家の支城を攻略していきますが陣中で秀政は病魔に犯されてしまいます。

秀政自身が書いたと言われる自画像

そして小田原城包囲中の5月、秀政は陣中にてこの世を去ります。38歳という若さでした。
秀政は死の直前まで織田家の将来を案じていたと言います。
小田原包囲の軍の中には秀政が長年後見人を務めた織田秀信も参陣していましたが、果たして秀政死去を知った秀信は何を思ったのでしょうか。

その後の堀家

秀政がこの世を去ると嫡男である堀秀治が跡を継ぎ、従兄である堀直政(かつての奥田直政)が家老を務め家中を支えます。直政は秀吉から「天下の三陪臣」と称されるほどの能力を持っており、直政の働きもあって慶長3年(1598年)越後春日山45万石に加増されます。

堀直政像

また秀吉死後に関ヶ原の戦いが起こると徳川方に参戦し、越後旧主上杉景勝の煽動を受けた一揆軍の攻撃を受けるもこれを鎮圧し、堀家を存続させることに成功します。
その後、秀政の孫にあたる堀忠俊の代でお家騒動により改易にあってしまい、直政の家系も後に改易となってしまいます。

長慶寺

「名人」と呼ばれた堀秀政の家名が保たれなかったのは残念ですが、現在は福井県にある長慶寺に位牌と墓所のひとつが伝わり、同寺ではかつて北ノ庄城主であった秀政に対し、毎年供養祭が行なわれています。

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